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山の挽歌-松田白作品集- › ふるさと上野の思い出

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2011年01月29日

ふるさと上野の思い出

 六月のある日、私はふるさとの町、上野を訪ね、かつその思い出の跡をたどってみようと思った。それは十七年に満たない「ふるさと」に過ぎなかったが・・・。
 広小路は、すっかり変わってしまった。私の記憶に残る店は風月堂、亀井堂、三橋の永藤くらいしか見当たらなかった。池の端仲町、今はない懐かしい町名である。母は毎夜のように、嬰児の私を背負って、広小路からこの町を一回りして帰ったという。寝つきの悪い私が、三味線の忍び音を聞くと眠ったそうである。つまり子守りだったらしい。組紐の道明、指物師京屋、三味線の菊屋など、未だ残る昔ながらの店の看板を追ってキョロキョロしている私に、一枚のビラが手渡された。裏ビデオの店の広告だった。
 久方ぶりの不忍池の蓮は、さすがに清々しい。東京の真中に育ちながら、幼少の私には故郷の山河があった。不忍池と上野の山である。鳥もちをつけた竹を肩に、蜻蛉を追いまわすのが幼少時の私の日課だった。一度、いつも一緒についてくる妹のオカッパ頭を釣ってしまったことがある。引っ張れば泣くし、私も泣きそうだった。
 私は多くの子どもがそうだったように、メンコを打ったり、神輿を担いだ経験がない。人の混み合うお花見は嫌いだった。
 あの頃、地獄の音を聞きに行った穴の開いた石は、今でもあるだろうか? 私の足は弁天堂裏に向かった。あるにはあった。が、記憶よりずいぶん小さかった。小さな石塔のような、頭が入るくらいのアーチ型の穴が穿ってある。これは線香立てだと気がついた。池の真中だから、強風のとき火がつけにくいのだろう。地面すれすれに置いてあって、確認するのは難しい。頭を突っ込むには一工夫いる。周囲に人のいないのを確かめて、私は四つん這いになった。確かに本物だ。地獄の音が聞こえた。首を出したり、入れたりしていたら、後ろで人の気配がした。母娘らしい外人が、笑いをかみ殺していた。彼女たちも、悪いことをしたと思ったのだろう。「ホワッティズディス」ときた。困った。線香立ての英訳なんてできたもんじゃない。仕方がないから「地獄の音がするんだ。聞いてみないか」といったら、勇敢な彼女たちは交互に頭を突っ込んだ。特に、太ったオバサンの格好ったらなかった。

 関東大震災のとき、私は八つだった。弁財天の外廊をお借りして過ごした一夜、池を取り囲む空は真紅に燃えていた。唯一、谷中の空だけが暗かった。曽祖父はそれを指さし、「明日はあっちに逃げる」とひとこというと、泰然と動かなかった。怖いと思わなかったのは、曽祖父と満々と水をたたえる池があったからだろう。父は神経衰弱で転地療養中だったのである。
 私がもっとも幸せだったのは、幼少期と小学生時代だったろう。毎年、夏には葉山や伊香保等へ母と妹などと出かけて、秋まで帰らなかった。曽祖母は笑うとお歯黒の目立つ優しい人だった。私は胴乱と捕虫網は手放さなかった。理科の授業が一番好きで、「子供の科学」が愛読書だった。当時、お茶の水にあった科学博物館を知ると、土曜日には往復の徒歩もいとわず通った。科学映画の上映がお目当てだったのである。
 この頃の父は、私にはまるで謹厳がそこに座っている感じで、何となくなじめない存在だった。算盤が得意で、四桁の数字をいわせて暗算で答えを出した。算盤を頭に置くのだそうである。広小路の大通りを、荷車を曳く馬の糞が微かに匂う時代だった。そうした日常の中で、私は父が変な宗教に凝っているという噂をチラと耳にした。モボ、モガの流行語を残して、大正は終わる。そして、昭和を待たず曽祖父が大往生を遂げた。八十一才だった。
 弘元の生まれで、幕末、明治、大正の変動期を、家計を支えてきたこの人の寺小姓以前の生い立ちを私は知らない。絵を描くのが趣味だったが、お酒は全く飲まなかった。私がこのとき知ったのは、曽祖母が三度目の妻だったことである。物静かな夫妻で、私には優しい人だった。むろん、母にもそうだったに違いない。葬式の夜、父はお酒に酔って、上機嫌だった。卓子の上の花瓶敷きを「こりゃ何だ」と転がした。「これ僕がもらっとく」。私は机の引き出しの奥にそっとしまった。私が不忍池で拾った蓮の果托を曽祖父が乾燥と押圧を繰り返してつくったもので、蓮の子実の跡が円形に並び、渋い模様が美しい花瓶敷きだった。
 家系は典型的な母系家族で、曽祖父自身も養子だった。その後も家族には三人の入聟が続く。十三代目にはちょっと凄まじい余談がある。彰義隊の戦乱のとき、店に覆面の男が押し入り、軍資金を強要した。その西国訛りに反発した彼は、要求を突っぱねた。代償は彼の右腕、一刀のもとに斬り落とされたのだ。維新は商家にも無縁ではなかった。彼の腕はアルコール漬けにされて瓶の中に保存され、迷惑をこうむったのは大正生まれの私であった。いうことをきかないと、瓶に入れられた片腕を見せると脅された。
 多分、明治も末に近いころだったろう。界隈にひとつの風聞がささやかれたという。曽祖父が黒岩涙香の小説のモデルだったとか・・・。そんなことを母に聞いたまま、私はほとんど忘れていた。ずっと後のこと、何気なく読んだ「たけくらべ」の中に「坂本の世話好きな油屋のご隠居・・・」という一節があるのに気付き、あのルーツはこれか、と苦笑した。八十歳まで生きたという、あの片腕のおじいさんは、この時期、確かに坂本に住んではいたのだが。
 私にとって、明治は霽(は)れ得べくもない霧の中の時代なのである。

 私は上野公園への石段は登らず、谷中への道をとった。私の母校、市立二中(現在の上野高校)があるからだ。学校は新校舎の建築中だった。
 曽祖父が亡くなった翌年、私は中学に入学した。屋上の天体観測のドームに魅かれたのである。入学早々のことである。浮かれ気分の新入生数人が塀を越えて隣の動物園に入った。翌日、校長室に呼ばれて絞られたらしい。
 私は内心、しめた、と思ったのだが、次の日に一人だけ呼ばれた。「お前も入ったろう」といわれたので、「いえ、登ったけど入りません」といったら、「同じことだ」と怒られた。
 私の姓は忘れても名前だけは覚えていて、ことあるごとに「白君」ときた。私は、変な名をつけてくれた親父を恨んだ。
 校長は人格者だったが、ただ一つ、祝祭日の講話の延々二時間の長口舌にはまいった。この「浪費時間」をどうしよう。考えた末、私は講話を無視して、他の楽しい空想や考えごと等をすることに決めた。多少の訓練は必要だったが・・・。山好き、読書好きの私は、空想の時間に飢えていたのである。
 校風にも馴れ、友人もできたが、同時に私の家庭生活にも新たな変化が進行していたのである。それはともかく、夏休みに行われた大菩薩峠山行への参加をきっかけに得た親友との山行が多くなった。それは雪山への憧れを誘発した。私は小遣いを貯めスキーを買った。中古の軍靴のかかとに釘を打ち、締め具を止めた代物だったが、土踏まずに荒縄を巻き付け、スキーツアーにもでかけた。大雪が降れば、上野公園で滑ったこともある。
 一方、読書にも熱中したが、ほとんどは黒岩涙香などの翻訳物で、モンテクリスト伯、ああ無情、紅はこべ等である。お陰で、学業の方はおいてきぼりになった。
 ある日、私は床の間の村正の小刀がなくなっているのに気付き、父に聞いたら、沃刀だから売ったという。しかし、正宗も粟田口も、次いで大観や華山の掛け軸もいつの間にか消えた。店に目つきの悪い男たちが出入りした。私は来るべきものが形を現したなと思った。のんきな私にも、この二、三年の我が家の家庭事情が把握されてきたのである。
 私が生まれた頃、叔父は少年だったため、曽祖父は店の経営を父に委ねて隠居したのである。後、叔父は結婚したが、ほどなく震災に遭遇したのである。店の再建は世間知らずの叔父には無理とみたのだろう、父の経営が続いた。
 店には三家族が住んだ。同居する大家族の人間関係と曽祖父の無言の影の狭間にあって、父の心労は大きかったに違いない。が、所詮は一店の収入で三所帯を養うことは無理があった。父は一人苦闘したようだが、結局は大きな負債を背負ってしまった。父はそれを曽祖父にも叔父にも隠していわなかった。否、いえなかったのだろう。これは私が父の古い友人だという人に聞いたのだが。
 中学卒業を前にして、私の家の倒産は目に見えていた。震災の痛手が後をひき、これに父の信仰が重なった。「屋敷を払って立ち退きたまえ」となった。生来のんきな私もさすがに進学の成否は気になったが、考えたってはじまらない。なるようになるさ、で片づけた。私がどうやら進学できたのは、父が残してくれた学費と母のヘソクリのお陰である。
 その後、私たち家族は坂本の店に移った。

 私が坂本町に住んでいた頃、寛永寺から俗に霊屋(たまや)と呼んでいた徳川の霊廟(れいびょう)横、を鶯谷に抜ける路は、丈高い樹木の繁茂する淋しい路だった。坂本町にいたころの私の通学路で、夕暮れは梟が鳴いて薄気味悪かったが、私はこの静かな路を愛した。だが、まるで変わっていた。上野中学の白いビルが建ち、校庭でバレーを楽しむ生徒たちがいる。この辺は椎や樫の疎林で、笹の緩い斜面だった。大雪が降るとスキーを担いで滑りに来たのも、ここと精養軒前の摺鉢山や、清水寺の紅葉山だったが・・・。あのころの建物はもうないのだろうか?
 鶯谷にあった東北線を見下ろす草原は鉄筋のアパートや会社のビルに変わっていた。それらの間に挟まって、真如院の壊れかけた門が、そして現龍院の墓地が見つかった。三代目徳川家光に殉死した人々の墓所である。一休みしようかと見まわしたが、隣はモータープールで、観光バスがずらりと並んでいる。その中の数台はエンジンをかけっぱなしで客の戻りを待っていた。しかたなく、私は両大師小門から湿った敷石を踏む。霧雨が降りてきた。門をくぐった私の眼に紫陽花の青い手毬が色鮮やかに浮かんだ。
 ここは幼いころからの遊び場だった。アキアカネが空を染めるころ、ツクツクボウシが夏を惜しんだ。夕焼けに蝙蝠の飛び交うのを見ると、はじめて家路についたのである。
 故郷の寺の実感が初めて私の胸を蔽った。薬医門の前に立ったとき、私は古い友人に会ったような気がした。銀杏の大木が彼を守るように取り囲み、緑の大手を拡げている。しかし、彼は毅然として立っていた。彰義隊の戦火で肌を焼かれ、弾痕を残しながら、寛永寺本坊の門として切妻の屋根を支え続けてきたのである。私は傍らの石積みに腰をおろして、チョコレートを口に含んだ。ふっと思い出したのは、西独モーゼル河畔の町、トリーアのポルタ・ニグラだった。二千年前、古代ローマによって築かれ、いく度かの戦火に焼かれ、四階一部を失って、名の通り真っ黒な鵺のように蟠る石造のポルタ。規模だけは比較にならないのだが・・・。私は改修され保存される国立博物館の池田屋敷門は親しみがわかないのである。「まだまだ大丈夫さ」。私は立ちあがり、握手の代わりに塗料の剥げた木肌にそっと手をあてた。肌は湿って冷たかった。

 故郷の上野の町を去る日も近い初夏、母は珍しく私を墓参りに誘った。もとは深川にあったという一族の墓地を、谷中の天王寺に移し替えたのは曽祖父だった。墓地には大型の累代の墓の他、小型の墓がある。直系以外の家族も葬ったものらしい。二つとも、曽祖父が建立したものである。過去帳に載る明治年間の死者十数名は信女、童女の名が多かった。曾祖父は葬儀のために生まれてきたような人だと私は思った。母は、弟と共に祖父(私の曽祖父)に育てられ、ほとんど親を知らない姉弟だった。
 帰途、母は「寛永寺さんにご挨拶してゆきたい」といった。寛永寺本寺は通り過ぎ、母が行ったのは鶯谷に近い、何れも東叡山を冠する黒塀の寺町だった。私の網膜に曽祖父のロマンが蘇ったのはもちろんである。私は「ここで待ってるよ」と母にいい、低い築地に腰をおろした。路地の敷石に長い影を落として、母の姿が門に消えた。あとには、紫陽花の青い毬だけが目に滲んだ。黒い絹の着物に黒字の帯、母にとってこれが最後の正装になるのではと、ふと私は思った。その母が世を去ったのは今年三月、九十五才の生涯だった。

*    *    *

【解説】
松田まゆみ

 2010年の秋、実家の片づけをしていたら、紙袋に入った父の原稿が出てきた。どうやら生まれ故郷である上野についての回想らしい。完成した原稿ではなかったが、上野に関する資料や家系のメモも一緒に入っている。ワープロでその原稿を入力し、つぎはぎをするようにつなげてみたのがこの随想である。この原稿を書いたのは父の母が亡くなった年だから、1989年、父が74才のときだ。
 父は大正4年生まれで、生家は上野広小路の「山崎屋」という油屋である。この油屋のことは「ボン・スキー」にも出てくる。「上野一丁目一番地」という住所によほど思い入れがあったのだろう。そこから本籍を移すことはなかった。私も北海道にくる前までは、この上野一丁目一番地に本籍を置いていた。
 父の父、すなわち私の祖父は怪しげな宗教にはまり、それが家業の倒産にも影響したらしい。そんなこともあってか、父は宗教が大嫌いで徹底した無神論者だった。
 父の母、すなわち私の祖母のことは私もかすかな記憶がある。私たち家族が新宿に住んでいた6年ほどの間に、何回か訪ねてきたことがある。いつも和服で、物腰の柔らかい温厚で上品な人だった。それなりに恵まれた生活から一転し、家業の倒産という苦労と悲哀を味わった父にとって、母の存在は大きかったようだ。母への思慕は、「」「こぶし」などの詩からも伝わってくる。
 人は誰でも生まれ故郷にいいようのない郷愁をもっているものだ。父は昔のことをほとんど語らなかったが、上野の杜にフクロウが棲みついていたことや、中学時代に校長先生に叱られ始末書を書かされたことなど、懐かしく話してくれたことがある。私がまだ子どもだったころ、父と二人で上野に行ったことがある。どこをどう歩いたのかはよく覚えていないが、動物園をひとめぐりしたあとに弁天様の裏の「地獄の音」が聞こえるという石の線香立てにも連れていき、石の穴に頭を突っ込んでその音を聞いた。たしかに、不気味な低い音がしたのを鮮明に覚えている。あのときもふるさと上野をしみじみと回想していたのだろう。
 父の子どものころとはすっかり変わってしまった上野だが、私にとっても上野公園や不忍池、谷中霊園は郷愁の漂うところだ。上野公園に取り残されたわずかな森や、ひっそりと佇むお寺などが、かすかにかつての面影を残しているのが救われる。
 幼児期の楽しい思い出と、青春時代の苦い思い出のつまった生まれ故郷のことは、父の頭から一生離れなかったのではないだろうか。その思いが74才の父を上野に向かわせ、この原稿を書かせたのだろう。
      


Posted by 松田まゆみ at 16:00Comments(2)ふるさと上野の思い出