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山の挽歌-松田白作品集- › ボン・スキー

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2009年01月01日

発端

「あんな長い板っきれを足にくっつけて、この寒いのに雪の上を滑って・・・・・・いったい何が面白いんだ。よせよせ、足でも折ったらどうする。運動ならほかにいくらでもあるだろう。お父さんは反対だな」
 酔っぱらってご機嫌のはずの親父だったが、どうも形勢はあまりよくない。こんな時にと思って五十銭で買収した妹の奴だったが、応援はさっぱり熱が入っていなかった。一円というのを五十銭に値切ったかららしい。暮れだから、必ず親父が酔っぱらって帰ってくる日がある。それを待って交渉した方がよいと言ったのは妹なのだ。「応援しろよ」と目顔で親父の後ろに突っ立っている妹に合図を送った。妹はまず舌を出し、それから五十銭銀貨を一枚取り出して指に挟み、もう一方の手の人差指を立てて片目をつぶった。もう一枚よこせというのだ。「チクショウ、人の弱味につけ込みやがって」と思ったが、ここで親父を陥落させなければ、スキーは永久に駄目になりそうである。残念ながらOKの合図を送った。彼女はニヤリとした。現金な奴だ。途端に親父に対して交渉を開始した。
「お父さん、買ってあげなさいよ。何をやったって危険はあるわ。現代青年としてスキーくらいできなくては駄目よ。それに五円で全部揃うんだったら安いじゃない。玉撞きやマージャンなんかやるよりよっぽど健康的でいいわ。そう思わない? ねえ、お父さん!」
 と後ろから親父の首にとりついた。いやカジリついた。
「私もやりたいわ、スキー。でも女の子だから遠慮するわ。ねえお父さん、買ってあげなさいよ、ねえっ!」
 こんな態度と鼻にかかった「ねえ」は、中学三年の男の子にはとても真似のできたものではない。親父は特に妹に弱い。
「何だ、おまえは。おまえの出る幕じゃないぞ」
 と言いながら、親父の声はあまりオッカナイ声ではない。
「わっ、お酒臭いっ。いやねえ、また宴会でしょう」
 ちょっぴり親父の痛いところをつく。
「つき合いだからしょうがないさ」
 と親父。ここで言い訳をさせるのがコツらしい。
「ねえ、Sさんはもうお父さんのお許しが出たのですって・・・・・・。うちのお父さんだって理解のあるお父さんだわよ。ね、悪いことじゃないんだもん、いいじゃない。ねえ、ねえってば・・・・・・」
「うーん、おまえが出しゃばるのは変だぞ。共謀しているな、そうだろ?」
 と言ったが、どうも心細い抵抗である。
 Sは私の同級生だが、家は私のところと同じ程度の商家であった。それだけに親父やおふくろにすれば、比較対照とするのに格好な家ということになる。あそこでやったのだから・・・・・・という、頗る自主性のない商家特有の世間体、競争心みたいなものもあったのである。
「あそこは三男坊だろう? うちは長男なのだから」
 これは親父の失言だったらしい。俄然、妹の声の調子が変わった。
「アーラ変よ、それは変よ。長男だから危険なことはいけないっていうの? 三男だからいいの? 封建的よ、そんな考え。そうすると私なんかどうだっていいっていうことね、くやしいっ」
 妹はいきなり両手で剃り跡の青い親父の顎を、ごしごしこすりつけて大げさに悲鳴をあげた。
「痛いっ、このおヒゲ」
「馬鹿、そうじゃない。しょうがない奴だな。ほんとうに五円でいいのか、五円きりだぞっ」
 親父はあっけなく陥落した。「だらしのない親父だ」と言いたいところだが、しかしこっちにはそう言えない弱みがある。妹は、すばやく親父の内ポケットに手を突っ込んで財布を引っぱり出した。ついでに脇の下あたりをくすぐったらしい。
「うわっ、くすぐったい。おいコラ、返せコラッ」
「私が出してあげる。お父さんの手を煩わしては悪いからね。うわ、沢山あるわ、お父さんのけちっ」
 かくて、わがボン・スキーは虹色の幕を引き上げたのである。
 シーハイル、ハイル! ハイル、ハイル!

*ボン・スキーのボンとは、フランス語で「良い」「幸せな」という意味である。
  

Posted by 松田まゆみ at 16:45Comments(0)ボン・スキー

2009年01月02日

スキー第一号

 翌日の日曜日、妹に掠奪された一円を差し引いた金四円也と幾許かの小遣いを持って、私はSの家に行った。
「成功したぞっ」と言うと、彼は読んでいた本を差し上げて、「そうか、よかった。今、勉強中だ」と言った。
 学校の予習かと思ったら、さにあらず、スキーの手引書だった。彼の兄貴の友達から借りたのだという。
 当時本屋の店先には、高橋次郎著の「アールベルグスキー術」という本のほか、二、三冊の本が見当たるのみで、今のように本屋の店先に行けばスキー技術書がごろごろしているというわけにはいかなかった。しかし、私たちには唯一の頼りだったのである。善は急げだ。二人は準備の項を熟読してからさっそくデパートへ出かけたのである。
 一番安いイタヤの単板(ラミネートスキー等というものはなかった)の中から、教科書通り、節のない板によじれのないものを選び出し、フィットフェルト締め具、東京(トンキン)竹の両杖ともで、二円八十銭也。これをくれと言ったら、「スキー靴は?」ときた。
 よく聞いてみたら、フィットフェルト締め具は、バッケンなる鋼の板をスキーの横っ腹に穴をあけてそれに打ち込んで通し、靴に合わせてその板を曲げて取り付けるのだという。
「二、三日靴をお借りしなければなりません」と言うのだ。
 学生靴で間に合わせるつもりの私達は、ここで靴をとられてしまっては裸足で帰らなければならない。念のため「学生靴では?」と聞いてみたら、「まあ、駄目ってことはありませんがね。一回スキーに行ったら壊れちまったってことになるかも・・・・・・」と言ってにやにや笑った。いやな奴だ。
 そして続けて、「靴を取り替えたらバッケンに合わなくなるし、バッケンを曲げ直すのは無理ですからね。スキー靴をお買いになったら・・・・・・」とちらちらウィンドウの中に並べられたスキー靴の方に目をやる。二人とも、慌ててどぎまぎした。靴はもとより予算の中に入っていないから買えるはずはなかった。
「あの、その・・・・・・ちょっと考えてから後で来る」
「うち、うちにあるかもしれないから」
 何だか、自分らで考えても辻褄の合わないようなことを口走って、金二円八十銭也を支払うと、「ともかく今日中にまた来るから」と言い置いて、デパートを飛び出した。師走の寒風が額の冷汗を吹き払って、ぞくぞくときた。
「どうしよう」
「弱ったな」
「ウッ寒っ。そば屋へでも入って考えようや」
 何しろ、今日中に靴をデパートに持っていかなければならないのだ。そば屋はツケのきく行きつけの所があるし、第一安い。そば屋のテーブルに腰をかけて、額を突き合わせた。
「そうか・・・・・・学生靴では壊れちゃうか」
「そうだろうな、スキー靴はゴツイからな」
「俺は残り一円二十銭だぜ」
「俺は二円二十銭、二人合わせて二で割っても一人前一円七十銭か」
「軍隊靴も買えねえぞ」
「まだほかに買うものが沢山あるしな」
「おい、必要なものを書き出そうや」
 私達はそばの薬味を包んである紙を裏返して、鉛筆で必要と思われるものを書き出した。スキー靴、スキー帽、スキー眼鏡、スキー手袋、登降両用ワックス、パラフィン、スキーゴテ、亜麻仁油、保革油、固形燃料のメタ等々、どう考えても足りなかった。「あの一円があればなあ」と思うと、妹のがめつさが癪にさわったが、今さらどうしようもない。わが家の商いは油問屋だったから、亜麻仁油や保革油は店のをチョロマカせば事足りる。パラフィンも商売物のローソクでいい。例の教科書にはメルク製の、やれ融点は何度のものと難しいことが書いてあったが、ローソクで滑らないことは万々なかろう。手袋はおふくろに編んでもらう。眼鏡は? 眼鏡は要らないのではないか?
「そうだ、雪国の子が眼鏡をかけているのを見たことがないぞ」
「訓練すれば、眼の方で慣れてくるさ。スパルタでいくとしよう」
「帽子は? 学生帽じゃどうだ? 耳が凍傷でやられるかもしれない」
「うんそうだ。兎の毛皮で作ったアレはどうだ。ほら耳だけ被せる赤ん坊のよくやっている奴」
「なんぼなんでも、あれはちょっと恥ずかしいよ」
「いいじゃねえか、この際だ、我慢しろ」
「要するに頭にスキーと名のつく奴は、皆取り止めってことだな」
「ということで靴は中古軍隊靴ってとこかな」
「あーあ、とうとう落ちるとこまで落ちたか」
 そこへ、そば屋のオヤジがのこのこやってきた。
「何をごちゃごちゃやっているんだね。だいぶもめているようだが?」
 というこのオヤジは、前から懇意にしている。相談に値するとみたから、私はわけを話した。オヤジはちょっと考えてからこう言った。
「いいことを教えてやる。車坂に行ってみな。あそこに軍隊の払い下げ品ばかり売っている店が二、三軒ある。払い下げ品そのものだけではない。払い下げの服地や皮等でいろいろな物を作って売っているから、大概の物は間に合う。安いこと受け合いだ」
「ほんとにあるかなあ」
 異口同音に私達は言ったが、「まあ、だまされたと思って行ってみな」と言う。靴は立派なのが一円くらいだというのだ。それがほんとうならば「神は自ら助くるものを助く」である。急に元気が出てきて私達はそば屋を出た。
 あった、あった。実にいろいろな物があった。軍隊服、オーバー、ズボンからトンビまであった。革製品では靴、乗馬靴、カバン、バンド、ハンドバック。金属製品は飯盒、鍋、コップ、サーベル、ナイフ、磁石等々、山積にされたり、天井からぶら下げられたり、品物は埃を被っていかにも安そうであった。
「おい、あれを見ろよ。あるぜ、あるぜ」
 Sが指差したのは、例の兎の毛皮で作った防寒用耳輪だった。
「ウヘッ、いやなものまで売ってやがる」
 軍隊靴の山をひっくり返していたら、店のオヤジが出てきて、「ハイキング用かね?」と言う。「いや、スキー用だ」と言ったら、「ああ、それならちょうどいい奴がある」と、店の奥から靴を二足ぶら下げてきた。
 靴先が山椒魚の頭みたいで、ひどく不格好な奴だった。
「これなら飛んでも跳ねてもすり剥けるのは足だけだ」と言う。
「ゴツイけど、格好が悪いな。いくらですか」と聞いたら、八十銭だと言う。
「こいつはね、職人にガッチリした奴を作れと言ったら奴さん、こんな不器量な奴を作ってしまいやがった。よほど物好きなお客でなければ買わないと思ったので、店に出さなかったのだ。とオヤジがぼやいた。
「でもね、学生さんのスキーにはいいだろう。まあいいや、七十銭にしとこう」と、値切りもしないのに値を下げた。
「ほかにも要るものがあるだろう。スキー帽はどうだね」ときた。
 そのスキー帽なる物は、ちゃんとスキー帽にできていた。ただ、カーキ色の軍隊服か何かの布地で作ったらしく、黒く染めてはあったが、いささか羊羹色をしていた。
「しめて、一円十銭でどうかね」と言う。
 私は「しめた!」と思った。これでどうやら兎の耳輪から逃れることができる。Sと目顔で相談して「買うよ」と言ったら、「こいつも要るだろう、眼鏡だ」と言う。その眼鏡は夜店で売っている着色セルロイドの光線よけ眼鏡だったが、眼鏡なしよりはましだろう。
「セルロイドか」と、気のなさそうな返事をしたら、「暮れだから、大まけにまけて全部で一円五十銭にしとこう」と夜店のバナナ売りみたいにハタキで靴をひっぱたいた。五銭お釣りがくる。バンザイだ。私達はもちろん全部を買った。
「靴はもうけものだぞ、チャリ皮だ。裏皮で作った軍隊靴なんか問題にならないよ。水だって染み込みはしない」
 さすがは馬具屋の息子だけあって、学がある。チャリだか砂利だか知らないが、私とは見所が違っていた。
 大手を振ってデパートに戻り、ウィンドウの上にドタンと靴を置き、「これに合わせてください」と言ったら、さっきの店員が、靴と私達を見比べて、「なるほど、これなら壊れませんね」と言った。ザマーミロである。
 今度は意気揚々と、またまたそば屋に入った。何しろそば代一人前分の金五銭が残ったのである。そば屋のオヤジに感謝の意を表さなければならなかった。
  

Posted by 松田まゆみ at 12:47Comments(0)ボン・スキー

2009年01月04日

準備

 出発までの十日間はひどく忙しかった。何しろ第一号のスキーである。何ものにも代え難き可愛い奴である。まずせっかく塗ってあるスキーの塗料を、ナイフとガラスの破片で全部削り落とした。現代のスキーヤーには理解し難いことかもしれない。そのために私はわざわざ透明塗料の塗ってあったスキーを選んだのだ。例のスキーの教科書には、こう書いてあったのだから仕方がない。スキーの塗料は剥げ易い。剥げた所から水が浸透するのはスキーのためによくないので、塗料は全部剥がして亜麻仁油を塗り、乾いたらまた塗って油を木部に染み込ませろというのだ。
 第一号の恋人に対して、なんでこの努力が惜しまれよう。私は塗料を削られ、ざらざらになったスキーの木肌を丁寧に紙やすりの細かい奴で磨き上げた。そしてその真白になった肌に、亜麻仁油を塗っては乾かし、塗っては乾かして、ついに琥珀色の肌に仕上げたのである。「馬鹿みたい!」なんて言うなかれ。涙ぐましい努力だったのだから。
 次は靴だった。靴の油をせしめるために、店の者を誰かおだてあげる必要があった。新潟の産だという番頭に目をつけて相談してみたら、すぐ乗ってきた。しかし、これがいささか失敗だったのだ。後で聞いて知ったのだが、彼は何でも知ったかぶりをする癖があった。「雪の山は寒い。靴に塗っても凍ってしまうような油では役に立たない。それにはモービル油がいい。あれなら零下二十度でも凍らない」と言うのだ。私が「鉱物油よりは、塗るのだから馬油がいいのではないか」と言ったら、「いや、あれは凍るから駄目だ」と言う。行きがかり上、やむを得ず私は承諾した。ところが番頭が油を塗るように申し付けた小僧が、塗るのが面倒臭かったのだろう、モービル油の入った鑵の中へ三十分ばかり靴を漬け込んでしまった。それでも気をきかしたらしく、靴底が上に出してあったのは不幸中の幸いであった。
「このくらい染み込んでいればいいでしょう」
 得意顔に、まだポタポタと油の滴っている靴をぶら下げてきた小僧を見て、私は怒る気にもなれなかった。仕方ないから新聞紙で拭いてみたが、拭けども拭けども、拭いきれるものではなかった。こいつを履いたら靴下も足も油漬けになること請け合いだった。指で押すとジュブジュブと油の染み出てくる靴を前に私は長嘆息したが、自分でやらなかった罰だと思い、あきらめてそのまま履くことにした。
 自分の靴でよかった。Sの靴はまだ油漬けしてなかったので、私は身銭をきって肉屋から馬の脂身を買ってきて鍋でジュージューと焼き、染み出た油をSの靴に塗った。
 パラフィンは倉庫に行ったら、折れて売り物にならないローソクがごろごろしていたので、拾ってきて鍋で溶かし、石鹸箱に流し込んだら結構見られるものができた。面白かったのでSにもやるつもりで六個ばかり作っていたら、パラフィンのいぶる匂いがしたのだろう、親父に見つかってしまった。てっきり怒られると思って、おそるおそるスキー用のパラフィンだといったら、「ふーん、うちでも作って売り出そうかな」と頭をかしげて去ってしまった。やはり商売につながるとなると文句は言わないらしい。
 ようやく準備ができたところでSと相談した。どこへ行こうかということである。赤倉、菅平は遠いし、赤城は雪が少ないし、その頃、上越のスキー場などはなかったのだ。限られた予算で、正月休み中行ってこれるような所というのだから難しかった。
「さて、どこにするべえか」
 畳の上にごろんと横になって新聞を見たら、東武電車の広告が目に入った。忘れもしない、こんな文句だった。
「秘められたる雪の殿堂、奥日光湯元温泉スキー場へ!」
 横に小さくこんなようなことが書かれていた。
「湯元スキー場は本年初めて開設されたもので、東武は犠牲的な往復割引運賃でサービスします。浅草雷門発夜行、日光に未明に到着。暖かい車内でそのままゆっくり睡眠をとって戴き、早朝、バス、ケーブル、バスと乗りついで日光湯元着、往復二円十銭也、通用十日間」
 さっそくSの所へ出かけて、「ここはどうか?」と言った。
「これは確かに安いや」
「あすこなら高度も高いし、森林地帯で雪はいいはずだよ」
「温泉はあるし、サービスもいいはずだよ」
「ここに決めちまおう」
 ということになって、初滑りは奥日光と決まった。
 Sが訪れた時、お茶を運んできた妹は、別にパイ缶を一個持ってきた。
「パイ缶か、ご馳走だな」といったら、「これは今食べるんじゃないわよ。スキーに持っていきなさいよ。私のプレゼントよ」と言う。
「ほう、おまえにしては上出来だ。ありがとう」
「兄さんにあげたのではないの。Sさんにあげたの」と憎いことを言った。
 純情なSがいささか照れてもじもじしていたので、「こんなのいいんだ。俺から巻き上げた一円の中から、いくぶん良心がとがめて買ったんだろうから」と言ってやったら、妹の奴は、「へへへ」と変な笑い方をした。そして懐から五円札一枚を引っ張り出して、ひらひらと頭の上にかざして言った。
「兄貴のスキーをだしに使って、親父さんからせしめちゃった。だからパイ缶分返してやろうと思ったのよ」
 チクショウ! 全く抜け目のない奴だ。
  

Posted by 松田まゆみ at 13:45Comments(0)ボン・スキー

2009年01月05日

奥日光初スキー

 バスが戦場ヶ原へ出た頃からやっと眠気が後退していって、どうやら正気に戻ってきたようだった。周りの連中が嘆声を上げたし、雪の高原の陽光がおそろしくまぶしかったからだ。湯元に着いたときはもう一時をまわっていた。日光を早朝出発して、やっとたどり着いた感じだった。
 暖かい車内でぐっすり眠れるはずが、その通りにはいかなかった。車内は確かに寒くはなかったが、床に敷かれたゴザの上に缶詰の鰯(いわし)のように半ば重なっての寝心地は、安眠できるなんてものではなかった。背中は痛いし、隣の奴の体圧が気になるし、まごまごすると太い足がウエストのあたりをドカンとどやしつける。引っ被った毛布はいつの間にか隣の方に移動してゆき、くしゃみで浅い眠りから起こされる。眠ったのか起きていたのか、朦朧(もうろう)としてよくわからなかった。
 バス、ケーブル、バスと乗り換えるたびに、スキーを担いだり降ろしたり。やっと中禅寺湖に着いて、もうこれで湯元までノンストップと安心していたら、中禅寺で別のバスに乗り換えさせられた。大型バスでは湯元まで行けないというのだ。それでも確かに安かった。これだけ乗って一円五銭なのだから。
 バスから降りてなんとなくスキーを担いだ連中の後をふらふらとくっついていったら、皆、南間ホテルに入ってしまった。立派な旅館なので躊躇したが、入り口に冬期割引と書いてある。何でもいいや入っちまえと玄関に入ったら、「お客さん、ご予約ですか?」と聞かれた。
「予約がなければ満員なので」と玄関払いをくった。
「どこかほかに泊まる所くらいあるだろう」と来た道を逆戻りしていたら、前方から歩いてきたオヤジがある。むっとして近寄りがたい面魂(つらだましい)だったが、ほかに聞く人も見えなかったので、呼び止めて泊めてくれるような宿を聞いた。オヤジは、二人の頭から足の下まで見上げ見下ろして、「予約もなしで、おまえさんらお出でたのかね」とあきれ顔だ。
「どこも満員だろうよ。よかったらうちへ泊まるか。学生さんだね。学生さんなら贅沢は言わないだろう。うちは運転手さんやなにかを泊める宿だが・・・・・・」
 何でもよかった。それにどうやら安そうだ。安ければその分よけいに滑れる、と内心ほくそ笑んだのはSも同じだったろう。
「お願いします」と、ほとんど同時に言った。
「そうさね・・・・・・」
 オヤジはしばらく考えて、「三食付一円くらいでいいかね。高いかね」と、聞きもしないのに値段を言った。宿料ってものは、旅館の玄関で決めてから泊まるものだと親父が言っていたのを思い出した。
「どうかね」も「高いかね」もない。こちらは二食付二円は覚悟していたのだ。結構毛だらけ、灰だらけだ。頭の中で素早く七日間は泊まれると勘定した。願ってもない!
 さぞや汚い旅館だろうと思ったら、新築の小ぢんまりした小奇麗な宿だった。オヤジはちっとも旅館の主らしくなかった。言葉遣いも客用のものとはおよそかけ離れて乱暴だった。
「学生さんご馳走はないぜ、よそみたいな。その代わり気楽にしてくれ。怒鳴ってもわめいてもかまわんから」
 こんな調子だった。
 玄関で靴を脱いで驚いた。心配していた通り、靴下が油漬けになっていたからだ。これはいかんと思って靴下を脱ぎはじめたら、見ていたオヤジが言った。
「スリッパの用意がないから、靴下のまま上がってくれ」
 私は、「実は靴に油を塗り過ぎて靴下が汚れている。廊下を汚すと悪いから」と言ったら、オヤジはカラカラと笑った。
「家は建てたばかりで、廊下は磨いてない。油がついているならちょうどいいから、なるべく足を引きずって歩いてくれ。ただ、部屋の中では脱いでくれな」
 チクショウ、ひとを油雑巾だと思ってやがる。しかし私は素直になるべく足を引きずって歩いた。気楽な宿である。
  

Posted by 松田まゆみ at 14:31Comments(0)ボン・スキー

2009年01月06日

初スキー

 眠いし、時間もわずかしかなかったが、そこは若さである。飯を食うと、さっそく第一ゲレンデと称するスキー場に行った。湖畔に広がる小さなゲレンデだった。この猫の額ほどの「秘められたる雪の殿堂!」はいささか雪不足。雪の上に点々と熊笹が顔を出していた。
「サンドスキーって奴は聞いたことがあるが、笹スキーってのは聞いたことがないぜ」と、Sがぼやく。
 しかし、雪量はかなりあるはずだった。夏の日光白根に登ったことのある私達は、この辺の斜面が身の丈ほどもある熊笹に覆われていたことを思い出した。
 斜面は周囲を針葉樹で囲まれていたが、湖に面した一方だけは疎林になっていて、そこを抜けてしまうと湯ノ湖に落っこちることになっていた。転ぶか、木に抱きついて何としてでも止まる必要があった。
 まず、歩くことと登ることの稽古から始めた。エッジを立てた階段登行は五分間でマスターした。われらは上野東叡山下に生まれたチャキチャキの江戸っ子である。登れさえすれば、何登行だってかまいはしない。何だ、わけはないじゃないか、登りゃいいんでしょ、登りゃ。いつの間にかゲレンデの一番上に登りついていた。今考えるとゆるい斜面なのだが、私達には湯島天神の石段より急に見えた。しかし登ってきた以上、歩いて降りるわけにはいかなかった。江戸っ子の矜持(きょうじ)が許さないのだ。
 すでに湖面には夕焼けが漂い、遠く男体山の男前の横顔にピンク色が薄く刷かれていた。
「行こうぜ、一、二、三」
 かけ声だけは勇ましく、東武電車の線路みたいに幅広い四本のシュプールを残して二人は滑った。後は書くことを止めにする。ただ、雪がどんなに冷たく、柔らかく、かつもがけばもがくほど起き上がれないものだということが、骨身にしみてわかったのである。
 夕闇の雪道をスキーを引きずりながら、二人はさっぱり意気が上がらない。何としても帰る日までには転ばずに止まれるようにならなくては。
「こんな板きれ二枚に嘲笑されてたまるかってんだ」
「物には順序がある。まず歩くことから練習するか」
「うん、それじゃあ明日は湯ノ湖一周といこうか」
「そうだな、平らだというから、あんよはお上手にはちょうどいいや」ということで、翌日は湯ノ湖一周に決めた。
 実を言うと、今日の調子で明日一日ゲレンデで転んでいるのでは恥ずかしくもあるし、お尻が痣だらけになると思ったからだ。
 宿に帰って風呂場に直行した。風呂は大きくはなかったが、木の香も新しく清潔だった。湯船の縁に足をかけたら、先に入っていたSが言った。
「おいちょっと待て、その足はなんだ?」
 自分の足を見て、私も驚いた。足首から先の皮膚に、まるで黒インクで地図を描いたような模様が入っていた。モービル油である。モービル油が皮膚の皺(しわ)の中に埋め込まれたのが原因であった。石鹸で洗ったがなかなか落ちない。鉱物油は、他の油脂と違って鹸化(けんか)されないからだろう。仕方がないから、いい加減に落として風呂に飛び込んだら、湯の表面に五彩に光る油膜が浮いた。油漬けの靴が、ここまでたたろうとは思いも及ばなかった。湯が溢れて油膜が流れ出すまで、私達は首まで湯の中に浸けて待たねばならなかった。
「三食一円は安いな、来年も来ようや」
「うん気に入ったな、ここ。俺たち向きだ」
「風呂へ入ってスキーをやって・・・・・・天国だな」
「馬鹿言え、滑ってる時は地獄だぜ」
「帰るまでには、それも天国になるさ。明日はあんよはお上手だろ、あさっては全制動回転、しあさってはクリスチャニア、やのあさっては・・・・・・」
「馬鹿、『英会話一週間』みたいなこと言うなよ。下駄でさえ満足に歩けないくせしやがって・・・・・・」
 硫黄の香りはなつかしい。私のスキーには、温泉がつきものになって今日に至っている。温泉のないスキー場なんて行く気になれない。その点、わが日本に生まれてほんとうによかった。
  

Posted by 松田まゆみ at 13:42Comments(0)ボン・スキー

2009年01月07日

湯ノ湖一周

 湯ノ湖に、朝の光が満ちていた。湖面は氷が張りつめているのだろう。雪に覆われて白く輝いている。スキーを滑らせるかすかな雪のきしみだけの音の世界で、鳥の声も聞こえない。夏は湖畔をめぐる遊歩道であるこの道も、今は柔らかい雪にすっぽり覆われ、右手は針葉樹の急斜面、左は湖である。その針葉樹林はクリスマスツリーのように、綿雪を被って静まりかえっている。
「いいなあ、これが山スキーの味って奴かな?」
「いつ来ても山はいいな。たまんねえな、この色を見ろよ」
 その色は、スキーの先端で割られた雪の断面の色である。表面は白く下の方は次第に水色を増して、やがて青く沈んでゆく。妙に明るく、音楽的な階調の変化があった。
 道はまったくの平らではなかった。小さな上り下りがあったし、時には倒木などもあって案外に時間を費やしたので、湯ノ湖の落口に着いたのは十一時をまわっていた。そこで湯ノ湖は川となって、一段低い小田代の原へと流れ落ちている。いわゆる湯滝である。
 昼食には早かったが、私達は雪の上にザックを置いて腰を下ろし、弁当を取り出した。
 そういえば今日は元旦である。今朝、宿で出された雑煮の餅の切れの大きかったこと。家で食べるそれの四倍のボリュームがあった。腹があまり空かないのはそのためであるらしい。
 湯ノ湖の落口あたりは水が流れているせいか氷が張っておらず、深い青がたたえられて不気味でさえあった。そして水蒸気が湖面に漂っていた。
「ゲレンデで滑ったり転んだりしている奴に見せてやりたいな」とSが言う。
「ツアーでなければ味わえない味さ」
 私は雪の森に向かって大声で怒鳴った。
「ザマーミロ!」
 すぐ木霊が戻ってきた。
「ザマーミロ」
 とにかく、あんよはお上手のスキーでも、カンジキなしで山を歩けるのは嬉しい。これで山の斜面を雪煙を上げて滑りまくることができたら、どんなに愉快だろうか。それこそ僻みなしに「ザマーミロ」である。その辺り一面に駆けずりまわっている兎の足跡、一列にまっすぐ点を連ねている狐の足跡、そんなものが、早く上手に滑れるようになりたいと思う私達の希望を煽った。
「さあ、早いとこゲレンデに帰って練習だ」
 しかし、半日以上を費やしたこのツアーは、決して時間の浪費ではなかった。スキーに足を慣れさせ、普段の歩行に不必要なエッジングという足首の運動を、知らず知らずのうちに覚えこまされたのである。ただし、これは後でスキーの先生に教えられて、そうかなと思ったことなのだが。効果は確かにあったのだろう。ゲレンデに帰ってのエレベータースキーでは、昨日に比べ登りがぐんと楽になった。降りは? これは止めておく。何しろ、止まるためには尻もちをつくか、木に抱きつくか、遠く湯ノ湖の氷の上で自然に止まるか、それしか方法がなかったのである。全制動ストップなどという教科書に書いてある方法を試みれば、確実に頭を雪の中、いや笹の中に突っ込んだ。
「どうせ転ぶなら、もっと急な所でやろう」とSが言う。
 ゲレンデの左側に急な斜面があった。そこでは上手な連中だけが滑っていた。「よしきた。急斜面を登る練習にもなる」。私達は、この鬼門の停止方法を性懲りもなく幾度も練習したが、もちろん一度として成功しなかった。
 薄暗くなった旅館への帰り途、Sが憂鬱な顔をして言った。
「俺は昨晩夢を見たんだよ。あの笹の中へ顔を突っ込んだ途端、葉っぱで顔面をめちゃめちゃに切ってしまって、ひりひり痛くてかなわなかった。目が覚めてみたら、あのやたらと糊で突っ張らせたごぼごぼのシーツに、顔をこすりつけていた。だから俺は、今日は顔を突っ込みたくなかったんだがな。明日もまた突っ込まなきゃなんねえか!」
「まったく同感だな。俺も憂鬱だよ」
 宿の炬燵にもぐり込んで、例の教科書を熟読吟味していたら、私ははからずも大発見をした。そこにはこう書いてあった。「全制動ストップは、スピードのあるとき行なってはならない。緩速時の停止に用いるもので、スピードは予め制動して徐々に落としてから行なうものである」
 私はSにそこを見せた。
「なるほど、それじゃあスキー場が悪いんだ。下のほうにゆるい斜面がもっと長く存在しなければ駄目だ」と、スキー場のせいにした。しかし二人でよく考えてみたところ、スキー場のせいにするのは誤りであることを悟った。
「何も、毎度ゲレンデのてっぺんから滑り降りなくてもよかろう。もっと下の方から滑り出せば、加速度はつかない」という、いとも簡単な理論である。私達は毎回てっぺんまで登って、直滑降で滑り降りていた。そうしなければならないものと思っていた。
「では、明日は坂の途中から滑り出すか」
「でもつまんねえな、スピードが出ないもの」
 そこで全制動ストップなる技術は練習を中止することにした。
「何としても、曲がって止まる方法でなければなんねえ。全制動回転、あれをやろう」というのが結論になった。
 スピードが出なくては・・・・・・というのは痩せ我慢である。むしろこの頃、Sと私の慣習として、山は一番高い所まで登るものということが不文律となっていたからである。
 宿に帰って部屋の前まで来たら、入り口の廊下に四つ折りの新聞紙が五、六枚重ねて置いてあった。その上に、墨黒々と次のように書かれていた。
「すみませんが、脱いだ靴下はこの上に置いてください」
 なるほど、油漬けの靴下のことかと思って、いささか気が引けた。南間ホテルだったら、今頃態よく追い出されていただろう。味なことをやるオヤジだと思った。女中の告げ口に違いない。
 夕食は豚汁だった。腹が空いていたので旨かったが、Sの奴が厚さ一センチ五ミリはある脂肪のついた豚肉のぶつ切りを箸でつまんで、暗い電灯にかざしてつくづく眺めている。そして突然言った。
「おい、これは何だ? ウヘッ、毛が生えてるぜ。毛までサービスとは泣けてくるぜ」
 私は自分の椀の肉をつまみ上げて、薄暗い電灯にかざして見た。なるほど、脂肪の中から太くて剛い毛が二、三本とび出していた。
「ゲッ、ほんとだ。俺はさっきから二、三ヶ食っちまったぜ。ああ、毛抜きを持ってくるんだったな」
 かくして私達はやむを得ず爪の先で豚の毛を抜き抜き、食べねばならなかった。抜いた毛は皿の縁に一本一本並べたが、皿を一周してまだお釣りがきた。
「シベリア狼じゃあるまいし、俺の胃液じゃ消化できないものな」とぼやいたが、味はめっぽう旨かった。
 満腹は寝て消化するに限る。私達は仰向けにひっくり返って、明日の予定の打ち合わせをした。以下はその時の会話である。
「ゲレンデは飽きたな、明日は山にいこうや」
「その腕前で山に行こうっていうのか」
「ゲレンデで転ぶのも、山で転ぶのも同じじゃねえか」
「そうだな、降りながら練習すれば一挙両得だな」
「そうさ、ゲレンデでいい格好して滑ってやがる奴を見るとうんざりするな。俺たちは山へ登るためにスキーをやるんで、スキーのためのスキーをやりにきたんじゃないんだもの、すべからく実用的な山スキーの練習をやるべきだな」
「決まった! 明日は第三ゲレンデまで行って、練習しながら降りてこよう」
「そうだ、第三ゲレンデはもう金精峠(こんせいとうげ)に近い所にあるんだろう。うまくいったら金精峠まで行こうか」
「それはいい。峠のとっつきは急だけど何とかなるだろう。天気さえよければ行こう」
 考えてみれば無茶な話しである。スキーを履いて三日目、まだ曲がれるどころか転ぶ以外にスキーを止めることのできない奴が、標高二千メートルを越える冬の金精峠へ登ろうというのである。しかし私達には夏の金精峠しか頭になかった。夏は簡単に登ってしまった記憶しかなかった。そしていとも簡単にそれを実行に移した。思いがけない事態によって、ただ未遂に終わっただけである。
  

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2009年01月08日

第三日(1)

 今日も空は晴れていた。
 朝食の後、宿のオヤジに、今日は第三ゲレンデまで行ってみるつもりだと言ったら、輪カンがないから止しなさいと言われた。どうやら私達の腕前を知っているらしい。これで「場合によっては金精峠へ登ってみる」という言葉はつい出なくなった。
「スキーを履いて登れるでしょう」と言ったら、「それではこうして行きなさい」と言って、物置から縄をひと束持ってきた。どうするのかと思ったら、スキー板の靴の前後二ヶ所に縄をぐるぐる巻きつけて結わえてくれた。なるほど、こうすれば後滑りは相当に防げるはずだ。
 荒縄のシールはまったくもって格好の悪い代物だったが、後滑りでふうふう言うよりよほどましだと思ったのでオヤジの仰せに従った。愛想はないがいいオヤジだ。腹が空くといけないからと、握り飯を作って新聞紙にくるんでくれた。
 湯元スキー場には第一ゲレンデのほか、第二と第三がある。第二は前白根、第三はさらに奥で金精峠に近い。三つのゲレンデは三関係の各々の頂点にあるので、第三ゲレンデへは第二ゲレンデを経て行くより、温泉から直行した方が早い。私達は、直接第三ゲレンデを目指す道をとった。
 縄のシールという奴は登りには威力を発揮してくれるが、降りはまったく駄目であるばかりでなく、平地もスキーは滑らない。ちょっと恥ずかしかったが私達は温泉街を出はずれるまで、スキーをバタンコバタンコ上げたり下ろしたりして進まなければならなかった。
 第三ゲレンデへのスキートレールは、木の枝に赤紐が付けてあって明らかだったが、昨晩降ったらしい十五センチほどの新雪にすっぽり覆われて、スキーのシュプールはなかった。処女雪だ。針葉樹林がどこまでも続いていた。私達は北欧の森を想像した。この雪を被った針葉樹の森林に、物音といってはときおり木の枝から落ちる落雪の音だけである。足跡といったら自分らの残しているスキーの跡と、兎、狐のそれだけである。
 いい気分だ。リフトなどという便利で騒々しくて、自然をぶっ壊し、獣どもを追っ払い、空気を汚し、足を弱くするものはその頃はなかったのである。
 静もる森に二つの万物の霊長の、登るという行為のリズムだけが存在した。ふわっと積もった雪の中をスキーを滑らせて、片足ずつを高みに置き、その上に身体を押し上げるということならばよいのだが、それはシールあっての話。私達の場合はスキーの上に載った雪を跳ね上げて、スキーを雪面上に持ち上げ高みに移して、その上に身体を押し上げる。それでもリズムはリズムである。多少悠長で筋肉を酷使するリズムではあったが・・・・・・それでも私達は満足だった。
 第三ゲレンデは新雪に覆われた小広い斜面で、人影は見られなかった。振り返ると、私達の登ってきたシュプールが森の中を縫っている。ずいぶん急な斜面だった。
「行きはよいよい帰りは怖いだな」
「どうやって降りようか? 弱ったな」
 登る方は努力だけの問題だ。降りはそうはいかないらしい。ひとしきりこのゲレンデで練習するつもりであったものが、考えてみればこの新雪である。直滑降の練習ならともかく、曲がろうとするたびにこの新雪の中に埋まっちまうのではたまらない。練習は止めにした。滑る練習は帰り途にいやというほどできるはずだ。時間はたっぷりある。登れ登れだ。私達は小休止の後、金精峠への道を登りだした。トレールは斜面を増していった。雪量もぐんぐん増した。ここから上はほとんどスキーヤーは行かないらしい。踏まれていないからスキーはもぐる。腰まで埋まってどうしようもない所もある。
 私達はファイトを燃やし、交互にラッセルを繰り返した。闘志を倍加させてくれたのは、笈吊岩(おいづるいわ)の岩壁が樹間にちらちらと顔を出しはじめたためもある。しかし、金精峠の稜線を目前にして驚いた。頭上に張り出した五、六メートルはあろう大きな雪庇(せっぴ)に、雪煙が舞っていた。崖のような急斜面だ。
「こいつはちょっと手に負えないぞ」
「そう、峠に出るには、あの雪庇を崩さねばならねえや」
「この辺で回れ右がいいとこかな」と弱音が出た。
「ともかく飯にしよう、飯に」
 私達は木立の根元を踏み固めてスキーを脱ぎ、握り飯を頬ばった。
「ここまで来れば、秘められた雪の殿堂ってのも嘘じゃないな」
「ゲレンデでうろちょろしている奴の気がしれねえ」
「スキーは山へ登るためにあるものってこと、知らねえんだよ」
「くやしければここまで上がって来いってんだ」
 勝手な太平楽を並べたてては、水の代わりに雪を頬ばった。盾の片面はこのようによい調子だったが、それから十五分後に見せつけられた盾の裏面を、神ならぬ二人は考えてもみなかった。
  

Posted by 松田まゆみ at 08:53Comments(0)ボン・スキー

2009年01月09日

第三日(2)

「さあ滑ろう」
 スキーから縄を取り去り、締め具を締めて立ち上がった私達は、今さらのように顔を見合わせた。目の回るような急斜面だった。
 斜滑降であそこまで行って、キックターンして、次のあの木のあたりで顔面制動して・・・・・・と、降りコースを考えていた時である。ガーッという異様な大音響が聞こえた、音の方を振り返った刹那(せつな)である。いきなり腰のあたりをドヤシつけられて、横にあった木立にしがみついた。あたり一面真白になり何も見えなかったが、次に目に入った光景は驚くべきものだった。私のいる高みのすぐ下の谷を、直径二十センチはあろう岳樺が、根こそぎにされて押し流されていた。
 雪崩だ! 初めて見た雪崩だ。
 一瞬呆然としていたが、気がついたらSがいない。私は腰まで雪に埋まっている足を抜こうと努力したが、雪はコンクリートのようでなかなか抜けない。スキーを脱いでやっと引き抜いたのはいいが、膝頭ががくがくと震えて足が前に出ないのである。しかしそのうちに、何やらすぐ横の雪がもぞもぞと動くのである。私はその方へ腹這いになって行き、雪を手で掘り除けた。手の方は足と違ってどうやら動いた。Sの腕が出、頭が出てどうやら生きていることがわかった。Sが起き上がるまで、どのくらいの時間がかかったのか覚えていない。ひどく長い時間がかかったようでもあり、案外短かったのかもしれない。Sは何だかぼんやりしている。
「雪崩だ! 逃げよう」
 と言うと、今までのろのろしていた動作が急に早くなった。彼の膝頭もがくがく震えているのが目に見えた。いつスキーをつけたのかも覚えていない。二人とも、兎のように飛び上がって滑り出した。斜滑降もヘチマもなかった。後をも見ずにとはこのことだ。我武者羅(がむしゃら)な直滑降でいっては、木にぶつかると思うと横の雪の上に身体をブン投げた。立ち上がるや否やまた直滑降、ボディストップ、直滑降。何回繰り返したか、斜面がどんなにきつかったか、全然覚えていない。見覚えのある第三ゲレンデに着いて急に力が抜けた。雪の上にへなへなと座り込み、眼前で雪煙を四、五メートルも上げて転倒したSをぼんやり眺めていた。
 起き上がったSが私を見て、「第三ゲレンデか? ここは」と、私の傍らにゆっくり歩み寄って腰を下ろした。
 まだ膝頭がかすかに震えていた。身体中がだるい。関節が全部脱けてしまったようで、しばらくは物も言えなかった。
 次第に気分も落ち着き、身体の震えも止まってきたところでやっと声が出た。
「助かったな、おい」
「驚かしやがって!」
 そう言って雪の上にどっかり腰を下ろし、Sの顔を見て私は驚いた。右の頬に幾本もの針で引っかいたような跡が、血をにじませていたのである。よく見ると、左の頬にも幾つかそうした跡が散在していた。
「大丈夫か、おまえの顔破けているぞ」
「そうか、ひどいか? どうもひりひりすると思った」と、彼は心配そうに自分の頬をさすった。
「何だ、おまえのズボンも鉤裂(かぎざ)きができているじゃないか」
 彼に言われて私も自分のズボンを見た。二ヶ所、膝小僧と右腿(もも)のあたりに鉤裂きができ、腿の方のは特に見事に裂けていた。ペロンと垂れ下がってズボン下がよく見える。よく考えてみると、確かにあれだ。針葉樹の根元に、柔らかそうな雪を被った潅木らしきものがところどころにあったのだ。私は顔面制動の受け手として柔らかそうなものを選び、これに突入する直前でわざと転んでいたのだが、その潅木が茨(いばら)だったのである。Sも同じことをやったに違いない。たまたま顔を突っ込んだので茨だとわかったそうだが、私は生身に被害を受けなかったので、鉤裂きなどは夢中で気がつかなかったのだ。
 まだまだ湯元までは相当の下りが続いている。いや、これからが本格的なスキー滑走路で、今までのは山岳スキーの部類に入る。
「おい、どうやって降りる」
「これ以上、鉤裂きを作るのはいやだぜ」
「お前のはいいさ、針と糸があれば繕えるからな。俺の顔の綻びは縫えねえんだぞ」
 彼は顔をさすって言う。彼はげっそりだと言うが、私だっていつ彼と同じことになるかわかったものじゃない。彼は不公平だから顔の綻びまでつき合えと言うが、これはご免こうむりたい。
 二人は相談した。滑降路は細い一本道だ。斜滑降、キックターンというわけにはいかない。なぜなら滑降路(それは夏道)を外れると、かなり密な原生林帯だ。樹と樹の間には例の茨が点在している。樹林帯の雪は良質すぎて、すごくスピードが出る。われわれの全制動ではとてもスピードを落とした滑降などできない。まず三十メートルで顔面制動だ。約四キロの道を三十メートルごとに顔面制動していたら、いくら面の皮が厚くてももたないだろう。相談の結果、意見の一致をみたのは次のようなことである。

一、転ぶのはあそこ、と目標を決める。
二、そこまで直滑降で行き、制動はかけない。
三、その地点まで行ったら右か左にぶっ倒れる。
四、ぶっ倒れてから止まるまでに、起き上がりやすい姿勢になるよう努力する。
五、襟巻きを首にぐるぐる巻きつけて、雪が首から入らないようにする。

 まずSが見本を示した。約五、六メートル下で、彼の姿が壮烈な雪煙の中に埋没した。しばらくしてもくもくと起き上がり、こっちを向いておいでおいでをした。無事らしい。かくして私達は全身制動ストップなるテクニックを修得しつつ、どうやら湯元まで滑り降りることができた。しかし柔らかい新雪の下は、凍った旧道だ。湯元に着いた時は、ヒップの回りがどこもかしこもずきずき痛み、これ以上転んだら打撲傷で動けなくなりそうだった。私の鉤裂きは四ヶ所になり、彼も鉤裂きが一ヶ所できていた。しかしよほど懲りたとみえ、顔の引っかき傷だけは増えていなかった。
 いとも情けない格好で旅館の玄関を覗き込み、人がいないのを見すまして、こそこそと部屋に上がり込んだ。応急処置は内密を要するのだ。炬燵にもぐり込み、これからどのような処置を施そうかと考えていたら、唐紙がすっと開いた。宿のオヤジがにやにやしながら入ってきたのである。手には裁縫箱と救急箱が提げられていた。
「ハッハッハ、悪戦苦闘だったらしいね。若い者はそのくらいの元気がなくてはなんねえ」
 彼はメンソレータムを取り出して、Sの方に差し出しながら言った。
「だいぶ上の方まで行ったかね」と聞くので、「うん、第三ゲレンデの少し上まで」と言っておいた。金精峠に登ろうとして雪崩に遭ったことなど、ひと言も喋らなかった。それを喋ったら、お説教を食うと思ったからだ。
 遅い昼食の終わったのが三時を過ぎていた。もうひと滑りと思ったが、Sの顔の引っかき傷を理由に、今日はこれで止めにすることにした。実は、腰を上げようにも痛くて上がらなかったのである。
 それもそのはず、風呂へ入ったら下半身痣だらけだった。湯船に浸かりながらSが独り言のようにぶつぶつ言っていた。
「そうだ、素直に転べばいいんだ。人間は素直でなけりゃいけねえや」
「至極ごもっとも」と言いたかった。
  

Posted by 松田まゆみ at 13:43Comments(0)ボン・スキー

2009年01月10日

第四日

 まだ腰が痛いし、「今日はおとなしくゲレンデで滑ろうや」ということで、腰をさすりながら第一ゲレンデに出かけた。ゲレンデの一番上に立って滑っている連中をぼんやり見ていたら、真黒に日焼けしたオッサンに声をかけられた。
「少し教えてやろうか」とにこにこして言う。
 さっきから、テレマーク、クリスチャニア、ジャンプターンと派手に滑りまわっていたオッサンである。無料で教えてくれるつもりらしい。内心「しめた」と思いながら、「お願いします」と言ったら、相手は「ヨーシ」と大きくうなずいた。
 こちらを中学生とみたかこの先生、間もなく言葉がぞんざいになって、だんだんおっかない先生になった。
 あっちへ登れ、こっちへ滑れ、なんだそのへっぴり腰は・・・・・・転んだら尻をひっぱたくぞと、猿回しの猿ではあるまいし、教えるどころか荒っぽいしごき方だった。その日一日、私達はへとへとになるまでしぼられた。
 夕方、「もう結構です。実は昨日第三ゲレンデまで行って、帰りに転びながら降りたのでお尻が痣だらけなんです」と言ったら、「そうか、そいつは悪かったな、君の顔はその時の名誉の負傷か。アッハッハ」と笑った。
「じゃあ、今日はこのくらいにして明日また教えてやろう」
「ウヘッ!」
 私とSは顔を見合わせた。明日、また今日みたいにしごかれるのではたまらないと思った。Sが、「明日は切込刈込湖、山王峠ツアーをやる予定なんです」とうまく逃げを打ったが、どっこい問屋はそうはおろさなかった。
「何、ツアー? アハハハ馬鹿を言え。その腕でツアーをしたら今度は首の骨を折るぞ。止めとけ、止めとけ。ヨーシ、明日ズダルスキーの全制動回転を叩き込んでやる。ツアーはあさってにしろ。命令だ」
 否も応もなかった。大きな声だったし、周りの人は振り返って見るし、ズダルスキーだかドダルスキーだか知らないが、相手が少々悪すぎた。
「ハイ、それではお願いします」と仕方なく言ったら、「ヨーシ、八時にここへ来い。じゃさようなら」と言うや否や、スケート滑降でスーイ、スーイとたちまち姿が見えなくなった。スキーは確かに抜群にうまかった。
「おい明日もか、えらいのに教わっちまったもんだ」
「しょうがねえ、あきらめようや。それより早く帰って寝よう。今晩はお身体大切にしなけりゃ明日がもたねえ」
  

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2009年01月11日

第五日

 朝から小雪が降っていた。
 ヨーシの先生は、ゲレンデのてっぺんで待ちかまえていた。朝っぱらから張り切っているらしい。今日はどうしても全制動回転を覚え込ませるつもりのようだ。私達の姿を見ると、「おーい遅いぞ、早く来い」と怒鳴った。やれやれだ。あの調子では、また今日も一日中猿回しの猿ということになる。
 まず初っぱなから講義が始まった。要旨はこうである。
 山スキーでは絶対に転んではならない。安全確実な回転法で回ること。スピードを出してはいけない。スピードを出さないためには制動をかけてはならない。斜滑降の角度を水平に近くとればいい。重い荷物を背負って制動滑降などしたらすぐ疲れてしまうし、加速度がつくから制動し切れるものではない(これは現在のようなエッジがついていないスキーの場合の話しである。現在とはスキー、用具ともに大きな差異があった)。狭い急な道で斜滑降ができない場合、やむを得なければ股制動をする。そのためには長い太い杖を使う。ざっとこんなものだった。
「今日は全制動回転、半制動回転と股制動を教える。最後に急停止のためのクリスチャニアもちょっと練習する」とご託宣が終わると、ハードトレーニングが始まった。先生の口の悪さは地金を現わしはじめた。たとえばこんなものである。
「おい、もっと膝を内側にして。まだまだ、おい、斬られ与三っ、おまえのつま先は内側に向けられないのかっ」
 もちろん斬られ与三郎はSのことである。
「おまえの膝はよく内側に曲がるな、いつも内股に歩きつけているのだろう。女形(おやま)みたいにな。おい女形っ、おまえが転ぶのは腰が後ろに引けるからだ。そこで体重を全部外足スキーに移すんだ。駄目だ、駄目だ。スキーの先端内側にもっと体重をかけなければ駄目だっ」
 といった調子で、Sと私は斬られ与三郎と女形というありがたくない仇名(あだな)を頂戴した。
 確かに効果はあった。昨日までほとんど回転ができなかった私達が、昨日の基礎訓練の下地がものをいったのかもしれないが、ゲレンデでは割にスムーズに回れるようになったから不思議である。
 その後、私は何回かスキーの先生といわれる人にスキーを教えてもらったが、この時のように、まるで魔法にかけられたように回転を覚え込まされたことはない。
 そして戦後近代スキーに移る前後までの期間、私の山スキーに対する根本理念は、この先生の主張で貫かれた。こと、ボーゲンに関する限りは現在でもちっとも変わらないし、自信も持っている。ついでだが、志賀のジャイアンツのような大きなこぶなら、ボーゲンOKである。
 午後は急斜面での回転の練習だった。ゲレンデが外山に接するあたりに、三十度以上の急斜面があった。誰も滑っていないそこを踏みならしての練習だったが、私達には目の回るようなその斜面を、曲がりなりにも曲がって降りられるようになったのは不思議中の不思議である。現にその後、ずいぶん長い間、三十五度の斜面をボーゲンで確実に降りることができなかったのだが、その時は回って降りることができたのである。もっともスキーが最大傾斜線に向いた時は、まるで急降下爆弾の飛行機に乗っているような気持ちで、先生に怒鳴られなければ到底やってみる気がしなかったはずである。催眠術の催眠状態にあったのかもしれない。
 クリスチャニアを教わる時間はほとんどなかったが、先生は明日のツアーのことが気にかかったのだろう。スピードが出すぎて困った場合、クリスチャニアでストップする要領をこんな表現で教えてくれた。もちろんこれは正しいクリスチャニアの方法ではなく、緊急の場合のストップ法としてである。
「とにかくスキーを二本揃えたまま谷底に向かって伸び上がり、次に沈み込むと同時に右でも左でもいい、足を揃えたままスキーを振り回して、斜面に直角にしてエッジを立て、山側に体を倒すのだ。たとえ転んでも起き上がりやすい格好で転ぶから安全だ」と言うのだ。
 ただし、先生はその練習はさせてくれなかった。あくまで緊急用で、とっさの場合その要領でやってみろということだった。
「明日は良い天気になるだろう。まあ、この調子なら二人だけで山王回りをやっても大丈夫、気をつけて行ってきな。あさってまたゲレンデで会おう」
 お許しが出たのである。私達はほんとうに心をこめて最敬礼をした。
「ありがとうございました」
 厳しかったが、その時になってしみじみ良い人だなあと思った。
 宿に帰ってオヤジさんに、「明日は山王回りのスキーツアーに行くから、弁当を頼みます」と言ったら、オヤジはびっくりした顔をした。
「大丈夫かね、その顔で」とSの顔を見た。
「実はゲレンデでスキーの名人に、昨日と今日スキーを教わり、山王回りのお許しが出たのだ」と、ヨーシの先生のことを話した。
「ほほう、あの名人に教わったのかね。そりゃあよかった。あの人は妙高の方の人で名人だよ」
 どうやらヨーシの先生は、湯元でも評判の人らしかった。
「では明日は弁当を作ってやろう。そうそう、今夜はちょうど栄養満点のおかずだよ」と言った。
 私はSとチラと顔を見合わせた。ピーンときたのである。「たぶんアレだ」私達の目はうなずき合った。予想通り夕食のおかずは例の豚汁だった。私達はまた爪の先で一本一本引き抜いた毛を、皿の縁に並べなければならなかった。
  

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2009年01月12日

第六日、初めてのスキーツアー(1)

 素晴らしく晴れ上がった空だった。パラパラと霧氷の落ちる林の中を、湯ノ湖を左手に見下ろして私達はスキーを滑らせた。エストビーミックスのシュタイグワックス(登降両用ワックス)が思いのほかよく効いて、用意してきた例の縄のシールのご厄介にならないですんだ。山王回りのスキーコースには、強い登りはない。夏、このコースを歩いたことのある私達は、行く手に何の不安も感じなかった。シュプールは私達のものだけだった。
「やっぱり、ツアーはいいなあ」とSは言う。確かにリフトのないゲレンデの、ただ歩いて登っては滑り、歩いて登っては滑りのエレベータースキーに比べれば、ツアーは天国を感じさせたのである。
 刈込湖に着いたのは十一時頃だったろうか。湖面は氷の上を雪に覆われ、柔らかい日差しを一面に跳ね返し、思ったより明るい風景が展開されていた。
「少し早いけど飯にしようか」
 ほとんど同時に言い出して、私達はスキーを脱いだ。雪の中に二本のストックを突っ立て、手皮にスキーのテールを差し込んで、スキーの裏面を太陽に向けた。私は雪に穴を掘り、Sが集めてきた枯れ枝の太い奴を底に敷き、その上に細い枝を盛り上げた。メタを二、三個枝の中に押し込んで火をつけると、アルコール性の匂いが立ち昇り、やがてパチパチと枝が燃え上がった。雪の山歩きで覚えた焚火の方法である。
 ザックを尻に敷き弁当を開く。弁当は新聞紙で三重にも四重にも包んであって、まだ生暖かかった。宿のオヤジの心遣いが嬉しかった。山歩きの経験者か、狩人か、樵(きこり)だったのだろうか。
 山王帽子から、オロクラ峠に続く稜線が目の前の青空を限っている。この辺は奥日光には珍しく樹林が疎だ。この山峡の平和な日溜まりに、ささやかな昼食が始められた。焚火の水色の煙が空に溶けてゆく。
「明日一日であさっては東京か・・・・・・雑煮が食いたくなったぜ」
 里心がついたSが言う。
「そういえば一日に食っただけだな、餅は。帰ったらしこたま食ってやろう。汁粉も食いたいな」
 私も雑煮が食いたくなって言った。
 風のないこの日溜りは小春日のように暖かだった。焚火は底の雪を溶かし、だんだん雪の中に沈んでいった。人気(ひとけ)の無いこの山峡の雪の林の中に、こんな静かな一刻が持てるなんて・・・・・・私達は黙ってツアーの楽しさを噛みしめた。
 今頃おふくろは何をしているのだろう。妹は晴着を着て、友達とカルタ会でもやっているかな、とふと東京のことが思い出された。やっぱり里心がついてきたのだろうか。
「そろそろ出発(でっぱつ)しようか」
 立ち上がったSが、大きなあくびをしながら言った。私もゆっくり立ち上がった。焚火の穴に雪を詰め込んで、さあ、出発だ。
 小さな峠を越すと明るい涸沼(かれぬま)、そこから山王峠へは苦もなく登り切った。立ち枯れた唐檜(とうひ)が散在する山王峠は、戦場ヶ原がひと目で見渡された。だだっ広い原にはところどころ針葉樹の黒い林が点在し、原をとりまく三ッ岳、太郎、大真名、小真名、男体、女峰のお馴染みのご面相がずらりと居並んでいる。足元の白い原のただ中に、小さくひとかたまり屋根を寄せ合っているのは光徳沼の牧舎だろう。ここからは私達にも組しやすく見えるゆるい斜面を、光徳沼めがけて降りるだけだ。牧場には冷たい牛乳が待っている。昨日習い覚えたはずの全制動回転にものをいわせよう。
 ところがそうはいかなかった。夏はトラックの通る道だったが、道の真中の雪は人とスキーによってかなり踏み固められていたので道は樋(とい)状となり、踏み固めた樋の底の雪は午後三時の冬日にもう凍りはじめて、スキーはその中をカラカラと音をたてて、かなりのスピードですっ飛んだ。スピードの抑制は斜滑降を水平近くにとれなんてヨーシの先生は言っていたが、道ではそのようなことはできない。
「えい、しょうがねえ、制動滑降だ」と、スキーを八の字に開きっ放しで、道の真中をカラカラとすっ飛んだ。曲がり角は外足荷重もクソもなく、道なりにスキーは自然に曲がってくれたが、加速度だけは情容赦なく加わってゆく。ジグザグの道で上を見ると、後発のSの姿が見える。奴さんも両足を突っ張って、必死にスピードを殺そうと頑張っているようだ。
 足も腰も疲れてきたが、このスピードでどうやって無事に全制動ストップをやるかが問題だ。これじゃ神経がもたない、どこかで転んで休もうかと雪の柔らかそうな所を物色しながら、曲がり角を道まかせに曲がった途端である。目の前の道の真中に、黒い人影がしゃがみこんでいるのが目に入った。
  

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2009年01月13日

第六日、初めてのスキーツアー(2)

 びっくりした。ぶつかっては大変と思った瞬間、私は無意識に縦のスキーを横に振り回していた。エッジを立てた、というより自然にエッジが立って、私は山側に体を倒していた。スキーはその人の直前で止まり、私は不思議にもスキーの上にちゃんと立っていた。アッと思った瞬間にクリスチャニアができたのである。もっとも、これが偶然にできたのだという証拠には、このシーズン中にはクリスチャニアのクの字もできなかったことでわかる。
 Sがすぐ後から来る。「これはいかん」と振り返った私の目に、カーブに差しかかろうとするSの姿が映った。私は大声をあげて叫んだ。
「止まれっ止まれっ!」
 しゃがんでいる人と私が道を塞いでいるのである。避けようとしたSは道の谷川の縁の方に寄ってうまくすり抜けたかと思ったが、次の瞬間には大声を残して横倒しに谷川の雪の中へ飛び込んでいた。
「大丈夫かあ」と怒鳴ったら、「大丈夫だあ」という声が雪の中から返ってきた。
 しゃがみ込んでいた人は若い男のスキーヤーだったが、捻挫して動けないでいたのだという。光徳沼に泊まっていてここへ一人でスキーに来たのだが、もうスキーヤーも来ないようだし、このままでは凍死してしまうし、這ってでも帰ろうと思っていたところだと言う。「わが人生も一巻の終わりか」と思っていたと言われては、もちろん放っておくわけにはいかなかった。
 相談の結果、私より体格のいいSが彼を背負って、降りられる所まで降りる。その間に私は光徳沼に急行して、人手を借りてくるということになった。私がこけつ、まろびつ光徳沼まで行き、人手を借りて彼らの所へ戻った時には、短い冬の陽はもう外輪山の辺縁に近づいていたが、テントの布地に乗せた彼を引きずって光徳沼に着いたときは、西空に残光を残すのみになっていた。
 すぐ帰ろうとする私達は、当然のことのように引き留められた。牛乳やら、あべ川やら出されてみると、ただでさえ腹の虫がグウグウいっている私達だ。たちまち牛乳二合とあべ川五枚を平らげた。その旨かったこと・・・・・・。がんがん燃えているストーブを囲んで、もうここからは真暗になったって迷うことはないから等と言われてみると、なかなか腰が上がらなくなった。中村屋のかりんとうを一袋もらって、ようやく牧場を出た時はすでに五時をまわっていた。
 月が出ていた。青白い月だった。星もちらちら輝き出していた。ところどころに林を点綴(てんてい)し、ほとんど平らのように思えるこの逆川沿いの道は、青白く輝く雪を置いて静まりかえっていた。身体も暖まり、満腹の私達はご機嫌この上もなかった。左手に広大な戦場ヶ原が広がり、右手は三ッ岳の斜面で、この方は暗く沈んでいる。こんな時、人間は自然に歌が出るものらしい。その頃流行していた古賀政男作曲の歌である。

  月影白き波の上
  ただ一人きく調べ告げよ千鳥
  姿いづこ彼の人・・・・・・

 誰もいないと気が楽だ。原いっぱいに響けとばかり大声で合唱した。歌がひとつすむとかりんとうをボリボリかじった。歌ってはかじり、かじっては歌った。浜辺の歌、シューベルトの「海辺にて」等、どういうものか海の歌が多かった。夜の雪原と海、それは単に形が似ているためばかりではないらしい。感情的にも反芻(はんすう)し合えるものだということを、私はその後幾回も経験した。そんな時、私は雑誌でみたことのある詩の一説を思い浮かべるのだ。

  海は一枚のハンカチーフで
  汽船は インクのしみだった

 この詩の海が雪の原で、汽船が山小屋だったとしても、ちっともおかしくはないのだ。まして雪原をとりまく外輪山や、中に浮かぶ内輪山は島影そのものなのだから・・・・・・。私は、山はもちろん海も好きだった。
 道が湯元へ向かうバス道に出会う頃、少々声が嗄(か)れ喉が痛くなってきた。考えてみれば当たり前だ。零下十五度の夜風に吹かれてかりんとうを食べながら大声で歌いつづけたのだから、丈夫な咽喉粘膜だって酷使に耐えかねるだろう。おかげで翌日丸一日は二人とも烏(からす)のような声しか出なかった。
 もう湯元までは一時間みれば十分だろう。
「夜道に日暮れはねえや」
「ゆっくり行こうや」
 私達は性懲りもなくまた歌を歌いながら、ゆっくり湯ノ湖沿いのバス道を歩いた。
 白銀の月と満天の星である。オリオン、カシオペア、ペガサス、アンドロメダの星雲も見えそうだ。都会の空でも簡単に見つけられるスバルなど、あまりに多い星の数の中に埋まってしまって、それと指摘し難いくらいだった。
 その時である。提灯の灯らしい五つ六つの明かりが、こちらに動いてくるのが見えた。一列に並んで三ッ岳の黒い森をバックに灯影を湖面に落として、それは確かにこちらに向かって歩いてくるようだ。
「何だ、あれは? 狐の嫁入りかな」
「狸の嫁入りだろう。今頃なんだってこんな所を歩いてくるのかなあ」
 のんきな私達は、これが私達の帰りの遅いのを心配して旅館から派遣された救助隊の人々だとは露思わなかった。次第に近づいて、私達の姿を認めたらしい人は足を止めた。まっさきに大きな声で怒鳴った人がいた」
「そこへ来るのは、与三と女形かあ」
「いけねえ、ヨーシの先生だっ」
 私達は愕然として悟った。次に稲妻となってきらめいたのは、頭からどやしつけられるだろうことだった。提灯が駆け寄ってくる。いけねえ、謝るに限ると思った途端、ヨーシの先生の声が爆発した。
「皆が心配しているというのに何だ、のんきに歌など歌ってやがって! まあよかった、よかった」
 私達は平身低頭謝った。旅館のオヤジの顔が見えた。顔見知りの運ちゃんも、宿の女中さんの顔まで見えた。
「申し訳ない」
 胸がジーンとなるほど、皆の気持ちが身にしみたのは、「それでも無事でよかったね」と皆に言われてからだった。
 実は捻挫した人を光徳沼まで連れていったりして遅くなったのだということを話したら、ヨーシの先生は、「光徳の奴ら、電話ででも知らせてくれればいいのに、気がきかねえ奴らだ」と、今度は牧場の連中に八つ当たりした。そして続けて、「後でうんととっちめてやろうと思っていたんだが、人助けをしたというなら話しは別だ。ああよかった。俺は心配したぜ。うん、弟子にはできすぎたお手柄だ。うん、そうでなきゃならねえ」
  

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2009年01月14日

第七日(1)

「お客さん、もう九時すぎたわよ」という声に起こされて目が覚めた。襖(ふすま)の所で宿の女中さんが笑っていた。
「昨日はくたびれたんでしょう。でもお味噌汁が冷えるわよ」と言う。
 昨日の一行の中に加わっていた女中さんだ。下ぶくれで色白の綿羊のように太った女の子で、昨日までほとんど口をきかなかったが、今日は大変なれなれしい。
「でもよかったわね。私、てっきりあなた達を雪の中から掘り出さなければならないと思っていたわ」と言う。
「ぴんぴんしてて悪かったね」と言ったら、「歌が聞こえてきた時、あなた方だと思った。生きてるなと思っちゃった。でもあの歌よかったわ。今晩教えて頂戴」ときた。
「エーエ、教えてあげますとも」

 ゲレンデに着いたら、いきなり二人の目の前で雪煙を上げてクリスチャニアで止まった人がいた。キザな奴だと思ったら、雪煙の中からヨーシの先生の顔が現れた。にこにこ笑っている。
「今日は、午前中用事があるから教えてやんねえ。自分らで勝手に滑れ」というご託宣だった。
「ただし、昼食は俺が奢ってやるから、昼になったら南間ホテルに来い。おまえ達の宿には連絡して昼食は断ってあるあるから、きっと来いよ」と言ったかと思ったら、もうスケート滑降で宿の方へ滑りだしていた。
 わざわざゲレンデに来て、私達を待っていてくれたらしい。後ろ姿に向かってSが言った。
「ご馳走になりまあす」
 明日はいよいよスキー場ともお別れなのだから、今日のうちに最後の仕上げをしなければと思って、登っては滑り、登っては滑りのエレベータースキーをやってみたが、昨日のツアーで変なスキーをしたせいか、二人ともさっぱりうまく滑れなかった。やっぱり先生にいてもらわないと駄目らしい。
「奢ってくれるといった昼食が気になってうまく滑れねえ」とSが言うので、私も同調した。
「そうだそうだ、飯を食った後なら落ち着いて滑れるだろう。こんなもんじゃないはずだ」
 すっかり自信をなくして、十二時きっかりに私らは南間ホテルの玄関をおそるおそる覗き込んだ。ヨーシの先生は、玄関横の待合室のソファにふんぞり返っていた。
 さすがに食事は豪華だった。一泊三食付一円也の食事とは比較にならなかった。食後、妹にもらった例のパイ缶を差し出したら、「学生がそんな心配するな。だが旨そうだな。開けよう」と言った。
 ビールを飲んでご満悦の先生は、制動回転についてひと言触れた。
「だいたいズダルスキーなんて奴が、制動なんて言葉を使いやがったから悪いんだ」と先生は言う。
「制動なんていえば、足を突っ張ってスキーを止めようとしながら回る技術だと思うだろう。ほんとうはそうではないのだ。外スキーの先端の内エッジに、体重をのしかけるとそれだけでスキーは目をつぶっていても曲がってしまう。その結果、スピードは制度がかけられるので、予め制動してスピードを落としてから回るわけではないんだ。だから全制動回転、いわゆるボーゲンはスピードが出ないように斜滑降を水平に近くとって滑れば、スピードなんざ出はしないよ」
「でも、昨日のように道を滑る時は困ってしまう」と言ったら、「アハハ、何も道通り滑らなくてもいいだろう、新雪の中を滑れよ、その方が気持ちがいい」
「なるほど」
「どうしても道を滑らなくてはならない時、たとえば木の密生している中の道を降る時、それにはそれの方法があるのだが、君達にはまだ無理だ。もっと練習してうまくなれば自然にわかることで、今教えてもどうしようもない。ただ、うまくなれば道を全制動でも楽に降りれるようになるが、君達のはまだ全制動になっていない。足を突っ張るから疲れる。体重を利用すればあまり疲れないし、間欠的に全制動をやればほとんど疲れない。一番いいのはクリスチャニアのように二本のスキーを揃えたまま、山側の斜面を横滑りしながら降りることで、そのうちに練習してみるといい」と言われた。
 この言葉はその後長く私の頭に引っかかって離れなかったが、その意味がはっきりわかり感覚的にも理解できたのは、確かカンダハー締め具を初めて使った数年後のある年であったと記憶している。
  

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2009年01月15日

第七日(2)

 近代スキーにボーゲンはもはや忘れかけた技術となっているが、樹木の密生した処女雪の四十度の急斜面を安定したフォームで降りるボーゲンの心地よさは、知る人ぞ知るである。三、四十メートル幅に伐り開かれたスキーコースのみを滑り回る最近のスキーヤーに、この気分はわからないはずである。
 ボーゲンは、忘れられた技術となりつつある。一九七〇年度の全日本スキー連盟指導書でも、シュテムボーゲンはクリスチャニアに入るきっかけの練習技術としてしか考えていないように見受けられる。バッジテストにもボーゲンは廃止されるだろう。
 日本のスキーはリフトが発達し、よちよち歩きしかできないようなスキー靴になり、踵(かかと)は靴ごとぴったりスキーに固定され、ただスピードの快味と、パラレルクリスチャニア、ウェーデルン、ムルメルといったスキーテクニックに集約されていくようだ。滑走は森を伐り開いたスキーコースに限定され、それ以外の樹林帯はほとんど省みられなくなった。そんなスキーももちろんまた楽しい。私も現在はそんなスキー場でスキーを楽しんでいる。しかし変化のなさに飽きることもある。
 最近ある若いスキーヤーに聞いたら、スキーの面白さは、その精一杯のスピードとそれに耐えられないで転倒に至るその寸前にあるのだと答えた。私はなるほどと感心した。彼は登山の好きな男である。確かにそんなところにもスキーの快味はあるのだろう。しかし、一面、私は現在のスキーヤーが気の毒になる時がある。せっかく恵まれた樹林の雪の斜面をもつ日本のスキー場だ。それは欧州アルプスやヒマラヤには求むべくもない。そんな自然の斜面が滑れないことはもったいないではないか。そこにも快味は存在しているのだ。
 重いリュックサックを背負い、樹林の密生した深雪の四十度の急斜面を安定したフォームで確実に降りていく・・・・・・あの心地よさは、山スキーの醍醐味なのだ。淘汰された芸術ともいえるあのテクニックも、立派にスキーの快味を持つ一分野だと思うのだ。そして、そうした場所を滑るだけというのなら、現在のスキー用具は昔のものよりよほど滑りよくできている。
 だから私はときたま長いリフトを乗り継いで、あるいはロープウェイを利用して一番高い所まで行き、降りはコースを外れて未知の尾根や谷の自然林の中に飛び込むことにしている。そこにはスキーのシュプールの代わりに動物の足跡だけのある新雪の斜面がある。樹木の密生した急斜面、雪を被った藪の落とし穴、クラストした尾根、凍った雪、腐った雪、時として腰までもぐる雪がある。断崖の行き止まり、渡れない川、雪崩(なだ)れそうな斜面もある。自然の創ったさまざまの変化が存在している。時に応じ、所に応じてクリスチャニアで、ボーゲンで、横滑りでその変化に対応する面白さを一人で楽しんで、にやにやするのだ。
 そんな時、オールドスキーヤーでしか知らないその味を、一度味わってみたい若者がいないかなあと思うのである。私は日本のスキーが一つの方向にだけ発展しているように思えるときすらあるのだが、それは自然に放置された斜面への私の郷愁でしかないのだろうか。

 話しが脱線してしまったが、元へ戻そう。
 食後のコーヒーを飲みながら名人は言った。
「俺は明日帰るが、おまえ達はまだやっていくのか」
「僕らも明日帰りますが、午前中もうひと滑りします」
「ヨーシ、それではちょうどいい。午前の練習なんか止めて俺とつき合え。小田代原を突っ切って、竜頭の滝を下って菖蒲花まで滑る。バスはそこから乗るのだ」
 一瞬、返事に詰まった。明日またしごかれるという気持ちと、小田代原のスキーツアーと、名人のスキーに追いついていくのは大変だという気持ちが入り交じったのだ。Sも同じ気持ちだったのだろう。
「先生のお荷物になりはしませんか?」と聞いた。
「そんなことはないさ、君達のペースに合わせる。心配するな。君達は山が好きらしい。俺も好きだが・・・・・・。ヨーシ、明日はスケート滑降を教えてやる。帰り途の小田代原はちょうどいいスケート滑降の練習場だ。明日は早起きしろ、六時半の出発だ」
 名人は例によって勝手に決めてしまった。仕方なしに私達は、「よろしくお願いします」と言ってしまったが、少々うんざりした反面、スケート滑降が教われると思う期待と、夏通った小田代原の美しさを思い出し、急に楽しくなった。
 ヨーシの先生のスケート滑降は、誰の目にも素晴らしかったのである。ゲレンデの半分までは右足で、後の半分は左足で滑ってみせたりしていた。おそらくゲレンデのてっぺんから片足で滑り降り、片足でストップすることもできるはずだった。現に、午後その想像を実現して見せてくれたのだ。
 てっぺんで「明日またよろしくお願いします」と挨拶を交わすや否や先生は片足で滑り出し、斜面の下でストップもせずそのまますーっと左に大きく回って木立の中に一本足のまま姿を消していった。私達は思わず溜息をもらした。
「いつかあんな風になりたいなあ」
 独り言のように言葉がついた。

 初めてのスキーの最後の晩だった。お膳の上にはお銚子が一本載っていた。宿のオヤジに、「中学生だからお酒は飲まないよ」と言ったら、「明日で松の内も明ける。縁起ものだから二人で半分ずつくらいいいさ、いや何お屠蘇だ」と言う。おちょこに注いで飲んでみたら本物のお酒だった。二杯ずつ飲んで止めておいたら、膳を下げにきた女中さんがとっくりを振った。
「まだ沢山残っているじゃないの」
「お酒飲めないからいいよ」
「そう、可愛いわね。私戴いちゃっていいかしら」
「いいさ」
「それじゃ戴くわ、コレには黙っていてね」と親指を立てた。
「うん言わないよ」と言ったら、いきなりとっくりからゴクゴクと飲んでしまった。まだ十五、六としか思えないのにとんだウワバミ娘だ。
 挙句の果て、「私匂うかしら、困ったな。お布団しいていくわ。ついでにあの歌教えて」ときた。昨夜の歌のことらしい。酔いの醒めるまで、どうやら帰るつもりがないらしい。仕方なく布団を敷くのを手伝った後、私達は覚えの悪いこの娘に「さくら貝の歌」を教えてやらねばならなかった。
  

Posted by 松田まゆみ at 08:08Comments(0)ボン・スキー

2009年01月16日

第八日

 湯ノ湖の水は湯滝となって、一段低い小田代原に落下している。そこを下るのは短いが急斜面だ。先生はリフトステミングターンという、犬ション式回転法で簡単に回りながら降りてゆく。犬ションとはSが命名したもので、犬が電信柱の傍らで行なうあの格好で回るのである。ヨーシの先生は最後の急斜面を直滑降でサーッと降り、テレマークで止まるとおいでおいでをした。
 直カリで来いというのだろうと思ったからSと目顔でうなずき合って、一、二、三で二人一緒にスタートしたが、下の平で二人同時に顔からすっぽり吹き溜まりの新雪の中に突っ込んだ。その時の気持ちは水泳の飛び込みのそれに似ていた。頭の上あたりにリュックサックがどんと乗っているのだ。手を突っ張れば際限なく雪の中に埋まってしまう。もがいてももがいても全然抵抗がない。二本の足はスキーを付けたまま空中に立っているらしい。
「大丈夫か?」という先生の声が、いやに遠くの方で聞こえた。大丈夫だと答えたかったが、雪が口の中に入り込んでいて声にならない。仕方ないからスキーを拍子木のように打ち合わせてみた。もがくのを諦めてじっとしていたら、先生が私の膝から腿(もも)を二本まとめて腕で抱えて、よいしょと引っ張った。ごぼう抜きとはこんなことだろう。やっと抜き出されて口に詰まった雪を吐き出し服をはたいていたら、「おーい手伝え」という声がした。
 Sの方が私よりよけいにもぐっていたらしい。彼は体重が重いためなのだろうが、膝から下が外へ出ているだけである。先生一人の手には負えないらしい。二人で一本ずつ足を抱えて一、二、三のかけ声で引っ張り出した。
 私はSの顔にまたまた引っかき傷だの鉤裂きができているのではないかと心配したが、幸いに古い傷跡が残っているだけなので安心した。近眼のSの眼鏡を探すのにひと苦労した後で、先生は「ごめん、ごめん」と初めて謝った。まさか君達が直カリをやるとは思わなかったと言うのだ。
 湯川は音もなく流れている。その湯川に沿ってほとんど平坦な小田代原が林を連ねている。ここへ夏来た時は、滴る緑の木陰で魚を釣る人が幾人か釣糸を垂れていたことが思い出される。今は白一色の雪の上に、兎の足跡が入り乱れていた。
「あれがフォックストロットだ。どうだ、スカンジナビアの匂いがするだろう」とヨーシの先生は味なことを言う。真黒に日焼けしてインド人みたいな先生だが、どうもただ者ではないらしい。知識階級のオジサンであることに間違いはないようだ。
 ルートは湯川沿いに少しずつ竜頭の滝に向かって傾斜しているようだ。先生の言うようにスケート滑降の練習にはもってこいの場所なのだ。こんな長い練習場など滅多にあるものじゃない。六キロは優にあるだろう。
 はじめはなかなかうまくいかなかった。現在のスキー締め具ならスケート滑降は難しいものではないが、フィットフェルト締め具の時代は少々要領が違っていた。踵(かかと)がスキーからバタンバタン離れるから、スキーを上向きに空中に押し出してテールは雪面を擦っていくのだ。踵が左右に動くのでやりにくい。しかし延々六キロの練習場である。そこで適切な説明と指導を受けながら、スケート滑降ばかりやらされれば、いくら運動神経の鈍い奴でもうまくならざるを得ない。確かにスケート滑降だけはうまくなった。
 私達が一番完全に覚えこんだのはスケート滑降だった。そしてこれはスキー上でのバランスをとる練習として、いわゆるスキーに慣れる意味において貴重だったといえる。これはヨーシの先生に一番感謝しなければならないことだった。スキーの下手な時期に何かひとつ、たとえばこのスケート滑降だけに自信を持つことができたのは、初スキーの第一の収穫だった。次のスキー行にもそれに続く何回かのスキー行にも、下手な私達のスキー技術の中で、スケート滑降となると二人とも見違えるようにうまく滑れた。
 五キロもスケート滑降をやらされたのではたまらない。私達はふらふらになって竜頭の小屋で大休止をとった。いかに上手とはいえ、大先生だって疲れたのだろう。ストーブの周りからなかなか立ち上がろうと言わなかった。もっとも時間はたっぷりあった。
 竜頭から菖蒲浜まで短いが楽しい滑降が待っていた。鱒の養魚池を通り菖蒲浜のバス停で三人が湖に向かって砲列を敷いていたら、湯元に行くバスが上っていった。
「やれやれ、あのバスが戻ってくるまで待たねばならないのか」
 先生は大きなあくびをした。
 東武日光駅で丁寧に頭を下げて先生と別れた。先生のお名前は確か聞いたはずだが、今は忘れてしまったし、住所もその時聞きもらした。その後再びスキー場でお会いすることもなかった。
 二人とも電車内はぐっすり寝込んでしまい、浅草雷門駅に着くまでの記憶はない。
 よたよたと駅前に出てみたら、ひどく腹の減っていることに気がついた。それにやけに寒いのだ。懐中の残金は少なかったが、食事をするのに不都合なほどではなかった。
「豪勢に食おうや」と言ったら、Sも賛成した。
 食後、財布の中を覗きながら果物やコーヒーを注文して、さて満腹になったところで急に家のことを思い出した。おふくろや親父の顔が眼底に浮かんだが、その顔が一瞬般若顔と仁王顔になった。そうだった。おふくろはともかく親父は服に縫い込まれている五円也のことは知らないはずだ。おふくろにしても万一の用意としてで、使っていいとは言わなかった。八日の間泊まってこられるとは、親父どもの算盤(そろばん)に乗るはずがない。
「おいS、家じゃ心配しているだろうな」
「そうだな、俺は三男坊だからそうでもないかもしれないが、それでも心配しているだろうな。葉書のひとつも出しておけばよかったかなあ」
「南間ホテルへでも電話かけて、いないと言われたら?」
「捜索願いか? オイ」
「まさか今日は出さないと思うけど、いずれにしても怒られるぜ」
「こりゃすこったかな。帰ろう」
 市電の停留所でSが立ち止まって何やらもそもそやっている。
「どうしたんだ」と言ったら、往きに買ってSに預けておいた市電の往復切符がないと言うのだ。何しろ豪勢に食ってしまって財布には一銭しか残っていない。Sも似たりよったりだ。
「おい、歩いて帰るのかよ」
「どうもそういうことになるらしい」
「ウエッ、四、五十分かかるぜ」
「仕方ない、諦めろよ。腹が満腹なんだから腹ごなしだ。睡眠は十分とったしな」
「しょうがねえな、歩くか」
 この時になって私は上衣に縫い込まれているはずの金五円のことはころりと忘れていた。もっとも気がついたとしても、市電ではとうてい細かく崩してはくれなかったろう。片道運賃七銭の時代だからである。店屋も起きているのは食堂か屋台のうどん屋くらいなもので、真暗な街路にはほとんど人の姿が見当たらないのだ。
「勝手にしやがれ、歩こう」
「おお寒、スキー場の方があったけえや」
 真暗の二人は、一人は顔に鉤裂きの跡を残し、一人はズボンの膝小僧に鮮やかな鉤裂きの跡を残して、久方ぶりのお江戸のからっ風に吹かれてとぼとぼと、否、スキーを肩にふらふらとわが家へ向かったのである。(完)

*お読みいただきありがとうございました。他の作品(カテゴリーが作品名)もお読みいただけると幸いです。
  

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