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山の挽歌-松田白作品集- › アルプスの三つの花

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2009年02月22日

アルプスの三つの花


  黒赤の蘭

 シャモニイからエギーユドミディに登るロープウェイの中継駅、プランゼギーユからモンタンヴェールへ、シャモニイ針峰群の中腹を巻いて下る路は標高二三〇〇メートルから一九〇〇メートル。終始、高山植物帯に沿う美しい路だ。右手に眉を圧して迫るブレチュール、グレポン、グランシャモアの針の連嶺、今もずり落ちそうな懸垂氷河の白い輝き、左側はシャモニイの谷を隔てて赤い針峰群の山脈(やまなみ)が連なる。シャモニイ針峰群の岩場を目指すクライマー達に利用される路でもある。そこから、手が届きそうにさえ見えるナンチョン氷河を、半ば放心して眺めていた私は、「あらっ、くろばなろーげ、じゃない?」という妻の声にわれにかえった。
 指差す草の中にそれらしい黒赤の花が見える。私達はその花に駆け寄った。
「違うみたい、何だろう?」
 道傍の岩に休んでいたガイドらしい青年が、「ボンジュール」と、私達に微笑みかけると、無造作にその花を折り採って私達の鼻先に差し出した。嗅いでみろ、というのである。かすかにヴァニラの匂いが漂う。
「あっ、あの花だ!」
 はしなくも思い当たったのは、昨夜ホテルの枕元に置かれてあったナイトチョコレートの包装紙に印刷されたブラック・ヴァニラ・オーキッド(Black vanilla orchid)である。
「メルシイ」
 青年の去った後、私はその可愛い花穂に群がる小花を、些(いささ)か度の進んだ老眼に、ためつ眺めていたが、傍らの妻は何がおかしいのかクックッと笑い出したかと思うと、こみあげてきた笑いをとうとう爆発させた。笑いを噛み殺しながら彼女は言った。
「だって、おかしいんだもん。あの人、さっき私の踵(かかと)にけつまずいたの。で、なんて言ったと思う? 『アリガトゴザイマス、マダム』だって、アハハハハ」
 今度は私の笑いが止まらなくなった。だが、他人事(ひとごと)ではないのである。私の操る怪しげな英語も大同小異、何を言ってるか、わかったものじゃなかったからだ。
 ニグリテラ・ニグラ(Nigritella nigra)いかにも黒いその学名と、あのフランスの青年を、私は決して忘れることができないだろう。


  山の家(いえ)にら

 ここには、ジョーゼットを透かしてくるような日差しがあるというのに、ヴァリスアルプスの連嶺は霞の中だった。わずかに朧(おぼろ)なのはワイスホルンではなかっただろうか? ローヌに合流する幾つかの緑の支谷がアルプスに食い込むにつれ、青を深め、白いヴェールに包み込まれる。人口二万、ヴァリスの州都シオン市を見下ろす丘の上である。なぜか私は信州の美ヶ原に続く小春日の丘陵を思い出していた。フォッサマグナはローヌの谷なのである。
 私のすぐ後ろには、古城のような教会の擁壁がそそり立っていた。露岩の間隙を這い上がる潅木、風化した砂礫にしがみつく草地、投げ出した私の足元に、ふと異様な花が目に止まった。アスパラガスの芽のような太い茎の頂上にサボテンの花に似て薄紅さした数花である。
 初めて見る花である。花茎の元に厚いロゼット葉が身を寄せ合っていたが、別の植物かと思われるほど目立たない存在だった。忽然と地から蘇った精霊、そんな幻想を抱かせたのは中世に造られたというヴァレリアの教会に原因があったようだ。
 教会は今では美術館になっていて、十三世紀に作られたというパイプオルガン、絵画、中世の武器、製粉に使われた挽臼(ひきうす)等が展示されている。厚い石壁に囲まれた教会領域内には礼拝堂のほか、司教の住居、会議室、食堂、地下食料貯蔵庫、酒造室等を含む協同生活空間を持つ建物、衛兵詰所まであった。すべて石造りで冷たい。小さな谷を隔てて絶壁に囲まれた丘の上には崩れかけた城砦(じょうさい)が見えていた。城と教会の関係を私は知らない。
 ヨーロッパの歴史に疎い私には自ら守らなければならなかった当時の教会が連想されただけだったが、人間の血腥(ちなまぐさ)い盛衰の舞台に、今も生き続けるこの花に、私はかつてここに生き、そして死んだであろう僧侶達の執念を見る思いがしたのである。
 後日、ツェルマットで買ったヨーロッパの花という本で、私はこの花が英名マウンテン・ハウス・リーク(Mountain house leek)「山の家にら」であることを知った。にらの匂いがするのだろうか。学名センペルビブム・モンタヌム(Sempervivum montanum)、北米のモンタナが頭をかすめたが、地図を見ていたらここから十キロほど東にモンタナの活字を見い出した。


  青いいわかがみ

 ひと目みたい、と思っていた。アルプスの花の中でも最も繊細でチャーミングな花と表現されているアルパイン・スノーベル。オーベルロートホルンがフィンデルアルプに投げかける斑(まだら)な残雪の急斜面で、私はそれを見つけることができた。大声で妻を呼んだが、小児のように花に向かって跳んでいってしまった彼女には聞こえない。目の下の緑のアルプには、そんなに豊富な花々が開花していたのだ。
 消えたばかりの残雪の、いまだ萠え切らない草の中に、ちっぽけなスノーベルのひと群れが花開いていた。もし指先に乗るほどの小さな女の子がいたならば、はかせてみたいスカートのような、その裾の藤色のフリンヂが消え入るほどに可憐だった。「青いいわかがみ」、私はそっと呟いた。桜草科の花なのに私はあえて、いわかがみと言おう。花はもちろん、その赤い茎も、根元に集まった小さな腎臓形の葉も、いわかがみにそっくりだったのだ。
 ヨーロッパ中部のハイランドにはドワーフ・スノーベル(Dwarf snowbell)と呼ばれる近縁種がある。自らの生長熱で雪を溶かして蕾をもたげるときく。花は釣鐘形で、花の長さの四分の一ほどのフリンヂを持っているが、アルプスのスノーベルはバレリーナのスカートのように短くて切れ込みが深い。ソルダネラ・アルピノ(Soldanella alpino)という学名は、この花らしい女性名詞である。
「アレにも見せたかったのにな」
 独りごちて立ち上がった私の肩を、氷雨が叩き出していた。早く追いつかなければ、と私は岩から岩へ跳び移った。これから行くシュテリーゼは、フリューアルプは、どうやら霧の中の彷徨(ほうこう)になるだろう。
  
タグ :アルプス


Posted by 松田まゆみ at 14:01Comments(0)アルプスの三つの花