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Posted by さぽろぐ運営事務局 at

2009年02月20日

星糞峠(1)

 サリチル酸メチルのかすかな匂いが、近くの露岩の陰のいぶきじゃこう草のひと群れから風に運ばれてきて、私の鼻を擽(くすぐ)る。ぼんやり見上げる浅葱(あさぎ)の空に、ときどきぽつんと途切れる連続音が響く。けだるい午後のローンモアに似て、それは山彦谷の底から空に広がってくるチェンソーの音だった。殿城山の山頂からわずか北に下った小さな岳樺の根元に腰を下ろすと、目前に虫倉山とそれに続く小日向山の新緑の山脈(やまなみ)が見渡せた。その最低鞍部が星糞(ほしくそ)峠である。
 諏訪の子供達に「太陽の鼻糞」と呼ばれ、土地の人々に「星糞」と呼ばれている石、黒曜石という現代の美しい名称には気の毒みたいな呼び名だが、私がその粗野な名前の方により魅かれたのはなぜだろうか? たぶん、その名にロマンが感じられるためだったろう。
 東餅屋から和田峠、鷲ヶ峰にかけての草原や山道に、石炭がらのように転がっている黒曜石。夏の烈日の下に灰黒色に風化した表面と、ビール瓶の破片(かけら)のようにぎらぎら輝く破砕面を混在させているのを見る時、「太陽の鼻糞」の感がぴったりくるのである。どこにでも転がっている石と違って、透明で硝子そっくりのこの石を見た往昔の人々が、天から落ちてきたものと考えたのは至極当然といえる。しかも、この石が石器の原料として太古の人々の衣食住に密着していたことに私のロマン癖が刺激されるのだ。
 ニセアカシアの咲く上諏訪の丘の図書館に通った、もう二十年も前の日々を私はなつかしく思い出す。それは考古学の知識に欠ける私が、黒曜石だけをやみくもに追った勉強に過ぎなかったが、霧ヶ峰周辺に軽く二十を越える石器と、その国内交易に結びつく遺跡が散在することを知ったのは驚きだった。交易路は縄文以前の交通路や人々の生活を物語るだけでなく、当然、当時の地形や風土にも示唆を与えてくれる。黒曜原石も、加工された石器も、人の背に負われて物々交換されながら、関東へ、また遠く近畿まで流れていったようだ。
 私が星ヶ塔、星糞峠、星塚等の「星」のつく地名を知ったのはこの頃である。何という文献だったかもう忘れてしまったが、その不完全な地図と記述を頼りに、私はそこを訪ねてみようと思った。和田峠に近く、黒曜石の採石地として知られた星ヶ塔はさておき、私は「星糞峠」に「シルクロード」ならぬ「矢の根石」の道を想像したのである。星塚も峠のすぐ下の高山ヶ原にあることになっていた。おまけに峠から高度差二百メートルの所に虫倉山頂があるので、当然それにも登ってみたかったのである。
 虫倉山(一六五八メートル)は特異な露岩を持つ山である。もちろん岩登りの対象になるようなものではないが、山稜の二、三ヶ所にかさぶたのようにくっついた岩塊群は、遠くから見ると毛虫のようにも、また何か大きな昆虫の集団のようにも見えるのだろう。かつてスキーで蝶々深山(ちょうちょうみやま)に登った時、それは幾匹もの地虫が雪の中から首だけ出しているように見え、ちょうど啓蟄(けいちつ)も間もない時だったので、思わずふきだしてしまったことがある。虫倉はたぶん、虫嵒からきた名前なのだろう。ともあれ、私の星糞峠行きは、藪の衰えを待ってその年の十月末になってしまった。
 その日、白樺湖でバスを降りると、私はのんびりと大門街道を下っていった。正面に蟠(わだかま)る虫倉山の虫どもが、近づくにしたがってモグラになり、ついには狸の寄り合いと化する頃、追分に着く。高山ヶ原を越えて男女倉(おめぐら)に至る道はここで分かれてゆるい登りとなる。
 高山ヶ原には当時すでに五、六軒の開拓集落があった。その中の一軒に立ち寄って私は星糞峠と星塚について尋ねてみたが、そんなところは知らないということだった。考えてみれば土地者でもない入植の人に聞いても、知っているはずはなかったのである。地図の星塚は確かにこの人達の伐り開いた耕地のどこかにあるはずだったのだが……。
 私の期待のひとつは空しくなった。目の前にはっきりしたたるみを見せ、どうみても峠というにふさわしい星糞峠さえ、その人達は知らなかったのである。私は開墾地の縁(へり)を峠に向かって構わず直上した。人間の勘もばかにはならない。いつの間にか私は峠への踏跡をたどっていた。
 苦もなく着いた星糞峠は、松を交えた濶葉樹が梢を広げ、地表は信濃笹に覆われて、黒曜石は破片ひとつ見当たらなかった。踏跡も途切れたそこには、もはや人の息吹の通う峠路の姿はひとかけらもなかった。
 私は一本の松の根かたに腰を下ろすと、遅い昼食の弁当を広げた。正面には大笹峰からゆうゆうと高山ヶ原に延びる草紅葉の大斜面があった。その末端に芒(すすき)の白い穂波に隈取られて、ひと握りの人間のステータスが、早くも傾きかけた日差しに、あまりにも小さな影を引いていた。
  


Posted by 松田まゆみ at 16:41Comments(0)星糞峠

2009年02月21日

星糞峠(2)

 日本の古代、海辺からフォッサ・マグナに沿ってはるばるこの中央高地にたどりついた人々は、いったいどのような生活をしていたのだろう。荒れた山肌を一歩一歩登ってくる一団の人影が、ふと私の脳裏をよぎった。背は低いが逞しい筋肉の男達、褐色の肌がまぶしい女達である。女は尖底土器を頭から吊っていた。その中には石鏃(せきぞく)がいっぱい詰まっている。男は葛の蔓で編んだ袋を背負い、それには黒曜石の塊が入っている。やがて、彼らの裸足は星糞の破片をかすかにきしませ、峠の採石場の散乱を越えて、休もうともせず北側の谷に次々と姿を消していった……。私はなおも幻想を追う。
 春がくると彼らは峠を越えてやってくる。峠の南側、高山ヶ原の一角で、仮の穴居生活が始まる。それは家族ぐるみの自給自足の共同作業だ。峠一帯の星糞の採石と集積、選別、そして小さい破片は石鏃に加工される。作業の合間に男は狩を、女は木の実等の食料を集めて炊く。秋風とともに彼らは原石や加工した石鏃を背に山を降りるのである。
 卒然、私は笹の根元の落葉をかき分け、手にしていた割箸を差し込んだ。手ごたえのあった小石を掘り出すと、それはまさしく星糞だった。水筒の水で洗い、陽に透かすと、それはかつて見たこともないほど無色で透明な黒曜石だった。私は箸を木の枝に代えてその辺を掘り起こし、なるべく無色の石を六、七個選んでザックに放り込んだ。
 時計はすでに二時半をまわっていた。最終バスの時刻を考えると、残された時間は一時間足らずだ。「三十分だけ登ってみよう」自分に言い聞かせると、私は虫倉山への笹薮に飛び込んだ。肩までの笹漕ぎはまだよかった。尾根が痩せ、樹木が疎らになるとともに出現したクマイチゴの縦横無尽のバリケードに、私は山頂を間近に望みながらあえなく撃退された。時間は予定を三十分もオーバーしていたのである。追われた猪のように笹波を蹴立てて峠を駆け下った私は、引っかき傷でひりつく腕を抱えて、高山ヶ原を追分に向かって走り続けねばならなかった。私が虫倉山について知り得たことといっては、例の虫嵒の狸どもは風蝕された板状節理の溶岩塊で、蛇骨原(じゃこっぱら)の鉄平石と同じ、たぶん輝石安山岩だろうということだけだった。
 上諏訪のわが家に帰った私は、和田峠の星糞と比較してみた。星糞峠の石は表面に大小の凹凸がはなはだしく多く、一見して富士の青木ヶ原の溶岩を思わせ、破砕面も艶を失って粗面なのである。そのくせ、陽にかざすとほとんど無色透明であることがわかった。私ははじめ、その表面の状態は黒曜石が生成した当時の状態そのものなのだと思った。しかし、良く観ると明らかに溶岩のそれとは異なっていた。凹凸というより月のあばたに似ていた。あばたの幾つかは深く抉れていて、なかには凹みの底から裏側に小さな穴が貫通しているものさえあった。ルーペで観察すると、あばたの表面には植物の細根のようなものがこびりついているものも見つかった。どうやらここの星糞は植物の輪廻によって生じた腐食壌土に埋もれて、幾千年もの間にその根や微生物によって侵蝕されたもののように思われた。
 和田峠の石の内部には肉眼では見えないほどの小さな泡がときたま観察される。星糞峠のものは泡も大きく、数も幾分多い。私は戦時中、ガラスの製造、研究に従事したことがあるが、星糞の表面のあばたが石の生成時の泡に原因するものだとすると、このような高粘度の溶融体の表面にだけ大小の泡が集中し、そのすぐ下の層に泡がほとんどない、という状態はなんとも納得できないことだった。それに星糞峠の名は感じとして、なんとなく軟質で、粘りがあるように思えたのである。
 試みに私は白金線の先に小さな輪を作り、それに星糞を載せて、ブンゼンバーナーの炎の中で熱してみた。驚いたことに星糞は泡立ち、泡がなくなると美しい無色のガラス状小球になったのである。それはちょうど定性分析の硼砂球反応のようだった。黒曜石は簡単に溶けるものだ、と私はこの時思い込まされた。
 それから数年後、私の話に興味を持った友人の前で、私は今度は和田峠の星糞を同じようにバーナーの炎で熱してみた。ところがこの石は泡も出さず、溶けてもくれない。私はあわてて星糞峠の石を探したが、紛失したらしく出てこなかった。割り切れない気持ちのまま、私には以前の実験が白昼の夢だったようにさえ思われた。その後再び峠に行く機会もなく、私は東京へ転居して星糞のことはいつの間にか忘れてしまった。
 今年の五月の連休に立山へスキーに行った帰り、私は大糸線で松本へ出た。日本の翡翠の故郷、姫川の谷に萌える緑は私に星糞峠を思い出させた。翡翠もまた勾玉(まがたま)等に加工されて、縄文の頃から日本全国に流れたといわれている。思い立ったら止まらないのが私の性分である。同行の家内と茅野で別れると、スキーを駅に預けて私は白樺湖行のバスの客となった。
 しかし、夕暮れに着いた白樺湖の想像以上の変貌ぶりに私は唖然とした。散歩に出る気も失せ、旅館の窓から湖畔を取り囲む高層ホテルや、虎刈りの八子ヶ峰を眺めるばかりだった。翌朝、私は大門街道のご立派なアスファルト道路を一人ぽかぽかと下っていった。左手の殿城山は唐松の深緑のスカートをつけてはいたが、上半身はストリップである。行手の虫倉山も大方はバリカンが入り、虫岩はごろ出しである。お冠の私は、わが物顔に行き交うマイカーの爆音とガソリン臭の中を自然と足を速めていた。そこにわずかに残された郷愁は、沢沿いに今を盛りの山梨の花だけだったが、それも「姫の木別荘分譲地」の立看板であえなく消えた。追分に近く、眼前にせり上がる虫倉の尾根のボス狸はお腹まで剥き出されてお手上げの体である。それに何と、高山ヶ原への道も舗装道路ではないか! 二十数年の歳月は長かった。霧ヶ峰には、もう人間の歩く道はなくなっていた。
 高山ヶ原には何台ものトラクターが動き回り、今は立派に育った大笹峰の植林際まで広々と開墾されていた。入植は成功したのである。畑仕事の人に「星糞峠は」と聞くと、今度は即座に「あの道を行けばいい」と、耕地の真中をゆうゆうとうねる自動車道を指差した。私にしてみれば、人間の歩く道を教わりたかったのだが……。
 素直に礼を言って車道をしばらく行き、人影のなくなったあたりから荒地の中を峠に向かって直登した。登り着いてそれこそびっくり仰天したのは、そこを大きくカーブして横断しているアスファルト車道が目に飛び込んだからである。わが夢の矢の根石交易路は、今や高原野菜の運搬路と化し、車道の脇に盛り上げられた土砂に混じって、星糞のかけらだけが五月の陽をちかちかと虚しく照り返していた。
 峠にはまだ原生林が残されていたが、それを突破することは容易だった。ほどなく刈り払われた尾根に飛び出したからである。ほとんど感慨もなく、私は虫倉山の頂上を踏んだ。その北の肩にはよい道が大門街道に下っているのが見えたが、私は追分に向かって直降する道のない尾根を降路に選んだ。そこには旧知のボス狸が両手を上げていた。攀じ登った彼の肩口の青空に、八ヶ岳連嶺の白い波頭が遮るものもなく遠く、私の目頭を潤ませた。
 今、私の机の上にはその時の星糞が並んでいる。私はまだ、それをバーナーの炎に投じてはいない。この星糞ははたして泡立ちながら溶けてくれるだろうか? それとも、やはりあれは白日の夢だったのだろうか? その結果が何となく怖いのである。
  

Posted by 松田まゆみ at 14:00Comments(2)星糞峠