さぽろぐ

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2009年02月01日

石老山頂(3)

 私は思いっきり苦いコーヒーを舌の上ににじませながら、Sのスケッチブックを開く。数々の山行をともに歩いた歴史が、表紙の手擦れに残っている。めくる頁々に、Sのしっかりしたデッサンが現われる。ああ、その一葉一葉に残る思い出の数々よ。

 尾瀬、至仏山頂
 そこで私達は長い時間、休んだんだった。目の下には遥か燧岳(ひうちだけ)の麓まで広がった尾瀬ヶ原の湿原。そこには大小さまざまの手鏡をちりばめたように、幾つもの池塘が夕日に光っていた。姉さんは黙って筆を動かし、僕は岩に腹這って「夕暮れの歌」を歌っていたっけ。

 秩父十文字峠
 暮れやすい紅の陽が、昼なお暗い針葉樹林の木の間を透かしてちらちらとこぼれていた。苔の匂いのする冷々と湿った道。貴女は船乗りのお父様と貴女の生まれた南米の話をしてくれた。狭い空にピンク色の雲が流れていた。

 谷川岳山頂に近い岩棚の上にて
 霧が晴れないままに、姉さんはスケッチブックを傍らに放り出して、「オーゼの死」をハミングで口ずさんでいた。私はザイルを肩にかけたまま、姉さんの声が厚い霧の壁に反響するのをじっと聴いていた。遥か下に岩登りのパーティーがいるのだろう、ピトンを打つ音が聞こえていた。しまいには私も歌ったね。二重唱のあの悲しげな音律が、濃い霧の中に広がってゆき、他のパーティーがしばし登るのを止めて聴き惚れたという。あれは確かに霧のおかげだったね。

 那須郭公温泉
 雨に降り込められた一日。退屈まぎれに姉さんは珍しく、女中さんから口紅を借りて鏡台の前に座った。僕は蓄音機にワインガルトナーの「英雄」をかけて聴いていたが、あの時の葬送の楽章がとても印象的だった。窓の外は降りしきる銀簾(ぎんすだれ)の雨。その中を濃く、あるいは薄く霧が飛び去ってゆく。ベートーヴェンはあんな雰囲気の中で、あの交響曲を書いたんじゃないだろうか。あの時っきり後にも前にも見たことのない、口紅で粧(よそお)った姉さんの美しかったこと。

 日光太郎山
 山頂で古銭を拾ったという山仲間の話を聞いていたので、その辺をほじくり回ったっけ。だけど瓦片(かわらけ)ひとつ出てこなかった。賽銭箱を開けてみたら、明治三十一年の半銭銅貨と大正十三年の一銭銅貨が一枚ずつ出てきたっけ。太郎は人の訪れも稀な、ぽっつり取り残された頂だった。


 ああ、今日この石老山頂のスケッチでこのブックは永遠に終わってしまう。Sとの交際の糸も切れる。スケッチブックを閉じて返そうとする私の手を、Sは押し戻して言った。
「それ坊やにあげるわ、私の記念に」
 彼女にそう言われると、私は急に胸中が熱くなってブックを胸にかき抱いた。
「ほんとにもらっていい? 何だか悪いな」
 Sの代わりにこれだけが私の手に残ると思うと、何だか無性に悲しくなった。
「姉さん、僕はいつも姉さんに感謝している。僕がこうやって今日まで生きてこられたのは姉さんのお陰なんだもの。姉さんは僕の再生の恩人なんだ。姉さんがお嫁にいってしまったら、僕はまた元の僕にかえるんだろうか? そんな気もするんだけど……。僕は姉さんが好きだ。姉さんはいい人だ、きっと幸せになれるよ」
「ウフン、どうだかね」
「僕は駄目、姉さんと別れて恋人を持つ気はないし、もちろんもうとう結婚する気なんかしない。希望のないこの世の中に、母や弟を養い続ける貧しい生活の連続があるだけなんだ。いったい何のために生きていかねばならないのかなあ」
「坊や、君は意気地なしだわ。もっと強い男にならなきゃ駄目よ。女ってどんなものだか知ってる? 男ってどんなもんだか教えてあげるわ。女は受身よ。男は能動が本性よ。女は男に蹂躙(じゅうりん)されたい一面を持っているの。女を蹂躙してみたまえ、貴男(あなた)の行く道がきっと開けるわ。貴男に生きる勇気が出るわ。私達は少年少女のような美しい夢をいつまでも見続けてはいられないのよ。いやでも夢のヴェールをかなぐり捨てなくては大人になれないのよ。可哀そうだといって、動物や植物を殺して食べずには人間は生きていけないでしょう。理想と現実の板ばさみの中で生きていかねばならないのが、人間に与えられた悲しい定めだわ」
 いつになく熱い口調のSだった。
「貴男は、生(なま)の男になる必要があるわ」
「そうかな? そうかもしれない。だけど僕はこのままどこまでも生きていきたい。たとえ『天の夕顔』の、あの男のような運命に終わろうとも満足できるような気がする」
「馬鹿ね」
 突然、私の腕はきゅっと抓(つね)られた。瞳を上げると、間近にSの茶色の瞳があった。それは笑っているようないたずらっ子のような色を漂わせていたが……。
「気合を入れてやろうか? ……女っていう動物はね、こんなものよ」
 あっという間もなく、Sの顔が私の顔に被さってくる。柔らかい温かいものが私の唇にふれ、熱いものが全身を駆けめぐった。
 沈黙が続いた。真空の中にいるような、息苦しく思考のない沈黙の時が続いた。地球が回転を止めて、鼓膜は音を聞かなかった。
  

Posted by 松田まゆみ at 13:49Comments(0)青春挽歌

2009年02月02日

石老山頂(4)

 陽は西に傾き、冷々した空気があたりを領していた。生まれてからかつて経験しなかった接吻という行為を、瞬時として経験した私達に言葉のない時間が静かに経ってゆく。もうじきお嫁にゆく女(ひと)は、目を伏せてスケッチブックの閉じ紐を指先にまさぐっている。堅く結ばれた唇が、何事もなかったようにしっかりと確かな線を夕焼けの空に浮かせていた。どうしたことか、何やら味気なさが私を限りなく淋しくした。あんなに愛し合っていたM子とは、ただ一度お互いの体温を掌を通して感じあっただけで別れる。今、私はもうじきお嫁にゆく人とどんな行為をしたというのだろう。

「もう降りないと暗くなるわ、降りよう」とSが言う。
「うん」
 私達は立ち上がった。
 そして枯葉に埋まった山道を、ほとんど無言で下っていった。絶え間なく枯葉が散っていた。枯葉、枯葉、音立て踏み散らされる枯葉。私の青春の挽歌か……。引き止めようもなく去ってしまう、私の青春への傷みか……。終わろうとする青春への哀惜(あいせき)が私の胸を締めつける。
 M子もSも、私を置き去りにして嫁いでゆく。残された私にはもう青春がない。私はまた一人ぼっちの危険な山旅をやるのだろうか。いや、たぶんそんな危険を冒す勇気もなくなるだろう。なぜなら、私にはもう無鉄砲な青春がなくなったのだから……。
 気分を変えるようにSが歌い出した。曲は「落葉のワルツ」だった。私はニノン・ヴァランの歌うこの曲が好きだった。作曲者のアーンはニノン・ヴァラン夫人が好きだったのではなかろうかと思わせるほど、このニノンに捧げられた曲は甘くそして悲愁を帯びていた。
「キッチン、ごめんね。M子さんに悪かったかな? 君のきれいな夢を破っちゃって少し後悔してるのよ、ごめんね」
「姉さん、そんなんじゃないよ。僕はむしろ嬉しいんだ。僕は大人になれるような気がしている。きっとなれるよ。さっきから、僕は自分の青春の挽歌を聴いている。もう戻ってこない青春だと思うと少し名残り惜しいけど、大人の世界がこれから始まるかと思うと、何だかそれも悪くないような気がしてきた。
「何言ってるの、青春が終わったのは私で、キッチンはまだこれからよ。貴男(あなた)は今までほんの子供だったの。青春はこれからよ。これから恋愛して、いい女性と結婚するの。女なんて星の数ほどいるわ」
「フーン、それじゃこれからうんと浮気しようかな。ドン・ファンになるよ。姉さん、今度は僕が気合入れてやろうか」
「まあ、あきれた子。アハハハハハ」

  キッチン キッチン その意気だ
  その意気 その意気 虫の意気
  キッチン キッチン その意気だ
  押しちゃえ 押しちゃえ その意気だ

 子供の歌の節に合わせて、私達は山を跳び下った。
 黄昏迫る頃、私達は顕鏡寺を通り過ぎた。そして夕闇の中を、桂川を渡った。与瀬の町にはすでにちらちらと灯がともっている。私達の足はまだちっとも疲れていなかった。
  

Posted by 松田まゆみ at 11:29Comments(0)青春挽歌

2009年02月03日

大垂水峠越え(1)

 新宿行きの列車には十分間に合う時刻だったが、私はもっと歩きもっと話したかった。もうSとの山旅はこれっきりだと思うと、汽車へ乗ってしまうのが心残りだった。
「S、浅川まで歩かない? 大垂水峠越えさ……。終列車には間に合うと思うよ」と私は提案した。
「魚心あれば水心って奴かな? 歩くわ。これで最後だもの。一晩中歩いていてもいいわ」とSの答え。
 私達は駅を横目に素通りしてしまった。すでに人の顔も定かならぬ与瀬の町には、鰯(いわし)を焼く匂いが漂っている。その匂いを嗅ぐと、急に思い出したように空腹を覚えたのは私だけではなかった。私達は町はずれで鯛焼きを買った。舌を火傷(やけど)しそうに熱い「あん」だったが、その味は今でも忘れることができない。
 道は街道だけに幅広く、おそらく真暗になっても闇夜でない限り歩くのに不自由は感じなかった。まして今日は満点の星空を約束するように、丹沢山塊の上に広がる藍色の空にはもう一番星がまたたいていた。
 そよそよと冷たい風が吹いていたが、歩いている私達はほとんど寒さを感じなかった。人影もない白い砂利の道が、山裾を縫ってゆるい勾配でどこまでも上り続けている。左手は小仏峠に続く連嶺の斜面、右手は桂川の広い谷で耕された段丘が、小さな林やこんもりと森にとり囲まれた人家を載せて、次第に低く末は曖昧模糊と青黒く煙って見えない。
 私は、伊豆の大島で初めてSと会った時のことを思い出していた。
「坊や、何考えてる?」
 Sに聞かれて私は「大島のことさ」と答える。
「ああ、そうか! あの時のこと……。あの時そういえば君の顔には死相とでもいうのかな、放っといたら死んじまうんじゃないかと思うような、何ともいえない陰りがあったの。気になって後をついていって、つい言葉をかけちゃった……。早いなあ、あっという間にもう今日になっちゃった」
 Sの述懐で、私はあの当時のことを目まぐるしい映画のカットを見るように思い出していた。
 濃いコバルトの海と空、Sと式根島に渡った鴎(かもめ)のようなスクーナー、イギリスの船室風のSの家の応接間、Sの母、花びらの浮いていた夜の露天風呂、蒼茫(そうぼう)と暮れゆく式根大山の山頂、芒(すすき)の原、東京湾の見える海辺、夜の帆走……。思えばそれらが私達の友情にはるばるとつながっているのだ。
 夜は人の心を落ち着かせる。先を急ぐ旅人も「夜道に日暮れなしか」と焦る心も静められる夜の旅だ。まして私達には先を急ぐ何の理由もなかった。
 しみじみとしたものが、二人の心に交流する。
「あれから三年、キッチンはどうか知らないけど、私は満足だったわ。美しい青春だった。君がいなかったら私の一生の青春の頁は、何も書くことがない空欄に終わったわ。私は潮時だと思ったの……。若い前途のあるキッチンを、私と山に縛りつけていつまで歩き続けるかと、近頃いつも考えていたの。私はお嫁になんかいきたくないわ。いつまでもキッチンと山を歩いていたいの。だけど生きるためには潮時ってものが大切だって人に言われたの。確かにそうだと思うわ」
「うん、だけど姉さん、結婚して幸福になれる?」
「そんなことわかんないわ、ぶつかってみなくちゃね。幸福ってのは何だろうかって考えたことあるでしょう? 私はキッチンとの山旅が楽しかった。その時どきに、私は幸福だと思ったわ。けれども、それはほんとうの幸福ではなさそうなの。幸福には、それと同じ量の苦痛を伴うはずだわ。キッチンとのつき合いには苦痛がないんだもの」
「幸福と苦悩が楯の両面だってことはわかるけど、僕と姉さんは結婚してないんだもの、片っ方がないのは当然じゃない?」
「そうよ、その通りよ。私達は結婚できないの、だから苦痛もないわ。一個の立派な楯になる資格がないのよ」
「結婚できない?」
「うん、できないわ。したらきっと幸福より苦悩の方が多くなるわ。キッチンにはそれ、わからない?」
「わからないな」
「私にもよくわからないの。でも、そんな気がするのよ。だいたいキッチンが可哀そうだよ、こん女房じゃあ……ハハハハ」
「そんなことはないけど、姉さんを……ほかの女の人にしてもそうだけど……幸福にできる自信なんか僕にはないよ」
「まだキッチンは若いの、結婚なんて考える時期じゃないのよ。生活の設計はまだまだこれからよ。私はもう時期なの、私は結婚するの。苦しみや悩みがきっとくるわ。その連続かもしれない。だけど幸福といわれるものだってくるかもしれないわ。どんな結婚だって、絶対に幸福だって言いきれる結婚なんかないわ。不幸だって言いきれるものもね。私は情熱家なの。自分を抑えきれない時があるの。自分で自分が怖いくらい。これからもいろいろつまずくわ、きっと。だけどその代わり私だって取り柄はあると思ってる。自分を隠さないの。隠せないの。自分を偽らなければ、いつかは存在価値が認められると思ってるのよ。間違いかな? 間違いでもいいわ。そのためになら自分を滅しても私は悔いないわ。こんな気持ち、未知の人との結婚に対する不安を追っ払いたいためだって言われるかもしれないけど、でも正直に言って未来に対する期待だって、ちょっぴりだけどあることはあるわ」
 いつにないSの能弁だった。そしてこれほどまでに自分を考えているSに比べ、私自身が急に恥ずかしくなった。
「姉さんごめんね。僕も生きるということをもっと真剣に考えなくちゃいけないね。しかし僕は駄目なんだ。僕は落伍者だ。現実に真向かうことのできないロマンチストだ。僕なんかこの地上から消えてしまうべきだ」
 私の自己嫌悪の表現に対して、彼女の顔はキッと引き締まった。
「キッチン、私たったひとつお願いがあるの。どう? 聞いてくれる?」
「うん、聞くよ」
  

Posted by 松田まゆみ at 13:54Comments(0)青春挽歌

2009年02月04日

大垂水峠越え(2)

 道端の人家から座繰(ざぐり)の音がする。ブーンブーンと単調な響き……。私はその音を聞きながらSの次の言葉を待った。
 Sが言い出さないままに、私はこんな寒い晩まで糸を繰る娘の、赤くふくらんだ指を思い浮かべていた。しかしSが話し出さないのは、ほかに理由のあったことがすぐわかった。一人の男が後から追いついてきていた。そして私達に並ぶと、ぴょこりと一つ頭を下げてから話しかけてきた。
「どちらへお出でです?」
 私は、この突然現われた芳(かんば)しくない道連れに話の腰を折られて腹がむかついたが、仕方なく「浅川です」とぶっきら棒に応えた。
 男は驚いたような顔をした。
「この夜道をですか? あの、東京の方では?」と言う。
「そうですよ、終電には間に合うでしょう」
 男は首をひねって「さあ?」と言った。
「よほどお急ぎにならなければ」とつけ足してさらに続けた。
「私はこの先の天下茶屋の者ですが、ひと風呂浴びて与瀬から終列車でお帰りになったらいかがです? うちの車でお送りしますよ。浅川まで歩いては大変ですよ」と言う。
 天下茶屋という鉱泉宿のあることは私も聞いていた。わりあいに高級な連れ込み宿であるということもついでに聞いていた。
「おじさん、僕らはご覧の通りのハイカーで、そんな金持ちじゃないよ」
「山登りの方はときどきお寄りになりますよ。お風呂はお二人様で一円、お泊りはお一人様三円。美女谷温泉あたりより、うちの方がずっと閑静で。お出でになる方々のお人柄が第一違いまさあ……」
 聞きもしないことをよく喋る男だった。
 いつの間にか、日はすっかり暮れている。満点の星空である。私はふと風呂へ入りたい気分に誘われたが、連れ込み扱いされると思うといやな気持ちになって、すぐには次の言葉が出なかった。男は何と勘違いしたか、「ね、そうなさいまし」と言ってSを振り返った。
「奥様それがおよろしいでしょう」と言う。Sの片頬にえくぼが浮かんで、小さく「フフフフ」とふくみ笑いしたようだった。
「おじさん、僕らはそんなんじゃないんだ。泊まったっていいけどお金は六円しかない。帰りの電車賃がなくなるよ」
「ご冗談を? アハハハハハ、宿料なんかいかようにもご相談に乗りますよ」
「冗談じゃない、今のはヒヤカシだよ」と私は慌てて手を振る。
 Sと私はこれまで何回か山小屋や温泉に泊まった。ちょうど仲のよい姉弟のように。しかし今日はいつものように気軽に沈没する気になれなかった。
 私はSを返り見た。Sの顔には何の動揺の色もなかった。
「沈没しちゃおうか」と言えば、「うん」と言いそうな顔にも見えるし、「今日は駄目」と叱られそうな顔にも見えた。
 私はわからないままにしばらく沈黙を続けた。私の心の奥底で、なぜ「止す」とはっきり言えないのだ、という言葉が弱々しく囁(ささや)かれた。やがて夜目にも白く「天下茶屋へ」と記された標柱の前に立ち止まると、男はもう一度「いかがです、休んでいらっしゃいまし」と言った。私は、私の網膜からSとどてらで寛(くつろ)ぐ姿を追っ払いながら言った。
「おじさん、またこの次に来るよ」
 男は団栗眼(どんぐりまなこ)をきょとんとさせて頭を掻いた。
「そうですか、それではまたこの次に是非」と言って、標柱の後ろの暗がりの中に消えていった。
 何とはない味気なさが残った。二、三十メートルも沈黙して歩いただろうか、Sは立ち止まって天下茶屋の方を降り向き、標柱を闇にすかし見る素振りを示しながら言った。
「あの標柱がね、この辺にあったとしたら……、もしあんなに早く現われなかったら、私は泊まっていこうってきっと言ったわ。そしたらキッチンどうするつもりだった?」
「もちろん泊まったさ……、いやわかんない」
 私はあいまいな言い方をした。
「私は危険な女ね」
「いや僕が弱虫なんだ」
 白い標柱は遠くうすぼんやりと闇の中に突っ立っていた。運命の神に静かに手繰られてゆく糸の末端を、なすこともなくただじっと見送る人のように、刻々遠ざかる糸を私達もただ突っ立って見ていた。
 勇気とはその糸の末端を掴むことか、見送ることか。愚かな私には今もってわからない。運命の岐路に立った人間は賭けをしているみたいなものだ。その判断は計算ではない。
「エエイ、やっつけろ!」そういう男に私はなりたいと思った。
 しかしSは違ったことを言う。
「キッチンはいざとなると強いね、難攻不落かな。私はやっぱり女だわ、駄目ね。林芙美子さんじゃないけれど『やっぱり私はただの女でございました』か!」
 先日築地で見た放浪記の台詞(せりふ)だった。
「S、男って奴は賭けができないようでは駄目だね。理論だけじゃ何も実行できやしない」
「キッチンの場合、おおいに必要だね。だけど賭けよりもっと必要なものがあると思うよ」
「姉さん、それ何だい? 言ってくれよ」
「言ってくれって言わないでも、言おうと思ってた。さっき言いかけたことも同じこと。……その辺で休んで話そうか」
  

Posted by 松田まゆみ at 15:10Comments(0)青春挽歌

2009年02月05日

大垂水峠越え(3)

 私達は道の左側の斜面を二十メートルほども登った枯れ芒(すすき)の中に腰を下ろした。目の下に素晴らしい風景が展開していた。
「奇麗だわ」
 Sが嘆声を上げる。
 足元に白くうねる街道から向こうは、次第に闇の黒さを増す桂川の谷である。それは底知れぬ海のように深い。この細長い入江は丹沢と道志の山襞(やまひだ)に深く食い込み、ちょうどあのスカンジナビア半島に多いという峡湾(フィヨルド)の夜の風景を想像させる。丹沢も道志の山も青黒く聳え立って、昼間より高く険しく見える。何よりも美しいのは、山裾や段丘のあちらこちらにかたまりあって灯る村落の燈火だった。その灯はフィヨルドの岸近くに漁(すなど)る漁船の漁火(いさりび)に似て、スウェーデンかノルウェーにいる錯覚をおこさせた。空には秋の星が一面にきらめいていた。
「S、僕はビョルソンの小説の中にいるような気がする。森、流氷、フィヨルド。またロマンチストって言われるかな?」
「そうね、私はグリークを思い出していた。イ短調のコンツェルト、それともハ短調かな?」
「北欧へ行きたいな、姉さんと」
 Sと私は枯草の中に寝ころんで空を見た。地上の景色には耐えられないノスタルジーがあったのだ。
 空にはオリオンが大きく立ちはだかっていた。天頂のペガサスの四辺形、泣き濡れる七人の姉妹星プレアデス、カシオペア、セフェウスの星々。山の峰近く、眉よりも細い月が昇っていた。北原白秋の歌った金無垢の月である。
 星こそギリシャ人の叡智のまたたきである。私は星を見るのが好きだ。純潔と狩猟の女神アルテーメス、美と裁縫の女神アフロディティ(金星)、ジュピター、神の使者ヘルメス(水星)、イルカと戯れるキューピット。人の世の縮図が美しく描かれている天。
「姉さん、カシオペアは一年に一度、逆さにならなければならないんだってね。王女のアンドロメダはまだ両手を鎖で縛られてるんだね。ペルセウスは飛行靴を履いて颯爽(さっそう)と飛んでるね。あっ、オリオンの腰の剣があんなにきらきら光ってる。あっ、星が飛んでる、あすこだ『ヨブの柩』の横のところだ。
 私のお喋りをSは黙って聴いているようだった。いい気になって、私は読んだばかりのギリシャ神話のヘラクレスの話など喋っていた。
 気がつくとSはいつの間にか起き上がっていた。向こう向きのSの肩のあたりが小さく波打っていて、何だか様子が変だった。私は「どうかした?」と聞いた。Sは答えなかったが、その代わりかすかなすすり泣きのようなものがかなりはっきり耳についた。Sは泣いていたのだ。
 私は驚いて「お腹でも痛いの?」と聞いた。Sはかぶりを振って否定すると、「何でもないの、少し放っといて」と今度ははっきりとこみあげながら言ったが、それとともに泣き声は大きくなった。
 私は何がなんだかわからなかった。どうすることもできないままに、例のフィヨルドをぼんやり眺めているほかに仕方なかった。
 Sが泣いている。男のような女が泣いている。今まで知らなかった女としてのSが、私の前に泣いているのを私はなす術もなくただ眺めていた。

  此処過ぎて 愁(うれい)の市へ
  此処過ぎて 永遠の傷みへ
  人は行く

 この無意味な空間に何の意味もなく、そんな文句が思いだされた。

 やがてすすり泣きは次第に収まってきたが、Sの肩は夜目にもそれとわかるほど小刻みに震えていた。私は急にその肩がいとおしくなって、そっとその円い肩に手を置いた。
「姉さん、どうした。何か僕が気にさわることでも言ったの?」
 同時に急にSの肩が動いて、私の胸に柔らかい重みが加わった。髪の匂いがあたりにゆらめき、生温かい涙が私の指を濡らした。私はおそるおそるSの肩を抱いた。柔軟な皮膚のかつて感じたこともない感触が私の腕を伝って、大きな波の高まりにも似たものが私の胸を領有し、みるみるうちに真黒な翼を広げていった。
 私は抵抗した。なぜかしらず、私はその黒い翼に対し必死に抵抗した。
 私の腕の中には女(おんな)がいた。
 もうじきお嫁にゆく女(ひと)がいた。
 幸福がこの女(ひと)を待っている。この人は幸福にならなければいけない人だ。きっとならなければいけない。リオグランデの裏街で異郷の人の子として生まれ、母の顔も見ぬうちに異郷の日本に連れてこられ、見知らぬ日本の母に育てられ、十六才の時に血のつながるたった一人の父に死別した女(ひと)よ、「姉さん、あなたはきっと幸福になれるでしょう、きっと幸福になってください」と、私はそんな意味のことを言葉には出さずに胸の中でもぐもぐと夢中で口走っていた。
 そのうちようやく私は言うべき言葉を口に出せるようになった。Sの二の腕をしっかり掴んで、「姉さん、姉さんはきっと幸福になれるよ」と言ってはみたものの、私の声もわれながらどうしようもないほど震えて言葉をなさなかった。不思議にも、自分の頬に自分の涙が伝わって流れるのを、他人(ひと)の涙がわが頬を伝うように思われた。
 すすりあげながらSは顔を上げた。エーンエーンと星明りに駄々っ子の泣くような手放しの顔だった。私はポケットから急いでハンカチを引っ張り出して、彼女の顔にかけた。涙を拭ったSの顔が私の胸の中で無理に片えくぼをつくった。星明りにまだ涙がまつげにちらつき、夜開くという月下香の花のように匂った。子供のようにあどけないくせに、かつてみたことのないSの美しさを私は見た。
「恥ずかしいわ私、泣いたりして……。ごめんね」
「どうしたの、僕どうしようかと思ったよ」
 Sはぺろっと長い舌を出して微笑んだ。
「歩こうか」
 私はリュックを背負って立ち上がった。Sは座ったまま私にさっきのハンカチを差し出した。
「姉さんにそのハンカチ、記念にあげる」と言うと、私は彼女の両手を取って引き起こした。Sの手は氷のように冷たかった。
 街道には風が吹いていた。枯葉がカラカラと私達を追って飛び過ぎる。
 私はSの手を離さなかった。私の掌の中にあるそれは、芋虫のように柔らかくて冷たかった。初めて私の掌の中にこうしてじっと暖められているこの手は、もう二時間もしないうちに永遠に別れてゆく手だった。

  

Posted by 松田まゆみ at 10:51Comments(0)青春挽歌

2009年02月06日

大垂水峠越え(4)

 大垂水峠もいつしか過ぎ、道は下りになっていた。相変わらず、枯葉が背中を丸めて私達の足元を転がってゆく。
「姉さん、僕に言いたいことがあるって言ってたね、あれは何?」
「ああ、あのお願い? もういいの、言わなくても」
「でも言ってくれよ。もう二度と聞けなくなるんだから」
「何でもないのよ。じゃ、半分だけ言うわ。私はさっきの涙で私の青春の夢をすっかり洗い流したの。さばさばしたわ。君もM子のこと、さっぱり忘れた方がいいわ。他人の奥さんになっている女(ひと)のことをいつまでも考えるなんて、男らしくないわ。私がいなくなっても、もう死ぬなんてこと考えちゃ駄目よ。これが私のお願い」
 私は急に目の中が熱くなった。
「うん、わかった姉さん。言われるまでもなく、僕は今日限りM子を忘れる。過去の思い出として姉さんもM子も決して忘れられはしないが、僕の将来にとっては有機的な現実的な何物でもないんだもの。僕はさっぱりと忘れる。姉さんはほんとうに僕の再生の恩人だね。お互いに、姉さん、希望を持とう」
「そうね、私達、希望を持とうね。そうだわ、今日の山旅が私達にとってほんとうに有機的であるように、私達は希望を持ち、どんなことが起ころうともそれを持ち続けると約束しない!」
 目を見張ってSは言う。
「賛成。何か困難に突き当たって希望を失いそうになったら、今日を思い出して勇気を出そう。さあゲンマンだ」
 私達は小指を組み合わせた。
「ついでに姉さん、さっき言ったあとの半分のお願いって奴、言ってしまえよ」
「ホホホ、言ってもいいわ、驚かないでよ。それはね、たとえばよ、キッチンが私を玩具(おもちゃ)にして平気で捨ててっちまうくらいの図太さを持って頂戴って言おうと思ったの。それくらいにしても君にはちょうどいいくらいだからよ。でも今は違うわ。キッチンは勇気があるわ。私は負けたと思った。だから、このお願いは取り消しよ」
「なあーんだ、取り消しか……まあいいや。僕は勇気が必要になった時、姉さんの眼を思い出すんだ。そして困難に打ち勝った時、姉さんの眼に接吻するんだ。僕は負けない。どんなことがあっても生き抜いてみせる」
 私達はしっかりと手を握り合った。
 青春の日は終わった。今日限り。明日からは成年の世界に入る。
「さあ、青春の挽歌を歌おう、今日限りなんだ!」
 私達の歌声が誰もいない街道を流れてゆく。道には霜が降りてきた。路傍には、真白な野地菊が群がり咲いていた。それは紗を通して見る花のように形も定かには見分けられなかった。
 強い風が吹いてきた。立木の梢を鳴らして冷たい風が吹きまくってきた。寒い北風の季節に入る前ぶれのように、風よ吹け、もっともっと吹き荒べ!
 私達の青春を吹き散らして風よ吹き荒べ。風が強ければ強いほど、私達の前途への希望は、期待は、大きく膨らむのだ。


附記

 それから三日後、結婚式のために式根島へ帰るSを見送って、私は東京湾に行った。木枯らしの吹き荒ぶ日で、私はSと堅い別れの握手をした。
「姉さん、幸福を祈るよ」
「キッチン、約束忘れないわよ」
 遠ざかる菊丸の甲板の上で、Sはハンカチを振っていた。私のハンカチだった。いつまでもいつまでも、私はじっと立ち尽くしていた。不覚にも涙が湧いてきて仕方がなかった。


*    *    *


 石老山の山旅を書いていたら、いつの間にかSとの別離が主題になってしまった。書き始めた以上、私は自分の青春の記録を全部書き残しておく気になった。
「大島とSのこと」
「M子」
 まず、この二つの記録をつづろう。

(「青春挽歌」完)
  

Posted by 松田まゆみ at 13:23Comments(0)青春挽歌

2009年02月07日

 今日も深いコバルトの空である。その空の下に、狐色の草原が広がっている。私はこの高原のこの場所での、春夏秋冬の晴れた空を知っている。しかし、この晩秋の空ほど透徹(とうてつ)した静けさはないだろう。そしてまったく寂しい。冬の青空は地上の雪のせいか、輝かしくむしろ明朗である。春は静かだったが、その浅黄は何やら模糊として楽しく、はた悲しい。
 夏は烈しい光に満ちた碧色である。青空の静けさは、どうやら光線の量によるらしい。そして寂しさは、空気中の水蒸気の量によって左右される。もちろん周囲の風物、人間によるファクターは除いてある。だから静と寂の条件は晩秋において最高になるはずである。これだけの自然的条件から胸に迫る静寂を感じとらねばならぬ人間を、私は哀れに思う。

 小高い丘の高みから、Sが振り返って私を見る。腰から上が、コバルトの背景からくっきりと浮かびあがっている。左肩を上げていくぶん淋しげに微笑む。こんな時のSには病的な影がない。私はゆっくりと近づいて肩を掴み、くるりと反対を向かせる。
 目の前には東俣の沢を隔てて、八島の湿原が広がっている。周囲の蝶々深山(ちょうちょうみやま)、笹峰、鷲ヶ峰の起伏が、優しい曲線を交錯させ、遠くに美ヶ原の台地状の連嶺が島のように浮かんでいる。雲はひとつもない。ここは県営小屋の後ろの丘の上である。東俣の向かいの山腹に五、六人の人がいて、傍らに牛と荷車が置いてあり、人々は草を刈っている。時々大鎌の刃がきらっと光る。
「八島へ行く?」
「うん」
 何の音も聞こえない。芒(すすき)はもうとっくにほほけている。葉の赤く霜枯れたりんどうが紺碧の花をつけている。雪のくる寸前までこの高原に咲いている花といえば、このりんどうと野紺菊くらいのものである。沢渡(さわたり)から、この狐色の草原の中を斜めにひと筋の道が下っていく。Sは私の右に肩を並べる。

 私は以前にY夫人と歩いた奥武蔵の中の丘陵地帯を思い出した。小さな峠と秋草の縫う小路、日暮近い街道。どんな話をしながら歩いたのか今は思い出せない。いろいろな話をしたことは確かだし、私が冗談ばかり言っていたのも記憶している。
 Y夫人と歩いたのはまったく偶然の機会からだった。その昼、私は苅場坂峠から丸山に向かう途中の草原で昼寝をしていた。何やら胸元にカサリと音がして、私は目を覚ました。午後三時の日差しの中に、私はすらりと立っている女の人を見た。私の胸には「たぶんあなたのでしょう」と書かれた美しい走り書きと万年筆が一本載せてあった。
「あら、起こしてしまって悪かったわ」
「いえ、いいんですよ。起こして戴かなかったら、僕は日が暮れるまで寝ていたかもしれない」
 私は午後の傾いた陽を仰いで慌てた。万年筆は私のものではなかった。しかし、夫人が私のと思ったのは無理もない。こんな晩秋、この辺に来るハイカーなどほとんどいないのだから。あれは十一月半ばを過ぎていた。そして私達は一緒に山を下り、もう一ヶ月も前から運転休止となったという吾野街道を、ぶらぶらと話しながら歩いた。黄色い高原がやがて夕焼けに真赤に映え、吾野渓谷沿いのとある旅籠(はたご)に足を止めるまで……。

 今、私はなぜあの時のことを思い出したのだろうか。晩秋と狐色の高原とY夫人。
 その後Y夫人とはもう一度山旅に出た。その時初めて私はY夫人の苦悩を知った。人間は孤独だと言う。大勢の人の中に在るとき、夫人は常に孤独であったらしい。一人で山を歩いている時が最も心安らぐ時だったようだ。
 二度目の山旅に私達は十文字峠を越えて梓山に出たが、秩父の森林から荒涼とした信濃の高原に出た時、夫人はあなたといる時が一番孤独でないと言った。それから川上まで道々、私達は孤独について話した。私は孤独を求めて山に行くのだというようなことを言ったと思う。夫人はそれに対して、孤独であることは苦痛だと言い、また今度のように孤独でないことは恐ろしいとも言った。結局、私は一人でいるのが一番ふさわしいのだと言ったことを覚えている。
 新緑が黄昏の中に沈んでゆき、低い空に一番星が輝きはじめ、私の軽口もさっぱり出なくなった。適当に孤独であるという状態が最良なのだという結論が、若い私には最後まで納得できないまま、翌日の朝まだき、夫人の知己だという家の梨畑で別れの握手を交わした。それ以来、夫人には会っていない。どうしておられるだろうか。そして十文字峠も川上も、再び通っていない。

 Sの手にはいつの間にか二、三本のりんどうが摘まれていた。私達は沢を越え、湿原の左側を行く路に入る。御射山(みさやま)神社を過ぎると、私の大好きな路となる。楢と白樺の疎らな林で、ここばかりは残りの紅葉がちらちらと飛び散っている。二人の落葉を踏む音がする。それだけしか聞こえぬ。落ちきれないでいる柏の赤い葉が低い枝にかじかんでいて、空は底知れぬ青だ。湿原は静まりかえっている。静かだ。静寂が胸を圧迫して息苦しくなる。ふっと大きな息を吐く。

  あなたは何を考えている
  あなたは何をしている
    私は何も考えていない
    何もしてはいない
    冷たい空気を吸って
    晩秋の真っただ中に生きているだけ
  それでいいのですか
  あなたはそれで満足ですか
    私にはよくわからない
    私はただこうしていたいだけだ
    これが私の生の全部であってもかまわない

 Sが私の眼を見て微笑む。私達は白樺の根元に腰を下ろす。湿原の水が午後三時の陽に光っている。大笹峰の向こう側の黄金色に染まった唐松の林が、その細い梢を揃えて末端は青空に溶け込んでいる。

 これが私の生の幸福というものなら、やはり私は幸福が恐ろしい。恐ろしいと思う以上、私はまだ生きていたい。
 足元に末枯れた、やまははこの白い花が咲き残っている。Sはその花を撫でる。感触がこころよいという。細い指の間から白い乾いた花が見え隠れする。斜めの陽が手に光っている。手首のうぶ毛が光る。短い時間がどんどん過ぎてゆく。
 私は大きな淵を意識する。自分の意志がその淵に向かって進んでゆくのを、阻止できないと感じる。意志は悲劇かもしれない、いや喜劇かもしれないと思う。自分は自ら進んで淵に向かってゆく。
 池塘にかすかな漣(さざなみ)が立ち、きらきらと美しく光っている。私はSの手をとって立ち上がる。私達はこの高層湿原にまだ一時間の彷徨(ほうこう)の時間を持っている。私はこれからもいろいろな冗談を言おうと思う。
 遠くで音がする。刈り取った草を山のように車に積んで帰る、草刈りの人達を思い出す。あの車のきしみに違いない。ゆるい高原の曲線上を、その車がゆうゆうと動いてゆく情景がふと目に浮かぶ。そんな画面はいつか映画でも見た。確か白系露人の生活を描いた映画のひと駒だ。
  


Posted by 松田まゆみ at 15:47Comments(0)

2009年02月09日

奥霧ヶ峰から男女倉へ

 ヒュッテネーベルを中心として、ゲレンデにツアーにスキーを楽しみ、また技術を研究しようという仲間達が集まって、ネーベルハイマートシーグルッペという長い名前の、しかしささやかなクラブを発足させたのは、昭和二十年の初雪の訪れた頃のことだった。
 その第一回のスキーツアーをどこにしようと考えたすえ選んだのが、この奥霧ヶ峰蝶々深山(ちょうちょうみやま)から男女倉(おめぐら)への処女滑降だったのだ。
 往昔(おうせき)、いわゆる男女倉越えとは、諏訪から和田峠を越えて小県へ通ずる中仙道の開通だったということで、今でも男女倉越路は和田峠の本道と萩倉で分かれ、東俣の御料林中を八島湿原に上り、そこから白樺と唐松の疎林の中を男女倉へ、細々とした路を通わせている。しかしこの路は、スキーの滑降路としては広大さにも急峻さにも欠け、いささか物足りないように思われたので、前記の蝶々深山の稜線から男女倉に滑り込む豪快な滑走を計画したのだ。
 さて、私達同行の人が温かいネーベルのホールを後にしたのは、二月一日の朝九時半だった。三日前に降った雪は前日の風ですっかり締まっていて、気にしていたラッセルの苦労もなく止塚(とめづか)から沢渡(さわたり)に滑り込み、ヒュッテジャベルに立ち寄ってひと休み。ヒュッテの裏から、いよいよ蝶々深山への幅広い尾根のジグザグ登高となる。
 初夏、高原の星ニッコウキスゲをちりばめ、盛夏、松虫草の藤色のヴェールを被る華麗な色彩のこの尾根も、今は白一色の一メートルあまりの雪の下、シュカブラの小波の上を北風太郎が奇声をあげて駆け回っている。
 アップターンに塗った登高用ワックスが素晴らしく効いて、快適な登り四十分。登りついた蝶々深山の頂稜では、霧氷を装った唐松がわれわれを迎えてくれた。左は風をはらんだ白いスカートの膨らみに似て、八島湿原に下る優美なスロープ、右は楯の半面を見せて、ものすごい雪庇(せっぴ)の張り出した男性的な四十五度の雪壁だ。
 晴れ渡ったコバルトブルーの空の下に展開された、遠近の雪山のパノラマ。蓼科山、八ヶ岳、南アルプス、中央アルプス、北アルプス、美ヶ原、そして浅間山までがゆうゆうと煙草をふかしている。
「しまった、カメラ持ってくるんだった」
「まあモデルになっていろ」
 頂稜を少し西に進んで、大笹峰を分岐する尾根を横目に、次の男女倉沢に落ちる尾根の一角に立って、さて滑降コースの選択だ。打ち見たところ、降り口はいずれも四十度の雪の壁。
「あっちへ回って、あそこを降りようか」
「いや、こっちなら雪庇が切れているぜ」
 ガヤガヤ……。
「エイ面倒だ、ここを降りちゃえ」
 で結局、足下に向かって強引な滑降に一決。見通しは良し、適当な所から斜めに左に切れば、六キロの素晴らしい雪のスロープが男女倉に向かって延びているのだ。
 まずは急斜面突破に体当たり玉砕の猪突猛進型、横転宙返りのパイロット型、斜滑降キックターンの慎重型。しかし、さしもの勇士達も、雪崩の跡に出会った時はさすがの妙技も影をひそめて慎重になった。二十度の緩斜面になってからは、思わずも雪山の歌が口をついて出る長い愉快な滑走が続いた。
 すっかり上機嫌の私達だったが、好事魔多しとやら。男女倉口の貯水池畔で昼食が終わった途端、いささか憂鬱になった。
 それは和田峠まで乗るつもりでいたバスが現在通っていないということを聞いたからだ。
 急に重くなったスキーを肩に、私達は真新しいトラックのタイヤ跡の残るバス道路を、バスの出現に果敢ない期待をかけながら登り始めた。遥かな谷奥に輝いている和田峠の稜線を恨めしそうに眺めては、代わる代わるにぼやく。
 しかし、神様は心がけのよい四人の者達の苦労をそのままに見逃されるはずがなく、やがて繭袋のクッションを敷いたトラックをお遣わされたのだ。
 魂の奥底から喜びと感謝を捧げたのは、近頃とみに肥ってきたという一番まいっていたO君だった。
 瞬く間に着いた和田峠でトラックを降りた私達には、再度樋橋までの十キロの滑降が待っていた。峠の頂から遥か下諏訪の町の彼方に、銀盆のように光る諏訪湖が見える。あの岸辺に私達の家があるのだ。否、その前に「ウーイッ」、祝杯のビールの泡につながっている。
 十キロの滑降は、ご想像におまかせしよう。
  


Posted by 松田まゆみ at 10:25Comments(0)奥霧ヶ峰から男女倉へ

2009年02月10日

ヒュッテ霧ヶ峰

 ヒュッテの前でスキーを脱いで、そのあたり一面に干してある洗濯物を見まわす。風になびいて気持ちいい。この調子では客はいないらしい。一枚だけ飛ばされて水溜りに落ちていた白い布片を拾い上げた。
 ホールの長テーブルの上には二十三枚の布団が載せてあり、娘さんが二人、それを繕っている。片隅にヒュッテのおばさんの顔も浮いている。
「おばさん、オムツが落ちてたよ」
 さっきの布片を差し出す。
「失礼ね、オムツじゃないわ」と、一応柳眉をさかだてる。
「一人で?」
「一人さ、今頃来る奴は」
「そうね、Mさんくらいね。ところでサービス悪いわよ。布団繕ってしまうまで、その辺にいてね」
「たいしたご挨拶だ」
 僕は靴のまま上り込み、椅子に腰かけてストーブの柵にドカンと両足を置く。靴底の雪がじわじわ溶ける。娘達がくすくす笑っている。スキーの季節の忙しい時だけ手伝いにきている農家の娘さんだろう。戸外は明るい銀一色、家の中が薄暗く見えるのも無理もない。
「何かない? 喉が渇いちゃった」
「ないわよ、後でお茶いれてあげるわ。水でも飲んで一時(いっとき)間に合わせときなさいよ」
「なるほど、サービス悪いな。三ちゃんは下?」
「下界よ」
 娘達は目を見合わせ、笑い出しそうな表情をする。
 このヒュッテ霧ヶ峰が三ちゃんこと有賀三吉氏の経営になる以前、失火で焼けてしまったやはり同名のヒュッテ霧ヶ峰は、長尾氏によって経営されていた。その頃、誰かの文章で私はこのヒュッテの三月に憧れを持ったものだったが、何の因縁か、諏訪に住むようになって三月はおろか、一年中いつでも来られる身分になってしまって、われながら驚いている。
「今日はいったい何しに来たの?」と三ちゃんの奥様が言う。
「もちろんスキーさ」
「へえ、独り者はのんきね。下はもう春でしょ」
「独り者じゃないよ。僕はこれでも二人の子供のお父様ですよ」
「嘘ばっかり……。だけど近頃の人ってわからないからねえ、皆独りみたいな顔してるもの。でもMさんは独りでしょう、わかるわよ」
「あれ、なめてるな、ほんとうだったらどうする?」
「宿料とらないわ」
「何しろありがないな、只より安いものはないってね。で、どこのお部屋にお入りになったらいいの?」
「どこでも勝手に入りなさいよ、だけど火が入ってないわよ」
「ウワー、金払うから火を入れてよ」
「だから布団繕うまで待ちなさいよ」
 娘はとうとう声をたてて笑い出す。
「はいはい。飴でもしゃぶって待ってます」
 火でも起こすつもりか、娘達は顔を見合わせて仕事の手を止める。
「いいのよ、もう少しでしょ、こんな風来坊そこであたらせとけば……」
 奥方はガンとして許さない。
「いいんですよ、僕は飴しゃぶっているから……。その代わりクヤシイから、もりもり燃やしてやる」
 僕は太い白樺をストーブの中に放り込む。
「平気よ、煙突詰まっているから燻(いぶ)るだけだわ」
「そんなら三人とも尻尾を出させてやる。奥さんの尻尾が一番大きいな、きっと」
「そんなゴタ言う暇があったら、何か手伝いなさいよ」
 娘の一人は台所へ駆け込んで大声で笑い出す。
 窓の外は一枚のハンカチーフである。森はインクのしみだろうか。つららから水の滴る音がする。あれは春の音だ。
  
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Posted by 松田まゆみ at 15:55Comments(0)ヒュッテ霧ヶ峰

2009年02月11日

殿城山(1)

 その山の名前を聞いたら「とのき山」と教えてくれたのは、確かコロボックルヒュッテの手塚さんだった。たぶん殿城山と書くのだろう。
 車山から蝶々深山(ちょうちょうみやま)に続くおおらかな尾根から、小さな痩せ尾根を分けて、その先にぽつんと立つその山は、北、東、南の三方に急峻な草付を持ち、ベーゴマを伏せたように突っ立っている。

 夏のある日、私はいつものように頂に寝ころんでいた。
 真青な空にひと握りの雲が浮かんでいる。遥か山彦谷の底から、チェンソーの物憂げな音が絶え間なく聞こえてくる。微風が鼻をかすめる。風はサリチル酸メチルの香をかすかに含んでいた。どこか近くに「いぶきじゃこう草」の花が咲いているのだろう。それとも、お隣の車山から池の平へ下る尾根から運ばれてくる香だろうか。あの尾根の砂礫地にはこの花が多い。いつか、シベリアの平原を走る列車は、その時期にはいぶきじゃこう草の匂いに満たされるということを聞いた。匂いがなければ知らずに踏みつけて通り過ぎてしまうくらい、小さな花なのだ。
 この笹の茂る小さな頂は、訪れる人のないままにいつもぽつんと孤独だ。私が諏訪に住んで十三年の間、幾回ここを訪れただろう。十回は越えているような気がする。そのほとんどが一人で来ている。二人で来たのは二回だけあった。ここは尾根から離れて突き出した岬のような小さな山の頂なのだ。だから、さっきたどってきた痩せ尾根を除いて、三方はさわやかな風に満ちた空間なのだ。こうして寝ころんでいる私に、笹の葉末を残して見えるものは、その空間に浮かぶ蝶々深山と青坊主のような蓼科山の頭と、空気の海に傾(かし)がって沈没しそうなカシガリ山だけである。

 私が初めてこの頂上を踏んだのはいつ頃だったろう。ある初夏、車山の乗越(のっこし)から池の平への尾根を下る私の目を奪ったのは、左手の谷を隔ててその急峻な山肌をニッコウキスゲで真黄色に染めたこの山であった。あの頂上に行ってみよう! 蝶々深山からの尾根を拾えば、藪をこいでもたかがしれていると思った。その山頂とのつき合いはその一ヶ月後から始まった。以来私は勝手ながらこの山を自分の山と決めた。否、私の安息の場所に決めたのである。
 車山から蝶々深山に続くおおらかな草の尾根の、防火線が左に屈曲するあたり、右側の岳樺の林の近くにこの山への入口があった。この辺から右に派生する尾根はこれひとつしかないのでわかりやすいが、入口には踏み跡らしいものもない。藤色の松虫草をかき分けて小尾根沿いに下っていくと、踏み跡らしきものが現われて痩せた尾根となり、下りきった所から登るともう頂上である。狭い頂上の笹に交じって咲いていたやなぎらんの濃いピンクが印象的だった。

 その秋も末、十一月の初めの祭日、私は萩倉から落葉の散り敷く東俣御料林の中を登っていった。私が十一月のその日を選んでその道を登るのは理由があった。その道が七島八島の湿原の落ち水を集めて流れ出すあたり、ちょうど登っていく道から狐色の湿原が見えてくるあたりに、十一月の花といわれる「まゆみ」が咲くからである。桃の花を遠くから見るように、青空に薄紅を浮かせて美しい。実際には花ではなく実なのであるが……。
 この頃の霧ヶ峰は滅多に人と会うこともない静けさの中に置かれている。この流れの岸にあるまゆみは特に美しい。それは葉が早く落ちて実だけになるせいらしい。この先の山の神の祠の傍らにあるまゆみは大木ではあるが、実が色づいてもいつまでも葉が落ちずに茂っているので、近づいてよくよく見ないと実がわからないから、桃の花が咲いたようには見えないのである。
 私は切り倒された樅の木からクリスマスツリー用にひと枝を頂戴して、これを肩にかついだ。私は山の神から冷たい風の渡る山稜を、まっすぐ蝶々深山の尾根に向かって登った。ふと「殿城山」に寄る気になったからである。この時以来、クリスマスツリーと殿城山行きは恒例となってしまった。山頂に樅の枝を放り出して寝ころぶと、柄にもなく「ああ、今年も無事終わるな」という感慨が胸にしみた。
 子供達はそのささやかな樅の枝に飾りをつけ、赤や青の豆電球をつけた。一月過ぎ、樅の葉が枯れて落ちるまで、それは部屋の中に置かれていた。その娘の名は「まゆみ」という。
  


Posted by 松田まゆみ at 13:52Comments(0)殿城山

2009年02月15日

殿城山(2)

 ある年の八月も終わりの頃であった。山小屋での夕食の後、「殿城山」に行ってみようという気になった。小屋の横で私は同宿の一女性から花の名前を聞かれた。二、三の花の名前を教え二言三言交わすうち、「散歩にでもいらっしゃるの」と聞かれた。「ええ、月が明るいでしょう。月に濡れた松虫草の原は奇麗ですよ」と言うと、「ご一緒してもいいかしら」と言う。もちろん二つ返事でOKしたが、後で聞いてみたら、彼女にとって私は未知の男ではなかったらしい。小屋の常連で、スキーでも一、二回一緒になり、夜の団欒でも話をしたことがあると言って笑われた。人の顔を覚えないことにおいて人後に落ちない私であるが、「よほど私は目立たない存在なのね」と軽く皮肉られる始末だった。
 殿城山の頂に着いた頃、西空はすでに残光も残さない夜空だったが、その代わりに月が昇って歩くのに何の不自由も感じなかった。それは海に突き出た岬だった。八子ヶ峰、蓼科山、八ヶ岳は遠近の島で、池の平の灯は漁火だった。かすかに山浦にも遠い漁火が明滅していた。山裾は暗闇の中に消え、海溝を思わせた。
「海みたい、素敵だわ。来てよかった」
 私達は月光に濡れた高原を帰途に着いた。月の光は大きな松虫草の花弁を濡らして、あたり一面濡れこぼれた感じだった。濡れこぼれるとの表現は大げさできざっぽいという人があったら、一度こんな情景の中に置かれてみるといいと思った。
 私には以前にもこれと同じような経験がある。六時頃八島を出て、月に濡れた高原を池のくるみに向かった。その時も松虫草の花盛りだった。同行の女性の腕に抱えられた松虫草の花束に、濡れこぼれる月光の美しさに、息が詰まりそうだったことを覚えている。

 先ほどまで蓼科山の頭が見えていたと思ったのに、もう消えて真白な霧に閉じ込められてしまった。「先生は大丈夫かな」とふと思った。昨夜霧ヶ峰ヒュッテで同宿し、霧があるからというので車山の肩までご一緒した大学の先生のことである。先生の名刺を戴いたが、お名前は失念した。肩から道を外さないように、道を外したら防火線通りに下ったほうがいいでしょうとお話しておいたが……。
 霧ヶ峰は家畜の冬の飼料の草刈場になるため、草を刈った跡は虎刈りになり、その縞が霧の時には道と区別できにくくなってしまう。
 私も強清水(こわしみず)から沢渡(さわたり)に行こうとして、池のくるみに行ってしまったことがある。その時もミルクのような霧に包まれた秋の日であった。厚い霧の中を歩いていると、登っているのか降っているのかわからないことがある。霧の晴れ間に、目の下に広がった池のくるみの湿原に唖然としたものだった。
 殿城山の頂に腰を下ろして私は考えこんだ。「私自身無事帰れるかな?」自信と過去の失敗の経験とがないまぜになって、自分の庭だと思っているこの霧ヶ峰で、まさかとは思うが霧の中ではどこへ降ってしまうかわからないということも、私はよく知っていた。自分を中心に一メートルの半径の外は、白くぼやけて何も見えない厚い無抵抗の壁だった。霧には音があるようだ。何やらぶつぶつつぶやいているらしい。
「もう少し状況のよくなるまで待つか」
 リュックを枕にひっくり返った。
 昨日はヒュッテの窓辺から、足早に高原を駆け去る霧を見ながら、手回しの蓄音機で主の三ちゃん秘蔵のベートーベンの「英雄」を聴いていた。フルトベングラー指揮の名演奏のせいだったかもしれないが、私は初めて「英雄」というのはいいなあと思った。その後電蓄でダイナミックな「英雄」を聴くことがあっても、あの時ほどの感興(かんきょう)は湧いてこない。濃くなったり薄くなったり、絶え間なく湧き上がり去来する夢幻的な霧がそうさせたのかもしれない。

 雪の消えたばかりの雪代沢の源頭湿原は、ぽっかりと大きな池となる。蝶々深山から派生する太い草尾根に挟まれたカール状の某所は、殿城山を知る前は私にとってひそかな安息所だった。そこは樹叢(じゅそう)もなく、日差しをいっぱいに浴びる明るい草原の盆地で、チロルにでもいるようなそんな場所だった。
 私は水のある時を選んで、熊坂長範の物見岩を越えて、わらびを採りながら某所へ降りた。そこのわらびは太くて長く、とても質の良いものだった。殿城山を知ってからの私は、春のコースとしてここから行きか帰りに寄り道をして、殿城山へ顔を出した。雪代沢の池も、殿城山周回コースとなったのである。
 車山から池の平へ降りる、いわゆる車越えのスキーツアーコースから左手に見える雪をつけた殿城山は、その急峻さと南面に露出した岩肌ゆえに、小形ながらもカッコイイ山である。私はいつかその東北の急斜面をスキーで降りてやろうと狙っていた。しかし今冬こそはと思った年の夏、急に故郷の東京へ帰ることになってしまった。そしていまだに実行していない。
 上部急斜面だけでなく後半の斜面も水楢の林や草原を連ね、結構楽しめそうで、池の平へ降りるバリエーションルートとして今でも滑ってみたいと思っている。
 東京行きが迫ったある日、私は沢渡周辺の山小屋への挨拶まわりもあって、霧ヶ峰へ登った。ヒュッテクヌルプでちょうど同じ会社に勤める女性に遭い、殿城山へ登って帰ることに相談が一決した。実は冬のスキールート下検分の野心もあって、殿城山から道のない東北斜面を降りるつもりだったので、女性には藪こぎはどうかなと考えてはみたが、信州の山育ち、黙って降ろしてしまえば何とかなるだろうと失礼ながら考えた。
 車山はハイカーで賑やかだったが、さすが殿城山頂はいつもと変わらない静けさだった。もう気軽には踏めなくなる山頂だと思うと、なつかしさが込み上げた。カシガリ山、八子ヶ峰、蓼科山、八ヶ岳、大河原峠、南平、樽ヶ沢、追分、赤沼、大門峠等々、皆旧知の間柄である。
 今降りようとする前面に蟠(わだかま)る山は男女倉(おめぐら)山である。あのたわみは星糞峠、その裾に星塚という地名があった。星糞とはこの地方の言い習わしで黒曜石のことである。往昔(おうせき)この黒曜石を加工して矢尻等を作った加工場が、和田峠を中心として存在していたという。星塚は加工屑を集めて捨てた所だったのかもしれない。
 ある年私は黒曜石を求めて星糞峠に登り、そこから尾根通しの藪を分けて虫倉山に登った。そこには和田峠付近のように真黒い黒曜石がごろごろしてはいなかったが、星糞峠では草を起こして棒切れで掘ると、珍しい無色透明の黒曜石が採れたことを覚えている。それを持ち帰って、ためしに酸水素焔で熱灼してみたら、ぶくぶくと泡だって熔融し、ついには美しい無色透明のガラス状の石となった。黒曜石は固溶体なので結晶水はないにしても、オパールのように含水しているか、加熱によってガス体を発生したか、いずれかだったのだろう。星塚という地名を残している付近でそれらしいものを探し回ったが、荒れ果ててしまって雑木や草に埋もれたか、とうとう見つからなかった。
 私達は歩きよさそうな所を選んで、急斜面を谷底に向かって降った。幸い大した藪こぎもなく、山裾の水楢の疎林の中に降りることができた。そこから池の平まで冬の快適なスキー滑降を予想させる緩斜面が、唐松と草原を点綴(てんてい)して続いていた。

 お知り合いになった山小屋の方たちも多い。ジャベルの高橋ご夫妻、クヌルプの松浦ご夫妻、コロボックルの手塚ご夫妻、今は亡き雷小屋の主、雷親父ご夫妻。奥さんは新橋で髪結いをしていたとは思えない地味な方で、秋には山梨採りや茸狩りによく連れていってくれたものだった。それから農林省のお役人だったという樽ヶ沢温泉のご主人、波岡氏。皆、今はもうなつかしい方々になろうとしている。
  

Posted by 松田まゆみ at 11:05Comments(0)殿城山

2009年02月16日

秋の音(1)

 ここに来て、妙に思い出したのは、蓼科温泉の白や青ペンキで塗られた簡易食堂やベンチや土産物屋の立て看板である。そしてそのあたりを落葉を舞い上げて吹き抜けている風であった。すっかり黄葉した白樺やその幹の白さに比べて、ところどころ剥げたペンキ塗りのそれらがばかに生々しく感じられたためかもしれない。人影のないベンチや立て看板が、アロハが色めきマンボが流れる夏の蓼科の殷賑(いんしん)から取り残されて、たとえば残菜のわびしさに似て、何やら一層やりきれない季節を感じさせるのは事実である。
 蓼科はともかくも秋が深かった。そしてようやく私はその秋色が、この二子池に来て蓼科を思い出す原因になったことに気がついた。
 それは、この池の南岸の斜面に散り残る唐松林の狐色である。病みついた猫の毛のように、それは櫛でひと掻きしたらいっぺんに落ちてしまいそうに見えたのだ。大河原から亀甲池を通ってここに来る間、目に映るものは皆もう冬の色だったので、その暖かそうな秋の色がひときわなつかしく目に映ったからなのだろう。
 今朝は思いのほか霧が深かった。ことに親湯奥の水楢の疎林を歩いている頃は、何か映画の中を歩いているような気持ちだった。大河原へ登る暗い苔の匂いのする道では、栂(つが)や唐檜(とうひ)の大樹の中に立ち込める霧がわずかに濃淡を保って移動し、私の好きな北八ッらしいフィロソフィックな雰囲気を醸し出していたが、今この池畔には頭上にぽっかり青空が顔を出し、まぶしい陽光が凍えた枯草を静かに暖めていた。
 もともと晴天を期待した山旅ではなかった。近ごろようやく子供から手の離せるようになった妻の英子にせがまれて急に出かけてきたのだが、去る六月中旬、一人ぶらりと訪れたここが忘れ難かったせいもある。その英子は同行のK子とさっきから湿った枯れ枝に火をつけるのにやっきになっている。湿原で足を濡らした彼女には、寒さがよほどこたえたのだろう。
 十一月ももう数日に迫っている今日、まだ初雪がないというのは不思議なほどだった。池面は碧く静もりかえり、ときたま吹き渡る風に幾千幾万ともしれぬ小波が、背びれを返す小魚のようにぴらぴらと白光を躍らせている。春来た時もそうだったが、今日も人っこ一人見当たらない。小屋も戸閉めになっている。対岸の横岳に続く原生林で、突然ポキリと朽木の折れる音だろう、驚くほど大きく響く。それを合図のように私の足元からパチパチと音をたててオレンジ色の炎が立ち上がった。
「モノトーン……か!」
 ふと私は抑揚のない連続的なある音を思い出していた。私のこのつぶやきを英子は勘違いしたらしい。火の燃えついた嬉しさで、自然と気持ちもはしゃいでいたのだ。
「モノトーン? ……あ、あれか。秋たけてヴィオロンの嘆息の……。上田敏訳」
「馬鹿、ヴェルレーヌじゃないよ……例の淋しい音のことさ」
「なあんだ、あれか……」
「あれさ。あの音K子さんはどう思った?」
「そうね、少し気味悪かったわ。何だか引き込まれそうで。でも印象的だったわ、アトラスのうめきみたい」
 それは大河原へ登る途中、地の中から聞こえてきた音だった。はじめ水を飲むといって沢に降りていった英子がそれを聞いた。沢はあいにく涸沢で水は飲めなかったが、英子の声で私達もそこへ降りていってみた。
 音は沢底の堆石の下から聞こえてくるようだった。遠くで森のさわぐような、沢山の飢えた動物の哀しい咆哮を聞くようなその音を、私達は岩に耳を押しつけて聞いた。
「この音だわ、きっと」と、やがて英子が言い出した。
「たしか芥川龍之介の文だったわ。女学校の教科書で、もうほとんど忘れちゃったけど、アルプスの這松の下で何やら音がしていた、とても淋しい音だったっていうの……」
 それはたぶん伏流の音だ、と私は思った。
 私は積み重なったモレインの底の岩床を想像した。そこには地上にあると同じような流れがあるに違いない。小さな滝や滑(なめ)や釜もあるだろう。ほとんど光の届かない暗闇の流れで、その音が岩石の隙間を通り抜ける時反射し、干渉し、あるいは合成し、消去されてこの複雑で単調な音をつくるのだ。いわば堆石は長大なる音響箱だと思った。
 私は伏流の音だということをわざと説明しなかった。しかし私がそれを伏流の音だと断定するには理由があった。渋温泉から高見石へ登るガレ沢で、何回も伏流の音を聞いたのである。ただしあそこの音はもっと大きく、ある所では飛行機の大編隊の音を聞くようだし、ある部分では急流の瀬音のようにきらびやかだった。「だけど僕は少年時代、これと同じような音を聞いたことがある」と、私は不確かな記憶の中にその思い出をまさぐった。
 あれは上野不忍池の弁天様の裏手だった。現在はその当時の面影もないだろうが、その頃あのあたりは草ぼうぼうの池畔で、滅多に人が行かない所だった。そこに石で刻んだ小さな祠のようなものがあって、その石に耳をつけるとウワーンという高低のない連続音が聞こえた。友達とトンボ釣りに行くと、気味悪がりながらも必ずその音を聞いて帰ったものだった。それは都会のざわめきをずっと遠くで聞いているように思われた。

「どうしてそんな音がするのかしらね」とK子。
「わからない。何の音か人に聞いてみようともしなかったから……」
 英子はしかし違うことを考えていた。
「私は霧の音の方が淋しいな……何かぶつぶつつぶやきながら森の中を歩き回ったり、風に追われて悲鳴をあげながら枯草の上を飛んでったり……霧にはそれが自分の音なんだか風の音なんだかわからないでしょう。だから淋しいのよ」
「霧に音なんてあるのかな?」
「あるわよ。もっともあんたのような馬並みの神経じゃ聞こえないかもしれないけどね」
「何言ってやがる。おまえなんか雲散霧消しちまえよ、K子さんと二人になれる」
「ほほほ、お邪魔で悪かったわね」
 足元でオレンジ色の炎がパチパチとかすかな音を伴って燃え、たった一本見つけた、おそらく今年最後のものだろう唐松茸がよい匂いをたてて焼けていた。
  

Posted by 松田まゆみ at 09:53Comments(0)秋の音

2009年02月17日

秋の音(2)

 私達が大河原峠へ向かって背後の斜面を登る頃、再び濃い霧が樹間を漂い出し、ときたま雲間に濡れる陽光がその霧の中に薄いヴェールを投げかけた。
「まあ奇麗、あれごらんなさいよ」
 K子の突然の叫び声に私達が振り返ると、目の下の岳樺の根元に珍しい円形の虹が現出していた。立ち止まってじっと見ていると、虹は呼吸している生物のように明るく輝いたり急に消えそうになったりした。
 熟れきって霜枯れた葉の下に真紅の実をつけたコケモモの群落の道を急ぐと、目指す大河原峠である。コケモモを食べ食べ着いた大河原峠は、ぽつんと真新しい丸太組みの小屋があるだけの小広い草原で、枯れた岳芝が強くなった風に銀灰色の穂をなびかせていた。佐久は一面の霧に埋まり、ひと筋の道がちらり山人の人情を覗かせてその霧の中に消えている。
 ここから秀麗な蓼科山と武骨な横岳の間に挟まれた、ゆるやかな高層湿原と森の斜面がはじまる。春には人知れずハクサンチドリが咲く草原だが、今は雪を待つばかりの枯野の上を霧がそろそろ這い昇っていた。
 ここには春夏秋冬を通じ、スカンジナビアの森と野とグリークの曲があると思うのだが、それは私の感覚であるらしい。K子はショパンの葬送だと言い、英子はモーツァルトのト短調のシンフォニーだと言う。彼女らは緑したたるここの春を知らないからなのだろうと、私は勝手に考える。
 もう帰途という気安さから、私達の間にはいろいろな話題が湧く。しかしそれは皆、秋から冬の色を帯びている。環境に支配される人間の悲哀なのだろう。
 ふと立ち止まって英子が耳を傾ける。
「聞こえるわ、ほら聞こえるでしょ。霧のお喋りよ。何かぶつくさ言っているわ」
 急に風の止んだ真空状態の中で、それははっきりと聞こえるのだという。
「また寂しい音か。僕も聞こえるかな?」
 私もK子も立ち止まって耳を澄ます。
 私はその時、春の女神が長い絹のスカートを引きずってそろりそろりと川を渡ってやってくると、霧の足音を形容した。ソヴィエトの小説の一節を不確かな記憶の中に思い出していた。
 蓼科が近づくにつれ霧は次第に晴れ、遠い山脈(やまなみ)の上に黄ばんだ夕空が現われはじめる。急に濶葉樹の多くなった道は、四、五寸も落葉に埋もれている。茶色い水楢の落葉の中にときたま白樺の黄、楓の真紅が金平糖をばらまいたように散らばっている。三人ともわざと落葉をかき分けてガサゴソ音をたててはその感触を楽しんだ。白樺林の紅葉は、今が真盛りだった。めっきり長波長の多くなった光線の中でその白い肌はピンクに映え、黄金の葉末は藍色の空に薄く朱をにじませていた。
「私の胸は蜃気楼みたい!」と、大きく呼気を吸ってK子が言う。
 終バスにはまだ時間があった。私達はちょうど開いていたフルーツパーラー風の家で休んだ。
 堅い木の椅子にどかりと腰を下ろすと、快い疲れがジーンと全身にしみ渡った。黄昏の漂いの中に、白々と立った門口の白樺の根元で、背中に黄色い落葉をくっつけた真黒な二匹の子犬がたわむれている。休む間もなくスケッチブックを持って飛び出していくK子を見送って、やっぱり彼女は若いなと思う。
 ほろ苦いコーヒーを噛みしめながら、私は今日の一日を回顧する。
 今日はどうやら風景より音の方が印象が深かった。地中の音、霧の音、焚火の音、落葉の音……。そして北八ッの初冬という環境が、それらの音に共通したある響きを与えていたらしい。それはたぶん冬という苛烈な現実に向かって歩いていくものの足音なのだろう。その足音はあらゆる事物が持ち、地上の誰もが聞くはずのものだった。
 外には冷たい風が吹きまくっているのだろう。日除けのキャンバスがハタハタと鳴っていた。ひどく感傷的で怠惰な一日が、今暮れようとする。現実逃避という言葉とともに。私達山を愛する者が、いつも指摘されそうで怯える言葉……。しかし、はたしてそれほどは卑下し、低級視されるべき言葉なのだろうか。私にはわからない。私にわかるのは、もし自分からロマンを取り去ってしまったら何が残るだろう、科学だけしか、意志も情熱もないサイエンスだけしか残らないということだった。
 少し離れたラジオの傍らで英子とこの家の女主人の話し声がしている。
「今ごろ店を開けていても、お客があるんですか?」
「いいえ、いつもは閉めているのですが、今日はさっきまで映画の小津先生がコーヒーを飲みにきていらしたので開けていたのです……あの、あなたの座っていらっしゃる椅子なんですよ。ほほほ……」
「あらそう、何か撮影?」
「いいえ、シナリオの仕上げなんですって……東京暮色っていう映画の」
「ああ、あれ……。それにしてももうすぐ冬ね。冬越しなさるの? ここで」
 雪の降り積んだ朝など、気が狂いそうに静かで、この家の裏口にはリスが遊びにくるという。そんな蓼科の冬を、私は微笑ましく想像できた。
「そうだ、帰りのバスの中で、あの地下の音が伏流の音だということを説明しなくては……」
 すでに暮れきった道を扉口に近づいてきたK子の姿が見えた。
  

Posted by 松田まゆみ at 14:32Comments(0)秋の音

2009年02月18日

五、六のコル

 初めての涸沢(からさわ)生活の最初に登ったのが、北尾根第五峰、第六峰間のコルだった。穂高にはどこにでも転がっている小さな鞍部にすぎないのだが、この前穂北尾根の一隅をめぐる回想はなつかしい。

 まっさきに思い出すのは、マンメリーの言葉である。「真の岳人は一個のワンダラーである」と言った。彼のいわゆる岳人は、未知の岩を攀じ、未踏の氷壁に挑む登山者を指している。山への若い情熱を燃え立たせているその頃の私は、この岳人とワンダラーの解釈について友人と言い争った。第四峰からの帰途、このコルでである。残照の涸沢圏谷(カール)を囲む穂高の岩壁が赤々と燃え、やがて藍色に沈潜し、黄昏の中に黒々と晦冥(かいめい)しようとするまで、私達は激論を戦わせた。その友は今はない。

 ある夏、五峰を降る私は、きれぎれの笛の音を耳にした。五、六のコルだった。すでに鬢髪(びんぱつ)に霜を交えたその人は、奥穂に傾いた金色の陽の中に、一心に横笛を吹いていた。私はだまって後ろを通り、その哀調を背に雪渓を降りた。
 その翌日、涸沢から又白池のキャンプに連絡のためこの鞍部を越えた私は、帰途、濃霧にまかれ、とある岩棚(テラス)の上に一時間以上も立ち往生を余儀なくされた。いくぶんの不安と焦燥のなかに、私は再びあの笛の音を聴いた。それは風に追われてコルを越す霧の音だったかもしれない。ようやくコルに着いた時、私の見たものは心配して迎えにきた二人の仲間だけだった。

 また、そこは涸沢生活の炊事当番のうっぷんを晴らす安息所でもあった。雪渓を隔てた正面、ザイテングラートに「ヤッホー」の呼び声が聞かれ、時には又白側でピトンを打つ響きのよい音も聞かれた。岩雪崩の音に、友の上にふと胸を曇らす時も多かった。

 山に登るという行為の純粋性に比して、思考のなんとトラジックなことか……。山そのものへの行為から、私をして山をある目的のための場と考えざるを得なくした過程を省みる時、五、六のコルはほのぼのと私の胸に温かい。
 ある秋、タヌキ(第六峰)の頂上からこのコルに、一人の女性らしい人影を見つけた。その人は奥又白側に降りていったが、しばらくして引き返し、いつの間にか私のいるところへ登ってきた。ぱったり合った視線に、私は狸寝入りを決め込む隙を失した。翌日、私は奥又白の岩登りの負傷がもとで恋人を失ったというその女性と、紅く色づいたななかまどの道を横尾へ降った。そして、俺の山ももうおしまいだと思った。

 ある秋、写真を写すため、岩に挟んだまま愛用の帽子を忘れて降りてしまって以来、私はいまだにそのコルを踏まない。コルをつい横目で見ながら、通り過ぎる山行の多くなった今日、なお私の穂高への郷愁は、いつもそこから広がるのである。
  
タグ :穂高


Posted by 松田まゆみ at 13:51Comments(0)五、六のコル

2009年02月19日

山旗雲

 悪魔の黒い爪が槍沢のモレインに伸びる。すでに眼下の谷は黒い影に覆いつくされ、その中に岳樺の梢がささら箒(ほうき)のように浮いていた。
 だが、東鎌はあかあかと輝いている。圏谷(カール)の奥の槍が純白のガウンを右肩に、ペルセウスのように突っ立っていた。
 天狗の池の高みで、英子は彼に見とれている。西岳の上のコバルトブルーに、何気なく浮かんだレンズ雲。……オヤッ、伯爵夫人のお出ましだ……。一瞬いやな予感が走る。しかし私はすぐそれを打ち消した。昨日の上高地は雨だった。たぶん、風に乗り損なった彼女がうろうろしているのに違いない。私が山友Oを思い出したのは、その時だった。
「伯爵夫人といえば、ヤングミセスだとばかり思ってやがる。歯の浮くようなことを言うなっ。あいつはスケスケの白いドレスを着てるが、白髪の婆さんで、おまけに縮れ毛だ」
 彼は私の夢をこっぴどく打ち壊したのだった。あれからもう三十五、六年になる。
 ツバメ岩の根元に回り込む斑な新雪を踏みながら、私は明日の予定をはっきりと決めていた。上高地からの自動車道の混雑にうんざりして、どこか静かな帰り途を、と密かに考えていた矢先である。かつて彼と歩いた一ノ俣谷-常念岳-一の沢のコースならば、英子にとって初めての山だけに賛成してくれるはずだ、と思ったのである。
 翌日、朝寝坊のすえ遡った一ノ俣谷は、どうしてなのだろう?と首をかしげるほど昔のままの静けさだった。七段の滝の岩壁の、ナナカマドの赤が目に沁みた。二組の降りのパーティーに会っただけで登り着いた乗越(のっこし)には、秋の日差しが溢れていた。しかし昼食を済ませて登り始めた常念坊は、西の強風に追いたてられて駆け走る霧の中、ご自慢の岩の衣も見え隠れのご機嫌の悪さだ。山頂の苛立ちの中、凍える指で巻き上げたカメラのレバーがいやに軽い。何回シャッターを切ってもフィルムの表示は三十六枚で止まったきり、明らかにフィルムは空回りしていたのである。
 英子は怒っていた。無理もない。これで一ノ俣の紅葉に映える渓流も、山頂の記念撮影も、今日の写真はすべてパーである。先に立って降路をとばす彼女の肩に、B型血液が躍動している。言い訳でもしようものなら、彼女の全身は増殖炉と化すだろう。冷めるのを待つに如(し)かず、と私はゆっくりと後を追う。思えば、かつてこの山稜でOを怒らせた私である。今もまた、英子を怒らせてしまった因縁に、私は思わず苦笑した。

 あれは七月の半ばのことだった。一歩一歩、松高ルンゼを登っていた彼が、だしぬけに言った。
「セボネがな……」
「セボネ?」
「青学の背骨だよ。彼、元気か?」
「なんだ、あの人か……元気だよ」
「そうか、彼とはここで知り合った」
 セボネとは登攀(とうはん)者S氏のことである。
「あの人はいいな、兵役免除だろう」
「まあな……」
 言葉を切って私は続けた。
「おまえ、まさか、岩をやるんじゃねえんだろうな」
「ねえよ。こいつとアイゼンがあればいいって言ったろ」と言って、彼はピッケルを頭上に振り上げた。
 変な山旅だった。それまで山行の計画は私に任せっぱなしの男が、今回に限って、黙って俺についてきてくれ、と言うのである。私達は奥又白の池から四峰のフェイスの下、奥又白谷をトラバースして、その年の豊富な残雪を踏んで、五、六のコルを涸沢(からさわ)に降った。
 翌日、穂高を尻目に涸沢を駆け降った彼は、横尾の出合から本谷に入った。雪崩の爪跡を残す横尾本谷を遡行(そこう)した私達は、結局、右俣を詰めて天狗原に出たのである。天狗の池の畔でラジュースを吹かせながら、彼は言った。
「明日は常念に行こう。俺はそれから島々に寄って帰る。おまえ、どうする? あまり休みがとれないんだろう」
 その頃、私達は戦時下の世間体を気にして、山靴やアイゼン等を島々の知人宅に預かってもらっていた。だから、山へ行く時はよれよれのニッカーに地下足袋、ピッケルを放り込んだザックを背負った道路工事の現場監督さながらの格好で東京を発ったものである。
 彼のプランどおり、ただし私にとっては旅の終わりの常念乗越で、這松の中に寝ころぶと、少々気抜けして私は言った。
「変な奴だぜ。山のヘソばかり擽(くすぐ)らせやがって、挙句の果てにおまえは島々か」
「悪かったかな」
「いいや、こんなのも偶(たま)にはいいさ」
 どうやら、太平洋に腰を据えたらしい高気圧が東の空を透明な青に染めあげていた。しかし、梓川の谷はガスに埋まり、穂高は島のようだった。
「穂高が見えねえ」とボヤく彼の声も虚ろに、私は幾許かの時間をまどろんでしまったらしい。
 ふと目覚めた私の眼に映ったのは、何だか白い膜だった。ひどく風の音がしていたようだ。
 眼前にヌックと立った常念坊が雄大な雲の旗をたなびかせていた。梓の谷から湧き上がるすべての雲が、この山稜から一転して穂高に向かって吹っ飛んでいた。私は寝呆け眼をこすって言った。
「見ろよ、旗雲だ」
 彼は眠ってはいなかったらしい。「ウン」と感激のない声だ。
「見てるのか、すげえな」
 私はなおも叫んだ。
 どうしてそうなったのか、覚えがない。いつか私達は言い争っていた。彼は「山はた雲」の起こりは山端雲からきたのだと言い、私は巨大な軍勢が旗指物や吹流しを押し立てて進む墨絵への幻想を捨てきれない。「はた雲」はやはり旗からきたのだ、としつこく反発する私に、彼は本気で怒ったようだった。
「俺は旗が嫌いなんだ。軍勢も、軍旗も、日の丸だって、皆嫌いだ……。もうやめろっ」と彼は怒鳴った。
 いつにない彼の剣幕に驚いて、私は沈黙した。
 もう歩く気もなくなった。常念小屋にシケ込んだその晩、彼は素直に私に謝った。
「さっきはゴメン、俺はどうかしてたんだ。おまえの山旗雲が正しいんだ」と、戸惑う私に繰り返した。
 ランプの炎の灯る彼の瞳孔の寂寥(せきりょう)が、なぜか私の胸に悲しみを誘った。
 白けた気分をそのままに、明日の別れにつなげることが彼には耐え難かったのだろうか、と思った私の解釈は間違っていたのだろうか?
 翌朝、彼は私の山靴と二人のアイゼンの納まったザックを背負い、現場監督の姿に戻った私は、彼のベンドと私のシェンクを入れたザックを肩に小屋を出た。仰ぐ常念岳の積み重なった岩塊は、初夏の陽をちかちかと反射させていたが、梓川の谷には依然としてガスが立ち込めていた。
「晴れるといいな」
 肩に浴びせた私の声に、彼の白い歯が微笑んだ」
 私は岩ザレに腰を下ろして、岩塊の間をのろのろと登っていく彼の姿を追っていた。次第に彼は小さくなり、やがて岩塊の中に消えてしまった。それっきり、彼は二度と再び、私の前に現われなかったのである。

 常念乗越の小屋前の広場を、間近に見下ろす黄昏の中に、英子は佇立(ちょりつ)していた。私を待っていたのだろう。一台のヘリコプターが吊り下げた荷を小屋前に降ろすや否や、機体の鮮やかな黄を、薄くなってきた霧にたちまちにじみこませた。おそらく、今日の荷揚げの最終便だったのだろう。対斜面の横通岳に続く這松の斜面が、時として驚くほどの緑を燃えあがらせてはまた紫紺に沈む。あそこだった。彼と旗雲を見た所は……。
 常念小屋の翌朝は、層雲に穂高を載せて明けはじめた。やがて槍も穂高連峰もその全容を惜しみなく現わすだろう。急ぐことはなかった。今はハイヤーが寂れてしまった大助小屋のずっと奥まで入る一の沢である。ご機嫌の直った英子を誘って、横通岳に続く山稜をぶらぶらと登っていった。
 大喰(おおばみ)のカールは、誰かが落としたハンカチーフだ。あの天狗原も、氷河公園の名の方が通りがよくなった。北穂から切れ落ちたキレットの底はまだチャコールグレイのままだったが、前穂の肩にきらりと光るのは、確か奥又白A沢の詰めに違いなかった。
 Oとの山行がまたも思い出されたが、この時になって、私の鈍感な頭にも彼の意図が鮮明に映し出された。あの時あいつはヘソを点検しただけでは飽き足らず、穂高への別れの総仕上げに、この稜線を選んだのだ。しかし山旗雲が彼の願望を空しくしたのだった。
 終戦後の疎開先で彼の戦死を知った私は、彼のベンドを携えて、彼の仏前に供えた。これだけは、と懸命に磨いたブレードの鈍色(にびいろ)が、穂高の色に映えていた。
 S氏も事故で急逝されてもう十数年が過ぎた今、私だけがいまだに山をほっつき歩いている。伴侶の英子は灰色だった時代の青春の埋め合わせをするかのように、山とその自然にひたむきだ。私は彼女に一度だけでも山旗雲を見せたいと思う。
  
タグ :穂高常念岳


Posted by 松田まゆみ at 14:44Comments(0)山旗雲

2009年02月20日

星糞峠(1)

 サリチル酸メチルのかすかな匂いが、近くの露岩の陰のいぶきじゃこう草のひと群れから風に運ばれてきて、私の鼻を擽(くすぐ)る。ぼんやり見上げる浅葱(あさぎ)の空に、ときどきぽつんと途切れる連続音が響く。けだるい午後のローンモアに似て、それは山彦谷の底から空に広がってくるチェンソーの音だった。殿城山の山頂からわずか北に下った小さな岳樺の根元に腰を下ろすと、目前に虫倉山とそれに続く小日向山の新緑の山脈(やまなみ)が見渡せた。その最低鞍部が星糞(ほしくそ)峠である。
 諏訪の子供達に「太陽の鼻糞」と呼ばれ、土地の人々に「星糞」と呼ばれている石、黒曜石という現代の美しい名称には気の毒みたいな呼び名だが、私がその粗野な名前の方により魅かれたのはなぜだろうか? たぶん、その名にロマンが感じられるためだったろう。
 東餅屋から和田峠、鷲ヶ峰にかけての草原や山道に、石炭がらのように転がっている黒曜石。夏の烈日の下に灰黒色に風化した表面と、ビール瓶の破片(かけら)のようにぎらぎら輝く破砕面を混在させているのを見る時、「太陽の鼻糞」の感がぴったりくるのである。どこにでも転がっている石と違って、透明で硝子そっくりのこの石を見た往昔の人々が、天から落ちてきたものと考えたのは至極当然といえる。しかも、この石が石器の原料として太古の人々の衣食住に密着していたことに私のロマン癖が刺激されるのだ。
 ニセアカシアの咲く上諏訪の丘の図書館に通った、もう二十年も前の日々を私はなつかしく思い出す。それは考古学の知識に欠ける私が、黒曜石だけをやみくもに追った勉強に過ぎなかったが、霧ヶ峰周辺に軽く二十を越える石器と、その国内交易に結びつく遺跡が散在することを知ったのは驚きだった。交易路は縄文以前の交通路や人々の生活を物語るだけでなく、当然、当時の地形や風土にも示唆を与えてくれる。黒曜原石も、加工された石器も、人の背に負われて物々交換されながら、関東へ、また遠く近畿まで流れていったようだ。
 私が星ヶ塔、星糞峠、星塚等の「星」のつく地名を知ったのはこの頃である。何という文献だったかもう忘れてしまったが、その不完全な地図と記述を頼りに、私はそこを訪ねてみようと思った。和田峠に近く、黒曜石の採石地として知られた星ヶ塔はさておき、私は「星糞峠」に「シルクロード」ならぬ「矢の根石」の道を想像したのである。星塚も峠のすぐ下の高山ヶ原にあることになっていた。おまけに峠から高度差二百メートルの所に虫倉山頂があるので、当然それにも登ってみたかったのである。
 虫倉山(一六五八メートル)は特異な露岩を持つ山である。もちろん岩登りの対象になるようなものではないが、山稜の二、三ヶ所にかさぶたのようにくっついた岩塊群は、遠くから見ると毛虫のようにも、また何か大きな昆虫の集団のようにも見えるのだろう。かつてスキーで蝶々深山(ちょうちょうみやま)に登った時、それは幾匹もの地虫が雪の中から首だけ出しているように見え、ちょうど啓蟄(けいちつ)も間もない時だったので、思わずふきだしてしまったことがある。虫倉はたぶん、虫嵒からきた名前なのだろう。ともあれ、私の星糞峠行きは、藪の衰えを待ってその年の十月末になってしまった。
 その日、白樺湖でバスを降りると、私はのんびりと大門街道を下っていった。正面に蟠(わだかま)る虫倉山の虫どもが、近づくにしたがってモグラになり、ついには狸の寄り合いと化する頃、追分に着く。高山ヶ原を越えて男女倉(おめぐら)に至る道はここで分かれてゆるい登りとなる。
 高山ヶ原には当時すでに五、六軒の開拓集落があった。その中の一軒に立ち寄って私は星糞峠と星塚について尋ねてみたが、そんなところは知らないということだった。考えてみれば土地者でもない入植の人に聞いても、知っているはずはなかったのである。地図の星塚は確かにこの人達の伐り開いた耕地のどこかにあるはずだったのだが……。
 私の期待のひとつは空しくなった。目の前にはっきりしたたるみを見せ、どうみても峠というにふさわしい星糞峠さえ、その人達は知らなかったのである。私は開墾地の縁(へり)を峠に向かって構わず直上した。人間の勘もばかにはならない。いつの間にか私は峠への踏跡をたどっていた。
 苦もなく着いた星糞峠は、松を交えた濶葉樹が梢を広げ、地表は信濃笹に覆われて、黒曜石は破片ひとつ見当たらなかった。踏跡も途切れたそこには、もはや人の息吹の通う峠路の姿はひとかけらもなかった。
 私は一本の松の根かたに腰を下ろすと、遅い昼食の弁当を広げた。正面には大笹峰からゆうゆうと高山ヶ原に延びる草紅葉の大斜面があった。その末端に芒(すすき)の白い穂波に隈取られて、ひと握りの人間のステータスが、早くも傾きかけた日差しに、あまりにも小さな影を引いていた。
  


Posted by 松田まゆみ at 16:41Comments(0)星糞峠

2009年02月21日

星糞峠(2)

 日本の古代、海辺からフォッサ・マグナに沿ってはるばるこの中央高地にたどりついた人々は、いったいどのような生活をしていたのだろう。荒れた山肌を一歩一歩登ってくる一団の人影が、ふと私の脳裏をよぎった。背は低いが逞しい筋肉の男達、褐色の肌がまぶしい女達である。女は尖底土器を頭から吊っていた。その中には石鏃(せきぞく)がいっぱい詰まっている。男は葛の蔓で編んだ袋を背負い、それには黒曜石の塊が入っている。やがて、彼らの裸足は星糞の破片をかすかにきしませ、峠の採石場の散乱を越えて、休もうともせず北側の谷に次々と姿を消していった……。私はなおも幻想を追う。
 春がくると彼らは峠を越えてやってくる。峠の南側、高山ヶ原の一角で、仮の穴居生活が始まる。それは家族ぐるみの自給自足の共同作業だ。峠一帯の星糞の採石と集積、選別、そして小さい破片は石鏃に加工される。作業の合間に男は狩を、女は木の実等の食料を集めて炊く。秋風とともに彼らは原石や加工した石鏃を背に山を降りるのである。
 卒然、私は笹の根元の落葉をかき分け、手にしていた割箸を差し込んだ。手ごたえのあった小石を掘り出すと、それはまさしく星糞だった。水筒の水で洗い、陽に透かすと、それはかつて見たこともないほど無色で透明な黒曜石だった。私は箸を木の枝に代えてその辺を掘り起こし、なるべく無色の石を六、七個選んでザックに放り込んだ。
 時計はすでに二時半をまわっていた。最終バスの時刻を考えると、残された時間は一時間足らずだ。「三十分だけ登ってみよう」自分に言い聞かせると、私は虫倉山への笹薮に飛び込んだ。肩までの笹漕ぎはまだよかった。尾根が痩せ、樹木が疎らになるとともに出現したクマイチゴの縦横無尽のバリケードに、私は山頂を間近に望みながらあえなく撃退された。時間は予定を三十分もオーバーしていたのである。追われた猪のように笹波を蹴立てて峠を駆け下った私は、引っかき傷でひりつく腕を抱えて、高山ヶ原を追分に向かって走り続けねばならなかった。私が虫倉山について知り得たことといっては、例の虫嵒の狸どもは風蝕された板状節理の溶岩塊で、蛇骨原(じゃこっぱら)の鉄平石と同じ、たぶん輝石安山岩だろうということだけだった。
 上諏訪のわが家に帰った私は、和田峠の星糞と比較してみた。星糞峠の石は表面に大小の凹凸がはなはだしく多く、一見して富士の青木ヶ原の溶岩を思わせ、破砕面も艶を失って粗面なのである。そのくせ、陽にかざすとほとんど無色透明であることがわかった。私ははじめ、その表面の状態は黒曜石が生成した当時の状態そのものなのだと思った。しかし、良く観ると明らかに溶岩のそれとは異なっていた。凹凸というより月のあばたに似ていた。あばたの幾つかは深く抉れていて、なかには凹みの底から裏側に小さな穴が貫通しているものさえあった。ルーペで観察すると、あばたの表面には植物の細根のようなものがこびりついているものも見つかった。どうやらここの星糞は植物の輪廻によって生じた腐食壌土に埋もれて、幾千年もの間にその根や微生物によって侵蝕されたもののように思われた。
 和田峠の石の内部には肉眼では見えないほどの小さな泡がときたま観察される。星糞峠のものは泡も大きく、数も幾分多い。私は戦時中、ガラスの製造、研究に従事したことがあるが、星糞の表面のあばたが石の生成時の泡に原因するものだとすると、このような高粘度の溶融体の表面にだけ大小の泡が集中し、そのすぐ下の層に泡がほとんどない、という状態はなんとも納得できないことだった。それに星糞峠の名は感じとして、なんとなく軟質で、粘りがあるように思えたのである。
 試みに私は白金線の先に小さな輪を作り、それに星糞を載せて、ブンゼンバーナーの炎の中で熱してみた。驚いたことに星糞は泡立ち、泡がなくなると美しい無色のガラス状小球になったのである。それはちょうど定性分析の硼砂球反応のようだった。黒曜石は簡単に溶けるものだ、と私はこの時思い込まされた。
 それから数年後、私の話に興味を持った友人の前で、私は今度は和田峠の星糞を同じようにバーナーの炎で熱してみた。ところがこの石は泡も出さず、溶けてもくれない。私はあわてて星糞峠の石を探したが、紛失したらしく出てこなかった。割り切れない気持ちのまま、私には以前の実験が白昼の夢だったようにさえ思われた。その後再び峠に行く機会もなく、私は東京へ転居して星糞のことはいつの間にか忘れてしまった。
 今年の五月の連休に立山へスキーに行った帰り、私は大糸線で松本へ出た。日本の翡翠の故郷、姫川の谷に萌える緑は私に星糞峠を思い出させた。翡翠もまた勾玉(まがたま)等に加工されて、縄文の頃から日本全国に流れたといわれている。思い立ったら止まらないのが私の性分である。同行の家内と茅野で別れると、スキーを駅に預けて私は白樺湖行のバスの客となった。
 しかし、夕暮れに着いた白樺湖の想像以上の変貌ぶりに私は唖然とした。散歩に出る気も失せ、旅館の窓から湖畔を取り囲む高層ホテルや、虎刈りの八子ヶ峰を眺めるばかりだった。翌朝、私は大門街道のご立派なアスファルト道路を一人ぽかぽかと下っていった。左手の殿城山は唐松の深緑のスカートをつけてはいたが、上半身はストリップである。行手の虫倉山も大方はバリカンが入り、虫岩はごろ出しである。お冠の私は、わが物顔に行き交うマイカーの爆音とガソリン臭の中を自然と足を速めていた。そこにわずかに残された郷愁は、沢沿いに今を盛りの山梨の花だけだったが、それも「姫の木別荘分譲地」の立看板であえなく消えた。追分に近く、眼前にせり上がる虫倉の尾根のボス狸はお腹まで剥き出されてお手上げの体である。それに何と、高山ヶ原への道も舗装道路ではないか! 二十数年の歳月は長かった。霧ヶ峰には、もう人間の歩く道はなくなっていた。
 高山ヶ原には何台ものトラクターが動き回り、今は立派に育った大笹峰の植林際まで広々と開墾されていた。入植は成功したのである。畑仕事の人に「星糞峠は」と聞くと、今度は即座に「あの道を行けばいい」と、耕地の真中をゆうゆうとうねる自動車道を指差した。私にしてみれば、人間の歩く道を教わりたかったのだが……。
 素直に礼を言って車道をしばらく行き、人影のなくなったあたりから荒地の中を峠に向かって直登した。登り着いてそれこそびっくり仰天したのは、そこを大きくカーブして横断しているアスファルト車道が目に飛び込んだからである。わが夢の矢の根石交易路は、今や高原野菜の運搬路と化し、車道の脇に盛り上げられた土砂に混じって、星糞のかけらだけが五月の陽をちかちかと虚しく照り返していた。
 峠にはまだ原生林が残されていたが、それを突破することは容易だった。ほどなく刈り払われた尾根に飛び出したからである。ほとんど感慨もなく、私は虫倉山の頂上を踏んだ。その北の肩にはよい道が大門街道に下っているのが見えたが、私は追分に向かって直降する道のない尾根を降路に選んだ。そこには旧知のボス狸が両手を上げていた。攀じ登った彼の肩口の青空に、八ヶ岳連嶺の白い波頭が遮るものもなく遠く、私の目頭を潤ませた。
 今、私の机の上にはその時の星糞が並んでいる。私はまだ、それをバーナーの炎に投じてはいない。この星糞ははたして泡立ちながら溶けてくれるだろうか? それとも、やはりあれは白日の夢だったのだろうか? その結果が何となく怖いのである。
  

Posted by 松田まゆみ at 14:00Comments(2)星糞峠

2009年02月22日

アルプスの三つの花


  黒赤の蘭

 シャモニイからエギーユドミディに登るロープウェイの中継駅、プランゼギーユからモンタンヴェールへ、シャモニイ針峰群の中腹を巻いて下る路は標高二三〇〇メートルから一九〇〇メートル。終始、高山植物帯に沿う美しい路だ。右手に眉を圧して迫るブレチュール、グレポン、グランシャモアの針の連嶺、今もずり落ちそうな懸垂氷河の白い輝き、左側はシャモニイの谷を隔てて赤い針峰群の山脈(やまなみ)が連なる。シャモニイ針峰群の岩場を目指すクライマー達に利用される路でもある。そこから、手が届きそうにさえ見えるナンチョン氷河を、半ば放心して眺めていた私は、「あらっ、くろばなろーげ、じゃない?」という妻の声にわれにかえった。
 指差す草の中にそれらしい黒赤の花が見える。私達はその花に駆け寄った。
「違うみたい、何だろう?」
 道傍の岩に休んでいたガイドらしい青年が、「ボンジュール」と、私達に微笑みかけると、無造作にその花を折り採って私達の鼻先に差し出した。嗅いでみろ、というのである。かすかにヴァニラの匂いが漂う。
「あっ、あの花だ!」
 はしなくも思い当たったのは、昨夜ホテルの枕元に置かれてあったナイトチョコレートの包装紙に印刷されたブラック・ヴァニラ・オーキッド(Black vanilla orchid)である。
「メルシイ」
 青年の去った後、私はその可愛い花穂に群がる小花を、些(いささ)か度の進んだ老眼に、ためつ眺めていたが、傍らの妻は何がおかしいのかクックッと笑い出したかと思うと、こみあげてきた笑いをとうとう爆発させた。笑いを噛み殺しながら彼女は言った。
「だって、おかしいんだもん。あの人、さっき私の踵(かかと)にけつまずいたの。で、なんて言ったと思う? 『アリガトゴザイマス、マダム』だって、アハハハハ」
 今度は私の笑いが止まらなくなった。だが、他人事(ひとごと)ではないのである。私の操る怪しげな英語も大同小異、何を言ってるか、わかったものじゃなかったからだ。
 ニグリテラ・ニグラ(Nigritella nigra)いかにも黒いその学名と、あのフランスの青年を、私は決して忘れることができないだろう。


  山の家(いえ)にら

 ここには、ジョーゼットを透かしてくるような日差しがあるというのに、ヴァリスアルプスの連嶺は霞の中だった。わずかに朧(おぼろ)なのはワイスホルンではなかっただろうか? ローヌに合流する幾つかの緑の支谷がアルプスに食い込むにつれ、青を深め、白いヴェールに包み込まれる。人口二万、ヴァリスの州都シオン市を見下ろす丘の上である。なぜか私は信州の美ヶ原に続く小春日の丘陵を思い出していた。フォッサマグナはローヌの谷なのである。
 私のすぐ後ろには、古城のような教会の擁壁がそそり立っていた。露岩の間隙を這い上がる潅木、風化した砂礫にしがみつく草地、投げ出した私の足元に、ふと異様な花が目に止まった。アスパラガスの芽のような太い茎の頂上にサボテンの花に似て薄紅さした数花である。
 初めて見る花である。花茎の元に厚いロゼット葉が身を寄せ合っていたが、別の植物かと思われるほど目立たない存在だった。忽然と地から蘇った精霊、そんな幻想を抱かせたのは中世に造られたというヴァレリアの教会に原因があったようだ。
 教会は今では美術館になっていて、十三世紀に作られたというパイプオルガン、絵画、中世の武器、製粉に使われた挽臼(ひきうす)等が展示されている。厚い石壁に囲まれた教会領域内には礼拝堂のほか、司教の住居、会議室、食堂、地下食料貯蔵庫、酒造室等を含む協同生活空間を持つ建物、衛兵詰所まであった。すべて石造りで冷たい。小さな谷を隔てて絶壁に囲まれた丘の上には崩れかけた城砦(じょうさい)が見えていた。城と教会の関係を私は知らない。
 ヨーロッパの歴史に疎い私には自ら守らなければならなかった当時の教会が連想されただけだったが、人間の血腥(ちなまぐさ)い盛衰の舞台に、今も生き続けるこの花に、私はかつてここに生き、そして死んだであろう僧侶達の執念を見る思いがしたのである。
 後日、ツェルマットで買ったヨーロッパの花という本で、私はこの花が英名マウンテン・ハウス・リーク(Mountain house leek)「山の家にら」であることを知った。にらの匂いがするのだろうか。学名センペルビブム・モンタヌム(Sempervivum montanum)、北米のモンタナが頭をかすめたが、地図を見ていたらここから十キロほど東にモンタナの活字を見い出した。


  青いいわかがみ

 ひと目みたい、と思っていた。アルプスの花の中でも最も繊細でチャーミングな花と表現されているアルパイン・スノーベル。オーベルロートホルンがフィンデルアルプに投げかける斑(まだら)な残雪の急斜面で、私はそれを見つけることができた。大声で妻を呼んだが、小児のように花に向かって跳んでいってしまった彼女には聞こえない。目の下の緑のアルプには、そんなに豊富な花々が開花していたのだ。
 消えたばかりの残雪の、いまだ萠え切らない草の中に、ちっぽけなスノーベルのひと群れが花開いていた。もし指先に乗るほどの小さな女の子がいたならば、はかせてみたいスカートのような、その裾の藤色のフリンヂが消え入るほどに可憐だった。「青いいわかがみ」、私はそっと呟いた。桜草科の花なのに私はあえて、いわかがみと言おう。花はもちろん、その赤い茎も、根元に集まった小さな腎臓形の葉も、いわかがみにそっくりだったのだ。
 ヨーロッパ中部のハイランドにはドワーフ・スノーベル(Dwarf snowbell)と呼ばれる近縁種がある。自らの生長熱で雪を溶かして蕾をもたげるときく。花は釣鐘形で、花の長さの四分の一ほどのフリンヂを持っているが、アルプスのスノーベルはバレリーナのスカートのように短くて切れ込みが深い。ソルダネラ・アルピノ(Soldanella alpino)という学名は、この花らしい女性名詞である。
「アレにも見せたかったのにな」
 独りごちて立ち上がった私の肩を、氷雨が叩き出していた。早く追いつかなければ、と私は岩から岩へ跳び移った。これから行くシュテリーゼは、フリューアルプは、どうやら霧の中の彷徨(ほうこう)になるだろう。
  
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Posted by 松田まゆみ at 14:01Comments(0)アルプスの三つの花

2009年02月23日

ゴルナーグラートにて(1)

 立てめぐらされた灰色の壁の中に、私達の足跡が消えている。無数の雪片が音もなく生まれるのも、その壁の中からである。ゴルナー山稜は、はてしない大洋を漂う巨大な鯨の死体に似ていた。空も海も灰色に閉ざされ、降りしきる雪に塗(まみ)れ腐臭もなく、それは浮かんでいた。今この広い尾根にいるのは、おそらく私達二人だけである。この時、私の脳裏をかすめたのはリングワンデリングだ。足の向こうだろうこの尾根の左側は、ゴルナー氷河に削られた急崖が続いていることを私は知っていた。引き返すべきか? 足跡が消えないうちに。
 その朝、登山電車の終駅ゴルナーグラートの展望台では雪が激しく降っていた。昨夜来の真夏の雪である。氷河が、それとわかる白さを現わしてはたちまちかき消える。モンテローザもマッターホルンも姿を見せるはずがなかった。シュトックホルンのロープウェイも運転休止。国境山稜のカステルフランコの門への氷原散歩は、すでに望みを断たれた。観光客はレストランでお茶を飲むと、再び電車の客となってしまう。「たかが登山電車の走る高原だ。せっかくの登山靴を泣かせては」と、気楽に踏みだしたゴルナー山稜だったが、三十センチの新雪に覆われたそこには足跡ひとつ見当たらなかった。考えてみれば、今頃本格的な登山者がこんな所をうろついているはずがなかったのである。
 だが、機転は意外に早く訪れた。高度三千メートルを境に、可視と不可視の領域が今はっきりと分かれようとしていた。雪は名残り惜しげに私の肩にまつわり、静かに霧を這わせる雪原が私達の前に広がっていった。安堵と希望の中を、もはや確実にそれとわかるリュッフェルホルンの黒い岩壁を目指して、私達は一直線に雪を踏めばよかったのである。
 一昨日の今頃、私達はここから遥かフィンデルン氷河を隔てたフリューアルプを歩いていた。雪交じりの氷雨の中に、それでも露を含んで重たげなエーデルワイスが花を広げ、半開のアルパインアネモネがレモンイエローの頭を垂れていた。モスシャンピオンのピンクのモザイクを抜いて、ゲンチャナのアクアマリンが星のようだったが、今日はそれらも間違いなく雪の下だ。私達には無情と思われる雪も、アルプの花々には日常茶飯事のことなのだ。
 リッフェルゼーを見下ろす白い丘にぽつんと立った背の高い道標を見上げて、私達は思わず目を見合わせた。「モンテローザヒュッテへ二・五時間」と記されていたからである。実のところ、私達は昨日この雪の下にあるであろう道を、ゴルナー氷河を渡ってモンテローザ小屋に行くはずだったのだ。しかし、その朝ツェルマットの駅前で落ち合ったガイドは空を見上げて言った。
「あと一時間でここも雨になる。山は駄目だ。たぶん明日もね」
 気の毒そうな、しかしとりつきようもない青い目の色を残して、彼はさっさと行ってしまった。幅広い肩に蝶のようにとまったザックを、私達は恨めしげに見送ったのである。
 下り着いたリッフェルゼーの湖面は、絵葉書でお馴染みのマッターホルンに代わってリッフェルホルンの暗い岩場が占領し、銅鏡のように黙然と動かなかった。南を遮られた雪が足に冷たい。私は雲の明るい稜線のコルへのゆるい斜面を登っていった。ここからは、氷河が見下ろせるはずだったし、それよりも暖かい休息の場が欲しかったのである。そしてコルから氷河に落ちこむ急崖の三十メートルほど下に小屋らしい屋根を認めると、私は躊躇せず急斜面の雪を蹴った。氷河に南面するその小さな小屋の扉は閉ざされ、小屋前の雪のテラスにも人の足跡はない。
 真向かうゴルナー氷河は陽を失った氷原に大小の氷河湖を載せて、寂寞と横たわっていた。氷河の上、モンテローザが押し出すデブリのあたりには和やかな陽光の漂いがあったが、リッフェルホルンの裾を過ぎると急激に斜面を増し、クレバスや氷塊(セラック)の狂奔(きょうほん)する中をツェルマットの谷に湧き上がる鉛色の霧の中に落とし込んでいた。対岸ブライトホルンの北壁に落ちかかる懸垂氷河が、早い霧の動きの隙(ひま)に出没する。背に戦(おのの)きの走るのは、ときおり雲を割る薄い陽がそのクレバス群の鈍色(にびいろ)を刷く瞬間である。
 灰色の四千メートルに立ち並ぶ峰々の見えぬまま、私は人差し指を左から右へ移動させていた。
「あの辺にヴァリスの銀の鞍、リスカム、その隣りにカストアとポルックス、正面はブライトホルン頂稜があるんだよ」
「カストア、ポルックスって、あの双子座の兄弟星のこと?」
「そうだよ。可愛らしい尖峰が二つ並んでるんだ。山の向こう側はイタリーさ」
「くやしいわ。何も見えないんだもん。地球の裏側まではるばるやってきたっていうのに」と英子は嘆く。
「こんな日もまたいいさ。雲の中の山は際限もなく高いし、晴れた日の氷河にはこんな非情な美しさはないよ」
「そうよね。来たこともないくせに、山の形までわかる人にはそれでいいわよね」
 皮肉を含んだ目の色が私をにらむ。
 そうだ、その通りなのだと私は言いたい。
 四十年も前から私はここに来ている。それも晴れた日ばかりだ。ここは私の瞼の故郷なのだから……。今も私の網膜には巨大な砂糖菓子のようなモンテローザが映っている。マッターホルンの鋼鉄の塑像もダンブランシュもドームも。それのみか私はワイスホルンの削ぎ落とされた氷のリッジを攀じたことさえある。ツェルマットの教会の鐘、クロの墓、モンテローザホテルのウィンパーのレリーフ、それらは私の網膜の虚像と寸分の違いもなかったが、ただ山々だけは旧知の姿を確かめようもなかった。
  


Posted by 松田まゆみ at 10:25Comments(0)ゴルナーグラートにて

2009年02月24日

ゴルナーグラートにて(2)

「晴れるんじゃない? 陽が差してきたわ」
 英子が目を輝かせる。
 確かに柔らかい日差しが雪を温め、時には青空さえ雲間に覗く。そんな瞬間、噴火口に似た氷河湖の辺稜がきらりと光る。
「あそこまで降りてみたいわ」
 彼女は眼下百メートルのシュルントを指差す。しかし私はいかにも時間が気にかかる。
「ともかく休もうよ」
 私は小屋の三、四段ある階段を上って入口の扉に背を寄せた。
 国境山脈を越えて、遥かなイタリーの太陽が小屋の板壁を温めている。夏の雪は生クリームのようだ。廂(ひさし)から絶えず雨滴(あまだれ)が落ちていた。
 私はザックから乾肉とパンを取り出し、英子はテルモスのコーヒーをカップに分ける。何かほのぼのとした気配が私達を包んだ。
 雨滴は逆行の中でこぼれる真珠となり、連なってガラスの糸になる。そして雪の中に小さな音が散らばる。英子の瞳の奥を真珠が流れる。それはひどく小さくて音がない。真珠が突然乱れて、英子が言った。
「私ね、今、幸せいっぱいなの……」
 英子から同じ言葉を聞くのは、これが二度目である。
 最初はシャモニイから来る途中で寄った、シオンの古い城跡のある丘の上でだった。私には適当な返事が見当たらない。
「また来ようよ」と私は言った。
「今度は十日くらいシャレーを借りてね」
「ほんとに?」
「ほんとさ。ブライトホルンに登ろう」
「私にも登れる?」
「登れるさ。ザイルが要るかもね」
「嬉しいっ! きっとよ」
 膝に置いた彼女の指の小さなダイアが光る。自分で働いて買ったコンマ二六カラットのそれは、いつの山行にも英子の指にある。ダイアは硬いから気が楽なのだというそのリングのプラチナに残る無数の擦り傷は、そのまま私達の山行のメモリーなのである。
 振り返ってみれば、私達の青春は灰色だった。私達にもささやかながら Sturm und Drang といわれる時代がなかったとは言えない。しかし、それらはすべて戦争という大きな拘束の中に過ぎ去ってしまった。戦前の私達に今ここにある現実をどうして想像できただろう。アルプスは夢にさえ現れない存在だったのだから。
 それは戦前を体験してきた世代だけが知っている。真新しいザイルで疎開の荷を作り、スキーを炊いて風呂を沸かした日は今でこそなつかしい。思い出したくもない困難な時代を兎にも角にも私達は生きてきた。そして本で読み、写真で憧れたアルプスが与えられた今、私達には人工登攀の技術も、それを試みる体力も失われていたのである。だが、それを嘆くことはないのである。
 私はモンテンベールで、レストランに入ってきた老登山家夫妻をこの目で見た。メールドグラスから登ってきたばかりらしい彼らの腰には、濡れたアイゼンがぶら下がっていた。二人の足取りの確かさは、今も私の目に焼きついている。たとえシャモニイの岩は登れなくても、スイスには私達の登り得る四千メートルの峰々がある。氷河を詰め、岩と雪の峠を越えて、花の谷を下る幾多のルートがある。
 紺青の朝まだき、氷雪に粧(よそお)われた群峰に囲繞(いじょう)された氷河のただ中を、自分たちのペースを守り、ヒドンクレバスを探り、短いザイルを結びあう。そんな想像が私を楽しくさせた。
 私達は長い間無言だった。この平和で怠惰な時間こそ、貪(むさぼ)れるだけ貪ればよいのだ。ともあれ、そこに身を置いた感傷のエアポケットに立ち入るものは何物もなかった。
 幻のように小さな三つの人影が斜面の岩と雪を縫って近づくのが見えた。ピッケルを突く小柄なのは女性だろうか? たぶんモンテローザ小屋からの帰りなのだ。私達にも立ち上がる時がきたのである。左手の丘にぽつんとローテンボーデンの駅舎が見える。リッフェルベルクまで広がる広大なアルプに、また霧が裳裾(もすそ)を曳きはじめていた。しかし、こんな日にもアルプスには異常なほどの明るさがある。そこには胸を満たす郷愁はあっても、カナダの森にあるような野生の寂寥(せきりょう)はなかった。
「あら、可哀そう。お腹空いているのね」
 英子の指差す山羊の群れの二、三頭が、前足で雪を掘って餌を探していた。近づいてカメラを向けたら、真黒な羊導犬が山羊の腹を頭で懸命に押し始めた。彼らをわれわれから遠ざけようというのだろう。
 霧を恐れて私は電車の軌道沿いを歩いた。そこには幾つかの先行者の足跡もある。背後に近づく電車の気配に振り返りもせず歩いていた私の肩をかすめて、電車は警笛も鳴らさず通り過ぎた。思いのほか幅広い車体に驚くと同時に、私をドキリとさせたのは窓から怒鳴る運転手のエンマ顔だった。しかし、電車は静々と走り過ぎて去った。ここは日本ではなかったのである。
 極彩色のキリスト像の立つリッフェルベルグの駅前で、足が冷えたから電車で帰るという英子と別れると、めっきり少なくなった雪道を私は一人リッフェルアルプに向かった。ここは旧(ふる)いモレインの一端なのだろうか。
 丘はアルプに急降下する。マッターホルンは相変わらず雲の中だったが、ヘルンリ小屋から下では、ちぎれた雲の動きが早い。青黒く沈んだツェルマットの谷に、疎らな木立を載せたリッフェルアルプの鮮やかな緑が浮かぶ。
 かつてこの国は、貫流する氷河を除いて黒々とした針葉樹の森に覆われていたに違いない。森に接した狭い岩礫帯が高山植物や地衣類の住処だったのだろう。人間が谷を遡り、森を伐り、家畜を飼ってアルプをつくったのだ。
 彼らの貧困と苦労は、想像に難くない。そして彼ら四カ国の言葉を話す人々が得たものは、想像以上に明るく透徹した風土だった。私は以前からスイスやチロルの民謡のもつ底抜けの明るさを不思議に思っていた。そこにはドイツのロマンも、フランスのエスプリも影をひそめる。長い冬が過ぎ、一時(いっとき)に花開くアルプ。彼らの苦労の一年は、束の間の春に凝縮されてしまうのだろうか。
 スイスの人はけちで利己的だという。反面、人々は大変親切だ。秋の意識は直ちに生活防衛につながる。アルプには人々の哀歓が色濃く染みついているのである。
 リッフェルアルプに着く頃、とうとう霧雨が降りだした。教会もアルプの家々も薄いヴェールに包まれ、道傍のレストハウスのポールにスイス国旗が濡れしぼむ。窓から外を見ていた男の子にバイバイと手を振ったら「コンニチワサヨナラ」と言った。
 停々(ていてい)と聳える針葉樹の梢が、まつわる霧ににじむ。ツェルマットはもう近かった。私の好きな山旅の終わりの充足感が、気怠(けだる)く私を包む。
 いつの間に追いついたのか、前を行く若いカップルから私は十五メートルの間隔を詰めようとはしない。彼女の裸の背を覆う金髪が、霧を含んでゆさゆさと揺れていた。
  

Posted by 松田まゆみ at 13:13Comments(0)ゴルナーグラートにて