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山の挽歌-松田白作品集- › 青春挽歌 › 石老山頂(1)

2009年01月30日

石老山頂(1)

 湿った落葉に埋まった道は、足音も立たない。冷たく柔らかい感触だけが足裏に残る。そしてカサコソと二人の足の下で鳴る。私が冬近い山道を歩くのが好きなのは、この落葉の感触がなつかしいからだ。
 風にはらはらと落葉が舞う。黄色い葉、赤茶色の葉、くるくる回りながらSの肩に舞いかかる。もう二日もすれば、すべての葉は落ち切ってしまうだろう。
 去年の十月末、Sと歩いた上越国境、蓬峠の越路を思い出す。白樺の黄、ナナカマドの真紅、その落葉のふりかかる中を、上州から越後へと抜けた山旅……。あの時、一ノ倉の岩壁が周囲の紅葉(もみじ)で溶岩塊のように燃えていた。そして土樽(つちたる)へ下る私達の後ろから、追うように落ちてきたみぞれ。あんな旅ももうSとはできないのだと思うと、踏みしめるひとつひとつの枯葉にも感傷が残る。
 山頂に近づくにしたがって、私達は汗ばんでくる。Sは袖をまくり上げ、私はチョッキを脱ぐ。頂上には露岩が多い。私達は大きな礫岩の陰に北風をよけ、日溜りの草の上に腰を下ろした。苦もなく着いてしまった山頂だった。
 丹沢の幾重にも重なった山脈(やまなみ)を前にして、私達は午餐(ごさん)を摂った。テルモスの紅茶を飲むと、私はごろりと横になる。
「少し寝ようか?」
「うん」
 こうして昼寝をすることは、もう山での慣わしになっている。いつもは簡単に眠り簡単に起きる私達だったが、今日はなかなか寝つかれなかった。私はまぶしさを防ぐために、Sのハンカチを取って顔に被せる。Sの常用の渋い匂いのする香水が、仄(ほの)かに鼻をくすぐる。それが次第に鼻について、よけい眠れなくなった。
 ハンカチを取り去ると、Sの半身がコバルトの空に浮いている。Sは髪を梳かしている。櫛を持って、せわしく頭の上を往復している指に、裸の腕に、秋の陽がぴちぴちと跳ね返る。いつも日焼けして真黒な腕にもこんな美しい瞬間があるのかと思うと、何だかおかしくなって「ふふふ」と忍び笑いが出る。
「何がおかしいのよ」
「おかしいさ。姉さんがそんな女らしい格好をすることもあるのかと思うと、おかしくって……」
 Sの柳眉が逆立つ。
「あるさ、女だもん」
 丹沢山塊は紫色に沈んでいる。幾重にも重なった山脈(やまなみ)が、遠くなるにしたがって薄い青磁色に変わってゆく。右の方のさらに遠い山脈の上に、砂糖菓子のように白い頭を寄せ合っているのは初雪の南アルプスだろう。正面の中空には、忘れられた置物のような富士がぽかんと浮かんでいる。
 突然、Sが言い出す。
「キッチン、私結婚することにしちゃった。十日後には『奥さん』って奴になるのよ……どう思う?」
 予期していた言葉だったが、あらたまって言われると返事に困って、私はとぼけた」
「へぇー! 姉さんでも結婚できるの?」
 私の言葉にSはぷんとして上を向く。その線の強いプロフィルの鼻の下に、例の置物の富士がぶら下がっている。
「まあいいさ。私だって女だもん、一度くらい結婚なんてものもしてみなくちゃ親不孝になるもの……。キッチン、君だって雄のハシクレなんだから、そのうちに結婚するんだろ……。それとも天の夕顔が一生忘れられないの? えへへ、知ってるぞM子のこと……」
 私は驚いた。なぜSがM子のことを知っているのだろう。不思議だった。Sは私の眼を遠慮なくじろじろ覗き込む。いたずらっぽい眼の色だったが、その眼で見ていられたら私は頬のあたりが次第に火照り出し、加速度的に火照りが加わってついに真赤になってしまった。
「ウワーイ! 赤くなった、赤くなった」
 Sは手を叩いて喜ぶ。そうされるとますます赤くなり、焦れば焦るほどいつまでたっても消えなくなった。
「いいとこあるね、やっぱりボンボンだね」


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Posted by 松田まゆみ at 14:35│Comments(0)青春挽歌
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