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山の挽歌-松田白作品集- › 青春挽歌 › 石老山頂(3)

2009年02月01日

石老山頂(3)

 私は思いっきり苦いコーヒーを舌の上ににじませながら、Sのスケッチブックを開く。数々の山行をともに歩いた歴史が、表紙の手擦れに残っている。めくる頁々に、Sのしっかりしたデッサンが現われる。ああ、その一葉一葉に残る思い出の数々よ。

 尾瀬、至仏山頂
 そこで私達は長い時間、休んだんだった。目の下には遥か燧岳(ひうちだけ)の麓まで広がった尾瀬ヶ原の湿原。そこには大小さまざまの手鏡をちりばめたように、幾つもの池塘が夕日に光っていた。姉さんは黙って筆を動かし、僕は岩に腹這って「夕暮れの歌」を歌っていたっけ。

 秩父十文字峠
 暮れやすい紅の陽が、昼なお暗い針葉樹林の木の間を透かしてちらちらとこぼれていた。苔の匂いのする冷々と湿った道。貴女は船乗りのお父様と貴女の生まれた南米の話をしてくれた。狭い空にピンク色の雲が流れていた。

 谷川岳山頂に近い岩棚の上にて
 霧が晴れないままに、姉さんはスケッチブックを傍らに放り出して、「オーゼの死」をハミングで口ずさんでいた。私はザイルを肩にかけたまま、姉さんの声が厚い霧の壁に反響するのをじっと聴いていた。遥か下に岩登りのパーティーがいるのだろう、ピトンを打つ音が聞こえていた。しまいには私も歌ったね。二重唱のあの悲しげな音律が、濃い霧の中に広がってゆき、他のパーティーがしばし登るのを止めて聴き惚れたという。あれは確かに霧のおかげだったね。

 那須郭公温泉
 雨に降り込められた一日。退屈まぎれに姉さんは珍しく、女中さんから口紅を借りて鏡台の前に座った。僕は蓄音機にワインガルトナーの「英雄」をかけて聴いていたが、あの時の葬送の楽章がとても印象的だった。窓の外は降りしきる銀簾(ぎんすだれ)の雨。その中を濃く、あるいは薄く霧が飛び去ってゆく。ベートーヴェンはあんな雰囲気の中で、あの交響曲を書いたんじゃないだろうか。あの時っきり後にも前にも見たことのない、口紅で粧(よそお)った姉さんの美しかったこと。

 日光太郎山
 山頂で古銭を拾ったという山仲間の話を聞いていたので、その辺をほじくり回ったっけ。だけど瓦片(かわらけ)ひとつ出てこなかった。賽銭箱を開けてみたら、明治三十一年の半銭銅貨と大正十三年の一銭銅貨が一枚ずつ出てきたっけ。太郎は人の訪れも稀な、ぽっつり取り残された頂だった。


 ああ、今日この石老山頂のスケッチでこのブックは永遠に終わってしまう。Sとの交際の糸も切れる。スケッチブックを閉じて返そうとする私の手を、Sは押し戻して言った。
「それ坊やにあげるわ、私の記念に」
 彼女にそう言われると、私は急に胸中が熱くなってブックを胸にかき抱いた。
「ほんとにもらっていい? 何だか悪いな」
 Sの代わりにこれだけが私の手に残ると思うと、何だか無性に悲しくなった。
「姉さん、僕はいつも姉さんに感謝している。僕がこうやって今日まで生きてこられたのは姉さんのお陰なんだもの。姉さんは僕の再生の恩人なんだ。姉さんがお嫁にいってしまったら、僕はまた元の僕にかえるんだろうか? そんな気もするんだけど……。僕は姉さんが好きだ。姉さんはいい人だ、きっと幸せになれるよ」
「ウフン、どうだかね」
「僕は駄目、姉さんと別れて恋人を持つ気はないし、もちろんもうとう結婚する気なんかしない。希望のないこの世の中に、母や弟を養い続ける貧しい生活の連続があるだけなんだ。いったい何のために生きていかねばならないのかなあ」
「坊や、君は意気地なしだわ。もっと強い男にならなきゃ駄目よ。女ってどんなものだか知ってる? 男ってどんなもんだか教えてあげるわ。女は受身よ。男は能動が本性よ。女は男に蹂躙(じゅうりん)されたい一面を持っているの。女を蹂躙してみたまえ、貴男(あなた)の行く道がきっと開けるわ。貴男に生きる勇気が出るわ。私達は少年少女のような美しい夢をいつまでも見続けてはいられないのよ。いやでも夢のヴェールをかなぐり捨てなくては大人になれないのよ。可哀そうだといって、動物や植物を殺して食べずには人間は生きていけないでしょう。理想と現実の板ばさみの中で生きていかねばならないのが、人間に与えられた悲しい定めだわ」
 いつになく熱い口調のSだった。
「貴男は、生(なま)の男になる必要があるわ」
「そうかな? そうかもしれない。だけど僕はこのままどこまでも生きていきたい。たとえ『天の夕顔』の、あの男のような運命に終わろうとも満足できるような気がする」
「馬鹿ね」
 突然、私の腕はきゅっと抓(つね)られた。瞳を上げると、間近にSの茶色の瞳があった。それは笑っているようないたずらっ子のような色を漂わせていたが……。
「気合を入れてやろうか? ……女っていう動物はね、こんなものよ」
 あっという間もなく、Sの顔が私の顔に被さってくる。柔らかい温かいものが私の唇にふれ、熱いものが全身を駆けめぐった。
 沈黙が続いた。真空の中にいるような、息苦しく思考のない沈黙の時が続いた。地球が回転を止めて、鼓膜は音を聞かなかった。


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Posted by 松田まゆみ at 13:49│Comments(0)青春挽歌
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