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山の挽歌-松田白作品集- › 青春挽歌 › 石老山頂(4)

2009年02月02日

石老山頂(4)

 陽は西に傾き、冷々した空気があたりを領していた。生まれてからかつて経験しなかった接吻という行為を、瞬時として経験した私達に言葉のない時間が静かに経ってゆく。もうじきお嫁にゆく女(ひと)は、目を伏せてスケッチブックの閉じ紐を指先にまさぐっている。堅く結ばれた唇が、何事もなかったようにしっかりと確かな線を夕焼けの空に浮かせていた。どうしたことか、何やら味気なさが私を限りなく淋しくした。あんなに愛し合っていたM子とは、ただ一度お互いの体温を掌を通して感じあっただけで別れる。今、私はもうじきお嫁にゆく人とどんな行為をしたというのだろう。

「もう降りないと暗くなるわ、降りよう」とSが言う。
「うん」
 私達は立ち上がった。
 そして枯葉に埋まった山道を、ほとんど無言で下っていった。絶え間なく枯葉が散っていた。枯葉、枯葉、音立て踏み散らされる枯葉。私の青春の挽歌か……。引き止めようもなく去ってしまう、私の青春への傷みか……。終わろうとする青春への哀惜(あいせき)が私の胸を締めつける。
 M子もSも、私を置き去りにして嫁いでゆく。残された私にはもう青春がない。私はまた一人ぼっちの危険な山旅をやるのだろうか。いや、たぶんそんな危険を冒す勇気もなくなるだろう。なぜなら、私にはもう無鉄砲な青春がなくなったのだから……。
 気分を変えるようにSが歌い出した。曲は「落葉のワルツ」だった。私はニノン・ヴァランの歌うこの曲が好きだった。作曲者のアーンはニノン・ヴァラン夫人が好きだったのではなかろうかと思わせるほど、このニノンに捧げられた曲は甘くそして悲愁を帯びていた。
「キッチン、ごめんね。M子さんに悪かったかな? 君のきれいな夢を破っちゃって少し後悔してるのよ、ごめんね」
「姉さん、そんなんじゃないよ。僕はむしろ嬉しいんだ。僕は大人になれるような気がしている。きっとなれるよ。さっきから、僕は自分の青春の挽歌を聴いている。もう戻ってこない青春だと思うと少し名残り惜しいけど、大人の世界がこれから始まるかと思うと、何だかそれも悪くないような気がしてきた。
「何言ってるの、青春が終わったのは私で、キッチンはまだこれからよ。貴男(あなた)は今までほんの子供だったの。青春はこれからよ。これから恋愛して、いい女性と結婚するの。女なんて星の数ほどいるわ」
「フーン、それじゃこれからうんと浮気しようかな。ドン・ファンになるよ。姉さん、今度は僕が気合入れてやろうか」
「まあ、あきれた子。アハハハハハ」

  キッチン キッチン その意気だ
  その意気 その意気 虫の意気
  キッチン キッチン その意気だ
  押しちゃえ 押しちゃえ その意気だ

 子供の歌の節に合わせて、私達は山を跳び下った。
 黄昏迫る頃、私達は顕鏡寺を通り過ぎた。そして夕闇の中を、桂川を渡った。与瀬の町にはすでにちらちらと灯がともっている。私達の足はまだちっとも疲れていなかった。


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Posted by 松田まゆみ at 11:29│Comments(0)青春挽歌
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