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山の挽歌-松田白作品集- › 青春挽歌 › 大垂水峠越え(2)

2009年02月04日

大垂水峠越え(2)

 道端の人家から座繰(ざぐり)の音がする。ブーンブーンと単調な響き……。私はその音を聞きながらSの次の言葉を待った。
 Sが言い出さないままに、私はこんな寒い晩まで糸を繰る娘の、赤くふくらんだ指を思い浮かべていた。しかしSが話し出さないのは、ほかに理由のあったことがすぐわかった。一人の男が後から追いついてきていた。そして私達に並ぶと、ぴょこりと一つ頭を下げてから話しかけてきた。
「どちらへお出でです?」
 私は、この突然現われた芳(かんば)しくない道連れに話の腰を折られて腹がむかついたが、仕方なく「浅川です」とぶっきら棒に応えた。
 男は驚いたような顔をした。
「この夜道をですか? あの、東京の方では?」と言う。
「そうですよ、終電には間に合うでしょう」
 男は首をひねって「さあ?」と言った。
「よほどお急ぎにならなければ」とつけ足してさらに続けた。
「私はこの先の天下茶屋の者ですが、ひと風呂浴びて与瀬から終列車でお帰りになったらいかがです? うちの車でお送りしますよ。浅川まで歩いては大変ですよ」と言う。
 天下茶屋という鉱泉宿のあることは私も聞いていた。わりあいに高級な連れ込み宿であるということもついでに聞いていた。
「おじさん、僕らはご覧の通りのハイカーで、そんな金持ちじゃないよ」
「山登りの方はときどきお寄りになりますよ。お風呂はお二人様で一円、お泊りはお一人様三円。美女谷温泉あたりより、うちの方がずっと閑静で。お出でになる方々のお人柄が第一違いまさあ……」
 聞きもしないことをよく喋る男だった。
 いつの間にか、日はすっかり暮れている。満点の星空である。私はふと風呂へ入りたい気分に誘われたが、連れ込み扱いされると思うといやな気持ちになって、すぐには次の言葉が出なかった。男は何と勘違いしたか、「ね、そうなさいまし」と言ってSを振り返った。
「奥様それがおよろしいでしょう」と言う。Sの片頬にえくぼが浮かんで、小さく「フフフフ」とふくみ笑いしたようだった。
「おじさん、僕らはそんなんじゃないんだ。泊まったっていいけどお金は六円しかない。帰りの電車賃がなくなるよ」
「ご冗談を? アハハハハハ、宿料なんかいかようにもご相談に乗りますよ」
「冗談じゃない、今のはヒヤカシだよ」と私は慌てて手を振る。
 Sと私はこれまで何回か山小屋や温泉に泊まった。ちょうど仲のよい姉弟のように。しかし今日はいつものように気軽に沈没する気になれなかった。
 私はSを返り見た。Sの顔には何の動揺の色もなかった。
「沈没しちゃおうか」と言えば、「うん」と言いそうな顔にも見えるし、「今日は駄目」と叱られそうな顔にも見えた。
 私はわからないままにしばらく沈黙を続けた。私の心の奥底で、なぜ「止す」とはっきり言えないのだ、という言葉が弱々しく囁(ささや)かれた。やがて夜目にも白く「天下茶屋へ」と記された標柱の前に立ち止まると、男はもう一度「いかがです、休んでいらっしゃいまし」と言った。私は、私の網膜からSとどてらで寛(くつろ)ぐ姿を追っ払いながら言った。
「おじさん、またこの次に来るよ」
 男は団栗眼(どんぐりまなこ)をきょとんとさせて頭を掻いた。
「そうですか、それではまたこの次に是非」と言って、標柱の後ろの暗がりの中に消えていった。
 何とはない味気なさが残った。二、三十メートルも沈黙して歩いただろうか、Sは立ち止まって天下茶屋の方を降り向き、標柱を闇にすかし見る素振りを示しながら言った。
「あの標柱がね、この辺にあったとしたら……、もしあんなに早く現われなかったら、私は泊まっていこうってきっと言ったわ。そしたらキッチンどうするつもりだった?」
「もちろん泊まったさ……、いやわかんない」
 私はあいまいな言い方をした。
「私は危険な女ね」
「いや僕が弱虫なんだ」
 白い標柱は遠くうすぼんやりと闇の中に突っ立っていた。運命の神に静かに手繰られてゆく糸の末端を、なすこともなくただじっと見送る人のように、刻々遠ざかる糸を私達もただ突っ立って見ていた。
 勇気とはその糸の末端を掴むことか、見送ることか。愚かな私には今もってわからない。運命の岐路に立った人間は賭けをしているみたいなものだ。その判断は計算ではない。
「エエイ、やっつけろ!」そういう男に私はなりたいと思った。
 しかしSは違ったことを言う。
「キッチンはいざとなると強いね、難攻不落かな。私はやっぱり女だわ、駄目ね。林芙美子さんじゃないけれど『やっぱり私はただの女でございました』か!」
 先日築地で見た放浪記の台詞(せりふ)だった。
「S、男って奴は賭けができないようでは駄目だね。理論だけじゃ何も実行できやしない」
「キッチンの場合、おおいに必要だね。だけど賭けよりもっと必要なものがあると思うよ」
「姉さん、それ何だい? 言ってくれよ」
「言ってくれって言わないでも、言おうと思ってた。さっき言いかけたことも同じこと。……その辺で休んで話そうか」


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Posted by 松田まゆみ at 15:10│Comments(0)青春挽歌
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