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山の挽歌-松田白作品集- › 青春挽歌 › 大垂水峠越え(3)

2009年02月05日

大垂水峠越え(3)

 私達は道の左側の斜面を二十メートルほども登った枯れ芒(すすき)の中に腰を下ろした。目の下に素晴らしい風景が展開していた。
「奇麗だわ」
 Sが嘆声を上げる。
 足元に白くうねる街道から向こうは、次第に闇の黒さを増す桂川の谷である。それは底知れぬ海のように深い。この細長い入江は丹沢と道志の山襞(やまひだ)に深く食い込み、ちょうどあのスカンジナビア半島に多いという峡湾(フィヨルド)の夜の風景を想像させる。丹沢も道志の山も青黒く聳え立って、昼間より高く険しく見える。何よりも美しいのは、山裾や段丘のあちらこちらにかたまりあって灯る村落の燈火だった。その灯はフィヨルドの岸近くに漁(すなど)る漁船の漁火(いさりび)に似て、スウェーデンかノルウェーにいる錯覚をおこさせた。空には秋の星が一面にきらめいていた。
「S、僕はビョルソンの小説の中にいるような気がする。森、流氷、フィヨルド。またロマンチストって言われるかな?」
「そうね、私はグリークを思い出していた。イ短調のコンツェルト、それともハ短調かな?」
「北欧へ行きたいな、姉さんと」
 Sと私は枯草の中に寝ころんで空を見た。地上の景色には耐えられないノスタルジーがあったのだ。
 空にはオリオンが大きく立ちはだかっていた。天頂のペガサスの四辺形、泣き濡れる七人の姉妹星プレアデス、カシオペア、セフェウスの星々。山の峰近く、眉よりも細い月が昇っていた。北原白秋の歌った金無垢の月である。
 星こそギリシャ人の叡智のまたたきである。私は星を見るのが好きだ。純潔と狩猟の女神アルテーメス、美と裁縫の女神アフロディティ(金星)、ジュピター、神の使者ヘルメス(水星)、イルカと戯れるキューピット。人の世の縮図が美しく描かれている天。
「姉さん、カシオペアは一年に一度、逆さにならなければならないんだってね。王女のアンドロメダはまだ両手を鎖で縛られてるんだね。ペルセウスは飛行靴を履いて颯爽(さっそう)と飛んでるね。あっ、オリオンの腰の剣があんなにきらきら光ってる。あっ、星が飛んでる、あすこだ『ヨブの柩』の横のところだ。
 私のお喋りをSは黙って聴いているようだった。いい気になって、私は読んだばかりのギリシャ神話のヘラクレスの話など喋っていた。
 気がつくとSはいつの間にか起き上がっていた。向こう向きのSの肩のあたりが小さく波打っていて、何だか様子が変だった。私は「どうかした?」と聞いた。Sは答えなかったが、その代わりかすかなすすり泣きのようなものがかなりはっきり耳についた。Sは泣いていたのだ。
 私は驚いて「お腹でも痛いの?」と聞いた。Sはかぶりを振って否定すると、「何でもないの、少し放っといて」と今度ははっきりとこみあげながら言ったが、それとともに泣き声は大きくなった。
 私は何がなんだかわからなかった。どうすることもできないままに、例のフィヨルドをぼんやり眺めているほかに仕方なかった。
 Sが泣いている。男のような女が泣いている。今まで知らなかった女としてのSが、私の前に泣いているのを私はなす術もなくただ眺めていた。

  此処過ぎて 愁(うれい)の市へ
  此処過ぎて 永遠の傷みへ
  人は行く

 この無意味な空間に何の意味もなく、そんな文句が思いだされた。

 やがてすすり泣きは次第に収まってきたが、Sの肩は夜目にもそれとわかるほど小刻みに震えていた。私は急にその肩がいとおしくなって、そっとその円い肩に手を置いた。
「姉さん、どうした。何か僕が気にさわることでも言ったの?」
 同時に急にSの肩が動いて、私の胸に柔らかい重みが加わった。髪の匂いがあたりにゆらめき、生温かい涙が私の指を濡らした。私はおそるおそるSの肩を抱いた。柔軟な皮膚のかつて感じたこともない感触が私の腕を伝って、大きな波の高まりにも似たものが私の胸を領有し、みるみるうちに真黒な翼を広げていった。
 私は抵抗した。なぜかしらず、私はその黒い翼に対し必死に抵抗した。
 私の腕の中には女(おんな)がいた。
 もうじきお嫁にゆく女(ひと)がいた。
 幸福がこの女(ひと)を待っている。この人は幸福にならなければいけない人だ。きっとならなければいけない。リオグランデの裏街で異郷の人の子として生まれ、母の顔も見ぬうちに異郷の日本に連れてこられ、見知らぬ日本の母に育てられ、十六才の時に血のつながるたった一人の父に死別した女(ひと)よ、「姉さん、あなたはきっと幸福になれるでしょう、きっと幸福になってください」と、私はそんな意味のことを言葉には出さずに胸の中でもぐもぐと夢中で口走っていた。
 そのうちようやく私は言うべき言葉を口に出せるようになった。Sの二の腕をしっかり掴んで、「姉さん、姉さんはきっと幸福になれるよ」と言ってはみたものの、私の声もわれながらどうしようもないほど震えて言葉をなさなかった。不思議にも、自分の頬に自分の涙が伝わって流れるのを、他人(ひと)の涙がわが頬を伝うように思われた。
 すすりあげながらSは顔を上げた。エーンエーンと星明りに駄々っ子の泣くような手放しの顔だった。私はポケットから急いでハンカチを引っ張り出して、彼女の顔にかけた。涙を拭ったSの顔が私の胸の中で無理に片えくぼをつくった。星明りにまだ涙がまつげにちらつき、夜開くという月下香の花のように匂った。子供のようにあどけないくせに、かつてみたことのないSの美しさを私は見た。
「恥ずかしいわ私、泣いたりして……。ごめんね」
「どうしたの、僕どうしようかと思ったよ」
 Sはぺろっと長い舌を出して微笑んだ。
「歩こうか」
 私はリュックを背負って立ち上がった。Sは座ったまま私にさっきのハンカチを差し出した。
「姉さんにそのハンカチ、記念にあげる」と言うと、私は彼女の両手を取って引き起こした。Sの手は氷のように冷たかった。
 街道には風が吹いていた。枯葉がカラカラと私達を追って飛び過ぎる。
 私はSの手を離さなかった。私の掌の中にあるそれは、芋虫のように柔らかくて冷たかった。初めて私の掌の中にこうしてじっと暖められているこの手は、もう二時間もしないうちに永遠に別れてゆく手だった。



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Posted by 松田まゆみ at 10:51│Comments(0)青春挽歌
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