さぽろぐ

日記・一般  |その他北海道

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2009年02月07日

 今日も深いコバルトの空である。その空の下に、狐色の草原が広がっている。私はこの高原のこの場所での、春夏秋冬の晴れた空を知っている。しかし、この晩秋の空ほど透徹(とうてつ)した静けさはないだろう。そしてまったく寂しい。冬の青空は地上の雪のせいか、輝かしくむしろ明朗である。春は静かだったが、その浅黄は何やら模糊として楽しく、はた悲しい。
 夏は烈しい光に満ちた碧色である。青空の静けさは、どうやら光線の量によるらしい。そして寂しさは、空気中の水蒸気の量によって左右される。もちろん周囲の風物、人間によるファクターは除いてある。だから静と寂の条件は晩秋において最高になるはずである。これだけの自然的条件から胸に迫る静寂を感じとらねばならぬ人間を、私は哀れに思う。

 小高い丘の高みから、Sが振り返って私を見る。腰から上が、コバルトの背景からくっきりと浮かびあがっている。左肩を上げていくぶん淋しげに微笑む。こんな時のSには病的な影がない。私はゆっくりと近づいて肩を掴み、くるりと反対を向かせる。
 目の前には東俣の沢を隔てて、八島の湿原が広がっている。周囲の蝶々深山(ちょうちょうみやま)、笹峰、鷲ヶ峰の起伏が、優しい曲線を交錯させ、遠くに美ヶ原の台地状の連嶺が島のように浮かんでいる。雲はひとつもない。ここは県営小屋の後ろの丘の上である。東俣の向かいの山腹に五、六人の人がいて、傍らに牛と荷車が置いてあり、人々は草を刈っている。時々大鎌の刃がきらっと光る。
「八島へ行く?」
「うん」
 何の音も聞こえない。芒(すすき)はもうとっくにほほけている。葉の赤く霜枯れたりんどうが紺碧の花をつけている。雪のくる寸前までこの高原に咲いている花といえば、このりんどうと野紺菊くらいのものである。沢渡(さわたり)から、この狐色の草原の中を斜めにひと筋の道が下っていく。Sは私の右に肩を並べる。

 私は以前にY夫人と歩いた奥武蔵の中の丘陵地帯を思い出した。小さな峠と秋草の縫う小路、日暮近い街道。どんな話をしながら歩いたのか今は思い出せない。いろいろな話をしたことは確かだし、私が冗談ばかり言っていたのも記憶している。
 Y夫人と歩いたのはまったく偶然の機会からだった。その昼、私は苅場坂峠から丸山に向かう途中の草原で昼寝をしていた。何やら胸元にカサリと音がして、私は目を覚ました。午後三時の日差しの中に、私はすらりと立っている女の人を見た。私の胸には「たぶんあなたのでしょう」と書かれた美しい走り書きと万年筆が一本載せてあった。
「あら、起こしてしまって悪かったわ」
「いえ、いいんですよ。起こして戴かなかったら、僕は日が暮れるまで寝ていたかもしれない」
 私は午後の傾いた陽を仰いで慌てた。万年筆は私のものではなかった。しかし、夫人が私のと思ったのは無理もない。こんな晩秋、この辺に来るハイカーなどほとんどいないのだから。あれは十一月半ばを過ぎていた。そして私達は一緒に山を下り、もう一ヶ月も前から運転休止となったという吾野街道を、ぶらぶらと話しながら歩いた。黄色い高原がやがて夕焼けに真赤に映え、吾野渓谷沿いのとある旅籠(はたご)に足を止めるまで……。

 今、私はなぜあの時のことを思い出したのだろうか。晩秋と狐色の高原とY夫人。
 その後Y夫人とはもう一度山旅に出た。その時初めて私はY夫人の苦悩を知った。人間は孤独だと言う。大勢の人の中に在るとき、夫人は常に孤独であったらしい。一人で山を歩いている時が最も心安らぐ時だったようだ。
 二度目の山旅に私達は十文字峠を越えて梓山に出たが、秩父の森林から荒涼とした信濃の高原に出た時、夫人はあなたといる時が一番孤独でないと言った。それから川上まで道々、私達は孤独について話した。私は孤独を求めて山に行くのだというようなことを言ったと思う。夫人はそれに対して、孤独であることは苦痛だと言い、また今度のように孤独でないことは恐ろしいとも言った。結局、私は一人でいるのが一番ふさわしいのだと言ったことを覚えている。
 新緑が黄昏の中に沈んでゆき、低い空に一番星が輝きはじめ、私の軽口もさっぱり出なくなった。適当に孤独であるという状態が最良なのだという結論が、若い私には最後まで納得できないまま、翌日の朝まだき、夫人の知己だという家の梨畑で別れの握手を交わした。それ以来、夫人には会っていない。どうしておられるだろうか。そして十文字峠も川上も、再び通っていない。

 Sの手にはいつの間にか二、三本のりんどうが摘まれていた。私達は沢を越え、湿原の左側を行く路に入る。御射山(みさやま)神社を過ぎると、私の大好きな路となる。楢と白樺の疎らな林で、ここばかりは残りの紅葉がちらちらと飛び散っている。二人の落葉を踏む音がする。それだけしか聞こえぬ。落ちきれないでいる柏の赤い葉が低い枝にかじかんでいて、空は底知れぬ青だ。湿原は静まりかえっている。静かだ。静寂が胸を圧迫して息苦しくなる。ふっと大きな息を吐く。

  あなたは何を考えている
  あなたは何をしている
    私は何も考えていない
    何もしてはいない
    冷たい空気を吸って
    晩秋の真っただ中に生きているだけ
  それでいいのですか
  あなたはそれで満足ですか
    私にはよくわからない
    私はただこうしていたいだけだ
    これが私の生の全部であってもかまわない

 Sが私の眼を見て微笑む。私達は白樺の根元に腰を下ろす。湿原の水が午後三時の陽に光っている。大笹峰の向こう側の黄金色に染まった唐松の林が、その細い梢を揃えて末端は青空に溶け込んでいる。

 これが私の生の幸福というものなら、やはり私は幸福が恐ろしい。恐ろしいと思う以上、私はまだ生きていたい。
 足元に末枯れた、やまははこの白い花が咲き残っている。Sはその花を撫でる。感触がこころよいという。細い指の間から白い乾いた花が見え隠れする。斜めの陽が手に光っている。手首のうぶ毛が光る。短い時間がどんどん過ぎてゆく。
 私は大きな淵を意識する。自分の意志がその淵に向かって進んでゆくのを、阻止できないと感じる。意志は悲劇かもしれない、いや喜劇かもしれないと思う。自分は自ら進んで淵に向かってゆく。
 池塘にかすかな漣(さざなみ)が立ち、きらきらと美しく光っている。私はSの手をとって立ち上がる。私達はこの高層湿原にまだ一時間の彷徨(ほうこう)の時間を持っている。私はこれからもいろいろな冗談を言おうと思う。
 遠くで音がする。刈り取った草を山のように車に積んで帰る、草刈りの人達を思い出す。あの車のきしみに違いない。ゆるい高原の曲線上を、その車がゆうゆうと動いてゆく情景がふと目に浮かぶ。そんな画面はいつか映画でも見た。確か白系露人の生活を描いた映画のひと駒だ。


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Posted by 松田まゆみ at 15:47│Comments(0)
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