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山の挽歌-松田白作品集- › 秋の音 › 秋の音(1)

2009年02月16日

秋の音(1)

 ここに来て、妙に思い出したのは、蓼科温泉の白や青ペンキで塗られた簡易食堂やベンチや土産物屋の立て看板である。そしてそのあたりを落葉を舞い上げて吹き抜けている風であった。すっかり黄葉した白樺やその幹の白さに比べて、ところどころ剥げたペンキ塗りのそれらがばかに生々しく感じられたためかもしれない。人影のないベンチや立て看板が、アロハが色めきマンボが流れる夏の蓼科の殷賑(いんしん)から取り残されて、たとえば残菜のわびしさに似て、何やら一層やりきれない季節を感じさせるのは事実である。
 蓼科はともかくも秋が深かった。そしてようやく私はその秋色が、この二子池に来て蓼科を思い出す原因になったことに気がついた。
 それは、この池の南岸の斜面に散り残る唐松林の狐色である。病みついた猫の毛のように、それは櫛でひと掻きしたらいっぺんに落ちてしまいそうに見えたのだ。大河原から亀甲池を通ってここに来る間、目に映るものは皆もう冬の色だったので、その暖かそうな秋の色がひときわなつかしく目に映ったからなのだろう。
 今朝は思いのほか霧が深かった。ことに親湯奥の水楢の疎林を歩いている頃は、何か映画の中を歩いているような気持ちだった。大河原へ登る暗い苔の匂いのする道では、栂(つが)や唐檜(とうひ)の大樹の中に立ち込める霧がわずかに濃淡を保って移動し、私の好きな北八ッらしいフィロソフィックな雰囲気を醸し出していたが、今この池畔には頭上にぽっかり青空が顔を出し、まぶしい陽光が凍えた枯草を静かに暖めていた。
 もともと晴天を期待した山旅ではなかった。近ごろようやく子供から手の離せるようになった妻の英子にせがまれて急に出かけてきたのだが、去る六月中旬、一人ぶらりと訪れたここが忘れ難かったせいもある。その英子は同行のK子とさっきから湿った枯れ枝に火をつけるのにやっきになっている。湿原で足を濡らした彼女には、寒さがよほどこたえたのだろう。
 十一月ももう数日に迫っている今日、まだ初雪がないというのは不思議なほどだった。池面は碧く静もりかえり、ときたま吹き渡る風に幾千幾万ともしれぬ小波が、背びれを返す小魚のようにぴらぴらと白光を躍らせている。春来た時もそうだったが、今日も人っこ一人見当たらない。小屋も戸閉めになっている。対岸の横岳に続く原生林で、突然ポキリと朽木の折れる音だろう、驚くほど大きく響く。それを合図のように私の足元からパチパチと音をたててオレンジ色の炎が立ち上がった。
「モノトーン……か!」
 ふと私は抑揚のない連続的なある音を思い出していた。私のこのつぶやきを英子は勘違いしたらしい。火の燃えついた嬉しさで、自然と気持ちもはしゃいでいたのだ。
「モノトーン? ……あ、あれか。秋たけてヴィオロンの嘆息の……。上田敏訳」
「馬鹿、ヴェルレーヌじゃないよ……例の淋しい音のことさ」
「なあんだ、あれか……」
「あれさ。あの音K子さんはどう思った?」
「そうね、少し気味悪かったわ。何だか引き込まれそうで。でも印象的だったわ、アトラスのうめきみたい」
 それは大河原へ登る途中、地の中から聞こえてきた音だった。はじめ水を飲むといって沢に降りていった英子がそれを聞いた。沢はあいにく涸沢で水は飲めなかったが、英子の声で私達もそこへ降りていってみた。
 音は沢底の堆石の下から聞こえてくるようだった。遠くで森のさわぐような、沢山の飢えた動物の哀しい咆哮を聞くようなその音を、私達は岩に耳を押しつけて聞いた。
「この音だわ、きっと」と、やがて英子が言い出した。
「たしか芥川龍之介の文だったわ。女学校の教科書で、もうほとんど忘れちゃったけど、アルプスの這松の下で何やら音がしていた、とても淋しい音だったっていうの……」
 それはたぶん伏流の音だ、と私は思った。
 私は積み重なったモレインの底の岩床を想像した。そこには地上にあると同じような流れがあるに違いない。小さな滝や滑(なめ)や釜もあるだろう。ほとんど光の届かない暗闇の流れで、その音が岩石の隙間を通り抜ける時反射し、干渉し、あるいは合成し、消去されてこの複雑で単調な音をつくるのだ。いわば堆石は長大なる音響箱だと思った。
 私は伏流の音だということをわざと説明しなかった。しかし私がそれを伏流の音だと断定するには理由があった。渋温泉から高見石へ登るガレ沢で、何回も伏流の音を聞いたのである。ただしあそこの音はもっと大きく、ある所では飛行機の大編隊の音を聞くようだし、ある部分では急流の瀬音のようにきらびやかだった。「だけど僕は少年時代、これと同じような音を聞いたことがある」と、私は不確かな記憶の中にその思い出をまさぐった。
 あれは上野不忍池の弁天様の裏手だった。現在はその当時の面影もないだろうが、その頃あのあたりは草ぼうぼうの池畔で、滅多に人が行かない所だった。そこに石で刻んだ小さな祠のようなものがあって、その石に耳をつけるとウワーンという高低のない連続音が聞こえた。友達とトンボ釣りに行くと、気味悪がりながらも必ずその音を聞いて帰ったものだった。それは都会のざわめきをずっと遠くで聞いているように思われた。

「どうしてそんな音がするのかしらね」とK子。
「わからない。何の音か人に聞いてみようともしなかったから……」
 英子はしかし違うことを考えていた。
「私は霧の音の方が淋しいな……何かぶつぶつつぶやきながら森の中を歩き回ったり、風に追われて悲鳴をあげながら枯草の上を飛んでったり……霧にはそれが自分の音なんだか風の音なんだかわからないでしょう。だから淋しいのよ」
「霧に音なんてあるのかな?」
「あるわよ。もっともあんたのような馬並みの神経じゃ聞こえないかもしれないけどね」
「何言ってやがる。おまえなんか雲散霧消しちまえよ、K子さんと二人になれる」
「ほほほ、お邪魔で悪かったわね」
 足元でオレンジ色の炎がパチパチとかすかな音を伴って燃え、たった一本見つけた、おそらく今年最後のものだろう唐松茸がよい匂いをたてて焼けていた。


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 秋の音(2) (2009-02-17 14:32)

Posted by 松田まゆみ at 09:53│Comments(0)秋の音
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