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山の挽歌-松田白作品集- › ザースフェー › ザースフェー(1)

2009年02月25日

ザースフェー(1)

 ミシャベルチェインのアルフーベルとアラリンホルンを結ぶ主稜上のフェーコッフから、長々と延びるレングフルー。その氷壁沿いのフェー氷河を雨雲と一緒に下ってきた私達だったが、この尾根の末端に懸かるロープウェイの終着駅に着いて、ほっとした。ひと休みしたいレストランは満員。乗る気もしない駅の軒下で、ぼけっとしているうちにどうやら雨は小止みとなり、落日さえ漏れてきた。
 ここから下は「氷河アルプ」と名のつく展望尾根。景物のマーモットを探しながら、私達は口笛気分で下っていった。
 尾根に疎らな唐松が現れはじめた頃、私は行く手の狭く急な谷を埋める氷塔群を見て、思わず足を止めた。こんな低いところに? だが、それだけではなかった。それは今まで見慣れた乱杭歯のような日向のセラックと違って、何やら群像のようにも見えたし、何よりもそのグレッチャーブラウが濃く、美しかったからだ。「雪女!」しかし、本来が一人だけで出現するはずの雪女の群像なんて、お話しにもならない。歩き出しながら、どうも気になった。あの谷はもうすぐ終わりになるだろう。私は薄暗い氷蝕谷の底で、やがて命を終えるだろう彼女らの末路を見届けてみたい誘惑にかられたのである。ついに、その場所が近いと思われた道端で「少し休んでいこうよ」と英子をさそうと、雑草の中に踏み込んだ。
 そこは、氷河が押し出したモレインの、何の変哲もない明るいテラスだった。アルプに落ちる谷はどこでもそうであることを、私は迂闊にも忘れていたのである。日本の陰うつな谷の潜在意識が、こんな寄り道をさせてしまったのだった。鋼鉄の岩壁に挟まれて、谷奥に続く群像は身動(みじろ)ぎもせず私達を見下ろしていたが、そこにはもはや雪女の陰影の何ものもなかった。
 彼女らは、水色の衣裳を纏(まと)った少女達だった。彼女らはそこで、静かに変身の時を待っているのである。彼女らは知っているのだ。自分の乗った滑り台が、もうじき温かいアルプに自分達を下ろしてくれることを。もう何十年も何百年もの間、彼女達はこの滑り台に乗っていたのだから。そして、あの高みからここまで下りてきたのだから。アルプの温かい日差しが優しく彼女らを包み、少しずつ少しずつ滴(しずく)に変えてくれるだろう。
 じっと耳をすませば、その瞬間の彼女達の喜びのかすかな叫びが聞こえるのだ。間断もなく、その小さな叫びが聞こえている。そして、彼女らは互いに手をつなぎ、ステップを踏んで歓声を上げながらモレインの中に身を隠すのである。
 私達は、まるで人工の堤のように堆石した砂礫の高みに腰を下ろした。さすがに疲れていた。ふと目をやった足元に、サボテンに似た赤紫の花が咲いていた。マウンテンハウスリークだ。ちょっと薄気味悪い感じだが、気がつくとそこみもここにも、やたらに群生している。
「何だここは、ハウスリークの縄張りじゃないか」
 私はびっくりして言った。
「今ごろ気がついたの」
 英子が笑いながら言う。
「そうよ、ハウスリークだらけ。イソギンチャクみたい」
 なるほど、と私はその適切な表現にひどく感心した。実のところ、私はあの少女達、否、雪女達の化身を連想したかったのだが……。
 薄日が差していた。私はザックを枕に、仰向けにひっくり返った。


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 ザースフェー(2) (2009-02-26 14:57)

Posted by 松田まゆみ at 13:09│Comments(0)ザースフェー
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