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2009年03月03日

谷川岳に登る(2)

 暖かい。尾根ひとつ背にすれば冬と夏とまでいかなくても、早春と晩秋くらいの気温の差がある。僕のすぐ前の粗面アプライトの岩盤上に、一匹の爬虫類が日なたぼっこしている。その灰色の背はほとんど動かないが、柔らかそうな腹と咽喉は呼吸するたびに静かに広がったり縮んだりする。トカゲといえば不気味なものだが、よく見ると何とも美しい目をしているではないか。その黒曜石よりも濃い生き生きとした眼球は、僕が生まれて以来、人間の目には見つけられなかった美しさだ。僕は一日中この小動物と遊んでいたい気がした。が、彼女の姿をカメラに収めるや、まだ動かないでいるその愛らしい背に石塊を投げつける。人間の心理状態なんておかしなものである。トカゲは叫び声もたてずに熊笹の茂みに石とともに落下し、僕の手には弾力ある手応えが残ってしばらく消滅しなかった。
 さて、霧は晴れた。ここで「いいなあ」という賛嘆詞の十数回目を口に出す。事実、万太郎谷の緑の傾斜、オジカ沢の頭に続く鋼鉄のような尾根、粗面アプライトの岩肌を露出した沖の耳の尖峰、それに続く一ノ倉、茂倉の尾根は幾回見てもあきない。確かに、東京近辺における最もアルプス的な景観である。這松と石楠花とすでに紅葉したどうだんの密生した尾根を、沖の耳に行く。最高点から少し下った這松の中の小さな祠は浅間神社の奥の院であるが、気のつく人はほとんどいないらしく、ちょこなんと淋しげである。僕はここへ来るとこの忘れられた祠に同情が湧き、そのトタンの屋根を二、三度撫でまわすことにしている。
 霧の晴れ間にマチガ沢を登ってくる岩登りのパーティーが、トマの耳直下の岩棚で休んでいるのが見える。一ノ倉の谷は霧がもうもうと立ち込めて何も見えない。晴れてさえいれば、万年雪が見えて喜ぶことができるんだがと思う。遠く湯桧曽川の瀬音が聞こえるのには驚いた。霧の中にじっと立ちつくしていると、何か現実とかけ離れた気持ちになる。このおそろしく不透明な精神状態を静かに揺り動かして、数人の男声合唱が鼓膜をふるわせる。岩登りの途中らしい。歌声は高く低く断続して、峰々に響き合う。周囲の山々のたたずまいが立体的な美であるとすれば、この歌声は第四次元的な美といえる。僕は歌声がいつまでも絶えないようにと願っていたが、期待は五分と続かなかった。
 トマの耳に帰り、スケッチブック二枚のデッサンを描きなぐる。生来、絵は下手である。だが絵を描くのではなく形を描くのだと思えばべつに腹も立たないし、またこうやってスケッチブックを開いているだけでなかなかいい気持ちである。
 正面に見える爼嵒(まないたぐら)の岩壁は、凄惨なまでに切り立っている。湯桧曽川を隔て、蹲(うずくま)るのは武尊(ほたか)である。こちらよりは標高が高いのに低く見えるその後ろに、褐色の岩肌を見せているのは至仏である。あの向こうに尾瀬の夢のような湿原が横たわっていると思えば、このまままっすぐ飛んでいきたい思いである。至仏の東麓、絵葉書で見るチロルの山小屋風景そっくりな山の鼻小屋の印象は、今もまざまざと飛びゆきたい感情を刺激してやまない。
 午後一時、やっと重い腰を持ち上げて帰途につく。薬師平で記念撮影をしているうちに、岩登りのパーティーに追い越される。これでどうやら僕らが谷川の頂上を去る今日最後の組らしい。一人大声で歌いながら、天神様の長い尾根を下る。右手の爼嵒(まないたぐら)が午後の陽に照りかえるのを眺めつつ、透明な空気の中をひた下りつつ振り返れば、薬師岳はそれにしたがってぐいぐいと天空に盛り上がってゆく。薬師平の側面が西黒沢に向かい急激に落下するところ、ホーンフィルスの黒ぐろとした鉄盤にきわだって白く一条の滝を垂下させている。このあたりから天神峠にかけては最もその雄偉な姿を見る人の目にやきつけさせる。田尻沢からの新道に出合えば、天神峠は目と鼻の間である。峠でイヌに会った。このポインター種の牝犬は、キャラメルを紙ぐるみ食ってすましている変わりものである。
 これから谷川までの憂鬱な急降路を考えると、ここへ一晩泊まりたくなる。小憩の後、すでに頭を雲に隠した耳二つに別れのウィンクを送って、犬を先導に下る。Iさんは下りならば自信ありげである。Tさんは膝が笑ってしょうがないと、おかしな形容詞を用いる。僕は登りは好きだが、下りは大嫌いである。膝の奴は笑うどころではなく、くしゃみをしている。それでもフニクリフニクラを歌いながらよちよちと下る。ここに最もくやしきはかのワン公である。いとむくつけき腰をふりふり急速に駆け下り、僕らの追いつくのを途中で待っている。彼女の眼色はまさしく人間様を愚弄(ぐろう)している。待っては下り待っては下り、とうとう彼女は待ちくたびれたとみえ途中からもう待ってくれなくなった。
 このいやな下りもかすかな沢水の音が聞こえはじめるともう先も短い。沢辺で草鞋を脱ぎ足を洗って靴に履きかえ、同時にエネルギーを補給する。先ほどまで花崗斑岩であった岩質は、ここから第三紀層の凝灰岩、頁岩(けつがん)に変わる。すっかり腰を落ちつけたIさんを時間がなくなるとおどかして出発する。事実、時間はあまりなかった。しばらくケルンに導かれて道のない沢下りをすれば、いつの間にか良い道となり歩行も快適にはかどる。山間はすでに暮色を漂わせ、水楢、栂、檜の緑の影も濃い。木の間に夕映えの空を見つつ、女郎花、吾亦紅(われもこう)、あきからまつ草の咲く小道を下る気分は、一日の山旅のエピローグにふさわしい。
 谷川のスキー場を過ぎれば周囲は里の匂いが濃く、午後六時の黄昏の中に谷川の湯宿を左手に見送り、水上への蜿々(えんえん)たるドライブウェーに出る。山峡の落日は早い。振り返る国境山脈の山頂がわずかに薄桃色に映えたと思う間に、あたりは青磁色の世界に沈潜する。見よ、行く手に高く星光の二つ三つ。
 こころよく疲れたワンダラーは、黙々と駅への道を急ぐ。


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Posted by 松田まゆみ at 13:48│Comments(0)谷川岳に登る
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