さぽろぐ

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山の挽歌-松田白作品集-

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2009年01月11日

第五日

 朝から小雪が降っていた。
 ヨーシの先生は、ゲレンデのてっぺんで待ちかまえていた。朝っぱらから張り切っているらしい。今日はどうしても全制動回転を覚え込ませるつもりのようだ。私達の姿を見ると、「おーい遅いぞ、早く来い」と怒鳴った。やれやれだ。あの調子では、また今日も一日中猿回しの猿ということになる。
 まず初っぱなから講義が始まった。要旨はこうである。
 山スキーでは絶対に転んではならない。安全確実な回転法で回ること。スピードを出してはいけない。スピードを出さないためには制動をかけてはならない。斜滑降の角度を水平に近くとればいい。重い荷物を背負って制動滑降などしたらすぐ疲れてしまうし、加速度がつくから制動し切れるものではない(これは現在のようなエッジがついていないスキーの場合の話しである。現在とはスキー、用具ともに大きな差異があった)。狭い急な道で斜滑降ができない場合、やむを得なければ股制動をする。そのためには長い太い杖を使う。ざっとこんなものだった。
「今日は全制動回転、半制動回転と股制動を教える。最後に急停止のためのクリスチャニアもちょっと練習する」とご託宣が終わると、ハードトレーニングが始まった。先生の口の悪さは地金を現わしはじめた。たとえばこんなものである。
「おい、もっと膝を内側にして。まだまだ、おい、斬られ与三っ、おまえのつま先は内側に向けられないのかっ」
 もちろん斬られ与三郎はSのことである。
「おまえの膝はよく内側に曲がるな、いつも内股に歩きつけているのだろう。女形(おやま)みたいにな。おい女形っ、おまえが転ぶのは腰が後ろに引けるからだ。そこで体重を全部外足スキーに移すんだ。駄目だ、駄目だ。スキーの先端内側にもっと体重をかけなければ駄目だっ」
 といった調子で、Sと私は斬られ与三郎と女形というありがたくない仇名(あだな)を頂戴した。
 確かに効果はあった。昨日までほとんど回転ができなかった私達が、昨日の基礎訓練の下地がものをいったのかもしれないが、ゲレンデでは割にスムーズに回れるようになったから不思議である。
 その後、私は何回かスキーの先生といわれる人にスキーを教えてもらったが、この時のように、まるで魔法にかけられたように回転を覚え込まされたことはない。
 そして戦後近代スキーに移る前後までの期間、私の山スキーに対する根本理念は、この先生の主張で貫かれた。こと、ボーゲンに関する限りは現在でもちっとも変わらないし、自信も持っている。ついでだが、志賀のジャイアンツのような大きなこぶなら、ボーゲンOKである。
 午後は急斜面での回転の練習だった。ゲレンデが外山に接するあたりに、三十度以上の急斜面があった。誰も滑っていないそこを踏みならしての練習だったが、私達には目の回るようなその斜面を、曲がりなりにも曲がって降りられるようになったのは不思議中の不思議である。現にその後、ずいぶん長い間、三十五度の斜面をボーゲンで確実に降りることができなかったのだが、その時は回って降りることができたのである。もっともスキーが最大傾斜線に向いた時は、まるで急降下爆弾の飛行機に乗っているような気持ちで、先生に怒鳴られなければ到底やってみる気がしなかったはずである。催眠術の催眠状態にあったのかもしれない。
 クリスチャニアを教わる時間はほとんどなかったが、先生は明日のツアーのことが気にかかったのだろう。スピードが出すぎて困った場合、クリスチャニアでストップする要領をこんな表現で教えてくれた。もちろんこれは正しいクリスチャニアの方法ではなく、緊急の場合のストップ法としてである。
「とにかくスキーを二本揃えたまま谷底に向かって伸び上がり、次に沈み込むと同時に右でも左でもいい、足を揃えたままスキーを振り回して、斜面に直角にしてエッジを立て、山側に体を倒すのだ。たとえ転んでも起き上がりやすい格好で転ぶから安全だ」と言うのだ。
 ただし、先生はその練習はさせてくれなかった。あくまで緊急用で、とっさの場合その要領でやってみろということだった。
「明日は良い天気になるだろう。まあ、この調子なら二人だけで山王回りをやっても大丈夫、気をつけて行ってきな。あさってまたゲレンデで会おう」
 お許しが出たのである。私達はほんとうに心をこめて最敬礼をした。
「ありがとうございました」
 厳しかったが、その時になってしみじみ良い人だなあと思った。
 宿に帰ってオヤジさんに、「明日は山王回りのスキーツアーに行くから、弁当を頼みます」と言ったら、オヤジはびっくりした顔をした。
「大丈夫かね、その顔で」とSの顔を見た。
「実はゲレンデでスキーの名人に、昨日と今日スキーを教わり、山王回りのお許しが出たのだ」と、ヨーシの先生のことを話した。
「ほほう、あの名人に教わったのかね。そりゃあよかった。あの人は妙高の方の人で名人だよ」
 どうやらヨーシの先生は、湯元でも評判の人らしかった。
「では明日は弁当を作ってやろう。そうそう、今夜はちょうど栄養満点のおかずだよ」と言った。
 私はSとチラと顔を見合わせた。ピーンときたのである。「たぶんアレだ」私達の目はうなずき合った。予想通り夕食のおかずは例の豚汁だった。私達はまた爪の先で一本一本引き抜いた毛を、皿の縁に並べなければならなかった。
  

Posted by 松田まゆみ at 10:19Comments(0)ボン・スキー

2009年01月12日

第六日、初めてのスキーツアー(1)

 素晴らしく晴れ上がった空だった。パラパラと霧氷の落ちる林の中を、湯ノ湖を左手に見下ろして私達はスキーを滑らせた。エストビーミックスのシュタイグワックス(登降両用ワックス)が思いのほかよく効いて、用意してきた例の縄のシールのご厄介にならないですんだ。山王回りのスキーコースには、強い登りはない。夏、このコースを歩いたことのある私達は、行く手に何の不安も感じなかった。シュプールは私達のものだけだった。
「やっぱり、ツアーはいいなあ」とSは言う。確かにリフトのないゲレンデの、ただ歩いて登っては滑り、歩いて登っては滑りのエレベータースキーに比べれば、ツアーは天国を感じさせたのである。
 刈込湖に着いたのは十一時頃だったろうか。湖面は氷の上を雪に覆われ、柔らかい日差しを一面に跳ね返し、思ったより明るい風景が展開されていた。
「少し早いけど飯にしようか」
 ほとんど同時に言い出して、私達はスキーを脱いだ。雪の中に二本のストックを突っ立て、手皮にスキーのテールを差し込んで、スキーの裏面を太陽に向けた。私は雪に穴を掘り、Sが集めてきた枯れ枝の太い奴を底に敷き、その上に細い枝を盛り上げた。メタを二、三個枝の中に押し込んで火をつけると、アルコール性の匂いが立ち昇り、やがてパチパチと枝が燃え上がった。雪の山歩きで覚えた焚火の方法である。
 ザックを尻に敷き弁当を開く。弁当は新聞紙で三重にも四重にも包んであって、まだ生暖かかった。宿のオヤジの心遣いが嬉しかった。山歩きの経験者か、狩人か、樵(きこり)だったのだろうか。
 山王帽子から、オロクラ峠に続く稜線が目の前の青空を限っている。この辺は奥日光には珍しく樹林が疎だ。この山峡の平和な日溜まりに、ささやかな昼食が始められた。焚火の水色の煙が空に溶けてゆく。
「明日一日であさっては東京か・・・・・・雑煮が食いたくなったぜ」
 里心がついたSが言う。
「そういえば一日に食っただけだな、餅は。帰ったらしこたま食ってやろう。汁粉も食いたいな」
 私も雑煮が食いたくなって言った。
 風のないこの日溜りは小春日のように暖かだった。焚火は底の雪を溶かし、だんだん雪の中に沈んでいった。人気(ひとけ)の無いこの山峡の雪の林の中に、こんな静かな一刻が持てるなんて・・・・・・私達は黙ってツアーの楽しさを噛みしめた。
 今頃おふくろは何をしているのだろう。妹は晴着を着て、友達とカルタ会でもやっているかな、とふと東京のことが思い出された。やっぱり里心がついてきたのだろうか。
「そろそろ出発(でっぱつ)しようか」
 立ち上がったSが、大きなあくびをしながら言った。私もゆっくり立ち上がった。焚火の穴に雪を詰め込んで、さあ、出発だ。
 小さな峠を越すと明るい涸沼(かれぬま)、そこから山王峠へは苦もなく登り切った。立ち枯れた唐檜(とうひ)が散在する山王峠は、戦場ヶ原がひと目で見渡された。だだっ広い原にはところどころ針葉樹の黒い林が点在し、原をとりまく三ッ岳、太郎、大真名、小真名、男体、女峰のお馴染みのご面相がずらりと居並んでいる。足元の白い原のただ中に、小さくひとかたまり屋根を寄せ合っているのは光徳沼の牧舎だろう。ここからは私達にも組しやすく見えるゆるい斜面を、光徳沼めがけて降りるだけだ。牧場には冷たい牛乳が待っている。昨日習い覚えたはずの全制動回転にものをいわせよう。
 ところがそうはいかなかった。夏はトラックの通る道だったが、道の真中の雪は人とスキーによってかなり踏み固められていたので道は樋(とい)状となり、踏み固めた樋の底の雪は午後三時の冬日にもう凍りはじめて、スキーはその中をカラカラと音をたてて、かなりのスピードですっ飛んだ。スピードの抑制は斜滑降を水平近くにとれなんてヨーシの先生は言っていたが、道ではそのようなことはできない。
「えい、しょうがねえ、制動滑降だ」と、スキーを八の字に開きっ放しで、道の真中をカラカラとすっ飛んだ。曲がり角は外足荷重もクソもなく、道なりにスキーは自然に曲がってくれたが、加速度だけは情容赦なく加わってゆく。ジグザグの道で上を見ると、後発のSの姿が見える。奴さんも両足を突っ張って、必死にスピードを殺そうと頑張っているようだ。
 足も腰も疲れてきたが、このスピードでどうやって無事に全制動ストップをやるかが問題だ。これじゃ神経がもたない、どこかで転んで休もうかと雪の柔らかそうな所を物色しながら、曲がり角を道まかせに曲がった途端である。目の前の道の真中に、黒い人影がしゃがみこんでいるのが目に入った。
  

Posted by 松田まゆみ at 10:17Comments(0)ボン・スキー

2009年01月13日

第六日、初めてのスキーツアー(2)

 びっくりした。ぶつかっては大変と思った瞬間、私は無意識に縦のスキーを横に振り回していた。エッジを立てた、というより自然にエッジが立って、私は山側に体を倒していた。スキーはその人の直前で止まり、私は不思議にもスキーの上にちゃんと立っていた。アッと思った瞬間にクリスチャニアができたのである。もっとも、これが偶然にできたのだという証拠には、このシーズン中にはクリスチャニアのクの字もできなかったことでわかる。
 Sがすぐ後から来る。「これはいかん」と振り返った私の目に、カーブに差しかかろうとするSの姿が映った。私は大声をあげて叫んだ。
「止まれっ止まれっ!」
 しゃがんでいる人と私が道を塞いでいるのである。避けようとしたSは道の谷川の縁の方に寄ってうまくすり抜けたかと思ったが、次の瞬間には大声を残して横倒しに谷川の雪の中へ飛び込んでいた。
「大丈夫かあ」と怒鳴ったら、「大丈夫だあ」という声が雪の中から返ってきた。
 しゃがみ込んでいた人は若い男のスキーヤーだったが、捻挫して動けないでいたのだという。光徳沼に泊まっていてここへ一人でスキーに来たのだが、もうスキーヤーも来ないようだし、このままでは凍死してしまうし、這ってでも帰ろうと思っていたところだと言う。「わが人生も一巻の終わりか」と思っていたと言われては、もちろん放っておくわけにはいかなかった。
 相談の結果、私より体格のいいSが彼を背負って、降りられる所まで降りる。その間に私は光徳沼に急行して、人手を借りてくるということになった。私がこけつ、まろびつ光徳沼まで行き、人手を借りて彼らの所へ戻った時には、短い冬の陽はもう外輪山の辺縁に近づいていたが、テントの布地に乗せた彼を引きずって光徳沼に着いたときは、西空に残光を残すのみになっていた。
 すぐ帰ろうとする私達は、当然のことのように引き留められた。牛乳やら、あべ川やら出されてみると、ただでさえ腹の虫がグウグウいっている私達だ。たちまち牛乳二合とあべ川五枚を平らげた。その旨かったこと・・・・・・。がんがん燃えているストーブを囲んで、もうここからは真暗になったって迷うことはないから等と言われてみると、なかなか腰が上がらなくなった。中村屋のかりんとうを一袋もらって、ようやく牧場を出た時はすでに五時をまわっていた。
 月が出ていた。青白い月だった。星もちらちら輝き出していた。ところどころに林を点綴(てんてい)し、ほとんど平らのように思えるこの逆川沿いの道は、青白く輝く雪を置いて静まりかえっていた。身体も暖まり、満腹の私達はご機嫌この上もなかった。左手に広大な戦場ヶ原が広がり、右手は三ッ岳の斜面で、この方は暗く沈んでいる。こんな時、人間は自然に歌が出るものらしい。その頃流行していた古賀政男作曲の歌である。

  月影白き波の上
  ただ一人きく調べ告げよ千鳥
  姿いづこ彼の人・・・・・・

 誰もいないと気が楽だ。原いっぱいに響けとばかり大声で合唱した。歌がひとつすむとかりんとうをボリボリかじった。歌ってはかじり、かじっては歌った。浜辺の歌、シューベルトの「海辺にて」等、どういうものか海の歌が多かった。夜の雪原と海、それは単に形が似ているためばかりではないらしい。感情的にも反芻(はんすう)し合えるものだということを、私はその後幾回も経験した。そんな時、私は雑誌でみたことのある詩の一説を思い浮かべるのだ。

  海は一枚のハンカチーフで
  汽船は インクのしみだった

 この詩の海が雪の原で、汽船が山小屋だったとしても、ちっともおかしくはないのだ。まして雪原をとりまく外輪山や、中に浮かぶ内輪山は島影そのものなのだから・・・・・・。私は、山はもちろん海も好きだった。
 道が湯元へ向かうバス道に出会う頃、少々声が嗄(か)れ喉が痛くなってきた。考えてみれば当たり前だ。零下十五度の夜風に吹かれてかりんとうを食べながら大声で歌いつづけたのだから、丈夫な咽喉粘膜だって酷使に耐えかねるだろう。おかげで翌日丸一日は二人とも烏(からす)のような声しか出なかった。
 もう湯元までは一時間みれば十分だろう。
「夜道に日暮れはねえや」
「ゆっくり行こうや」
 私達は性懲りもなくまた歌を歌いながら、ゆっくり湯ノ湖沿いのバス道を歩いた。
 白銀の月と満天の星である。オリオン、カシオペア、ペガサス、アンドロメダの星雲も見えそうだ。都会の空でも簡単に見つけられるスバルなど、あまりに多い星の数の中に埋まってしまって、それと指摘し難いくらいだった。
 その時である。提灯の灯らしい五つ六つの明かりが、こちらに動いてくるのが見えた。一列に並んで三ッ岳の黒い森をバックに灯影を湖面に落として、それは確かにこちらに向かって歩いてくるようだ。
「何だ、あれは? 狐の嫁入りかな」
「狸の嫁入りだろう。今頃なんだってこんな所を歩いてくるのかなあ」
 のんきな私達は、これが私達の帰りの遅いのを心配して旅館から派遣された救助隊の人々だとは露思わなかった。次第に近づいて、私達の姿を認めたらしい人は足を止めた。まっさきに大きな声で怒鳴った人がいた」
「そこへ来るのは、与三と女形かあ」
「いけねえ、ヨーシの先生だっ」
 私達は愕然として悟った。次に稲妻となってきらめいたのは、頭からどやしつけられるだろうことだった。提灯が駆け寄ってくる。いけねえ、謝るに限ると思った途端、ヨーシの先生の声が爆発した。
「皆が心配しているというのに何だ、のんきに歌など歌ってやがって! まあよかった、よかった」
 私達は平身低頭謝った。旅館のオヤジの顔が見えた。顔見知りの運ちゃんも、宿の女中さんの顔まで見えた。
「申し訳ない」
 胸がジーンとなるほど、皆の気持ちが身にしみたのは、「それでも無事でよかったね」と皆に言われてからだった。
 実は捻挫した人を光徳沼まで連れていったりして遅くなったのだということを話したら、ヨーシの先生は、「光徳の奴ら、電話ででも知らせてくれればいいのに、気がきかねえ奴らだ」と、今度は牧場の連中に八つ当たりした。そして続けて、「後でうんととっちめてやろうと思っていたんだが、人助けをしたというなら話しは別だ。ああよかった。俺は心配したぜ。うん、弟子にはできすぎたお手柄だ。うん、そうでなきゃならねえ」
  

Posted by 松田まゆみ at 15:23Comments(0)ボン・スキー

2009年01月14日

第七日(1)

「お客さん、もう九時すぎたわよ」という声に起こされて目が覚めた。襖(ふすま)の所で宿の女中さんが笑っていた。
「昨日はくたびれたんでしょう。でもお味噌汁が冷えるわよ」と言う。
 昨日の一行の中に加わっていた女中さんだ。下ぶくれで色白の綿羊のように太った女の子で、昨日までほとんど口をきかなかったが、今日は大変なれなれしい。
「でもよかったわね。私、てっきりあなた達を雪の中から掘り出さなければならないと思っていたわ」と言う。
「ぴんぴんしてて悪かったね」と言ったら、「歌が聞こえてきた時、あなた方だと思った。生きてるなと思っちゃった。でもあの歌よかったわ。今晩教えて頂戴」ときた。
「エーエ、教えてあげますとも」

 ゲレンデに着いたら、いきなり二人の目の前で雪煙を上げてクリスチャニアで止まった人がいた。キザな奴だと思ったら、雪煙の中からヨーシの先生の顔が現れた。にこにこ笑っている。
「今日は、午前中用事があるから教えてやんねえ。自分らで勝手に滑れ」というご託宣だった。
「ただし、昼食は俺が奢ってやるから、昼になったら南間ホテルに来い。おまえ達の宿には連絡して昼食は断ってあるあるから、きっと来いよ」と言ったかと思ったら、もうスケート滑降で宿の方へ滑りだしていた。
 わざわざゲレンデに来て、私達を待っていてくれたらしい。後ろ姿に向かってSが言った。
「ご馳走になりまあす」
 明日はいよいよスキー場ともお別れなのだから、今日のうちに最後の仕上げをしなければと思って、登っては滑り、登っては滑りのエレベータースキーをやってみたが、昨日のツアーで変なスキーをしたせいか、二人ともさっぱりうまく滑れなかった。やっぱり先生にいてもらわないと駄目らしい。
「奢ってくれるといった昼食が気になってうまく滑れねえ」とSが言うので、私も同調した。
「そうだそうだ、飯を食った後なら落ち着いて滑れるだろう。こんなもんじゃないはずだ」
 すっかり自信をなくして、十二時きっかりに私らは南間ホテルの玄関をおそるおそる覗き込んだ。ヨーシの先生は、玄関横の待合室のソファにふんぞり返っていた。
 さすがに食事は豪華だった。一泊三食付一円也の食事とは比較にならなかった。食後、妹にもらった例のパイ缶を差し出したら、「学生がそんな心配するな。だが旨そうだな。開けよう」と言った。
 ビールを飲んでご満悦の先生は、制動回転についてひと言触れた。
「だいたいズダルスキーなんて奴が、制動なんて言葉を使いやがったから悪いんだ」と先生は言う。
「制動なんていえば、足を突っ張ってスキーを止めようとしながら回る技術だと思うだろう。ほんとうはそうではないのだ。外スキーの先端の内エッジに、体重をのしかけるとそれだけでスキーは目をつぶっていても曲がってしまう。その結果、スピードは制度がかけられるので、予め制動してスピードを落としてから回るわけではないんだ。だから全制動回転、いわゆるボーゲンはスピードが出ないように斜滑降を水平に近くとって滑れば、スピードなんざ出はしないよ」
「でも、昨日のように道を滑る時は困ってしまう」と言ったら、「アハハ、何も道通り滑らなくてもいいだろう、新雪の中を滑れよ、その方が気持ちがいい」
「なるほど」
「どうしても道を滑らなくてはならない時、たとえば木の密生している中の道を降る時、それにはそれの方法があるのだが、君達にはまだ無理だ。もっと練習してうまくなれば自然にわかることで、今教えてもどうしようもない。ただ、うまくなれば道を全制動でも楽に降りれるようになるが、君達のはまだ全制動になっていない。足を突っ張るから疲れる。体重を利用すればあまり疲れないし、間欠的に全制動をやればほとんど疲れない。一番いいのはクリスチャニアのように二本のスキーを揃えたまま、山側の斜面を横滑りしながら降りることで、そのうちに練習してみるといい」と言われた。
 この言葉はその後長く私の頭に引っかかって離れなかったが、その意味がはっきりわかり感覚的にも理解できたのは、確かカンダハー締め具を初めて使った数年後のある年であったと記憶している。
  

Posted by 松田まゆみ at 12:23Comments(0)ボン・スキー

2009年01月15日

第七日(2)

 近代スキーにボーゲンはもはや忘れかけた技術となっているが、樹木の密生した処女雪の四十度の急斜面を安定したフォームで降りるボーゲンの心地よさは、知る人ぞ知るである。三、四十メートル幅に伐り開かれたスキーコースのみを滑り回る最近のスキーヤーに、この気分はわからないはずである。
 ボーゲンは、忘れられた技術となりつつある。一九七〇年度の全日本スキー連盟指導書でも、シュテムボーゲンはクリスチャニアに入るきっかけの練習技術としてしか考えていないように見受けられる。バッジテストにもボーゲンは廃止されるだろう。
 日本のスキーはリフトが発達し、よちよち歩きしかできないようなスキー靴になり、踵(かかと)は靴ごとぴったりスキーに固定され、ただスピードの快味と、パラレルクリスチャニア、ウェーデルン、ムルメルといったスキーテクニックに集約されていくようだ。滑走は森を伐り開いたスキーコースに限定され、それ以外の樹林帯はほとんど省みられなくなった。そんなスキーももちろんまた楽しい。私も現在はそんなスキー場でスキーを楽しんでいる。しかし変化のなさに飽きることもある。
 最近ある若いスキーヤーに聞いたら、スキーの面白さは、その精一杯のスピードとそれに耐えられないで転倒に至るその寸前にあるのだと答えた。私はなるほどと感心した。彼は登山の好きな男である。確かにそんなところにもスキーの快味はあるのだろう。しかし、一面、私は現在のスキーヤーが気の毒になる時がある。せっかく恵まれた樹林の雪の斜面をもつ日本のスキー場だ。それは欧州アルプスやヒマラヤには求むべくもない。そんな自然の斜面が滑れないことはもったいないではないか。そこにも快味は存在しているのだ。
 重いリュックサックを背負い、樹林の密生した深雪の四十度の急斜面を安定したフォームで確実に降りていく・・・・・・あの心地よさは、山スキーの醍醐味なのだ。淘汰された芸術ともいえるあのテクニックも、立派にスキーの快味を持つ一分野だと思うのだ。そして、そうした場所を滑るだけというのなら、現在のスキー用具は昔のものよりよほど滑りよくできている。
 だから私はときたま長いリフトを乗り継いで、あるいはロープウェイを利用して一番高い所まで行き、降りはコースを外れて未知の尾根や谷の自然林の中に飛び込むことにしている。そこにはスキーのシュプールの代わりに動物の足跡だけのある新雪の斜面がある。樹木の密生した急斜面、雪を被った藪の落とし穴、クラストした尾根、凍った雪、腐った雪、時として腰までもぐる雪がある。断崖の行き止まり、渡れない川、雪崩(なだ)れそうな斜面もある。自然の創ったさまざまの変化が存在している。時に応じ、所に応じてクリスチャニアで、ボーゲンで、横滑りでその変化に対応する面白さを一人で楽しんで、にやにやするのだ。
 そんな時、オールドスキーヤーでしか知らないその味を、一度味わってみたい若者がいないかなあと思うのである。私は日本のスキーが一つの方向にだけ発展しているように思えるときすらあるのだが、それは自然に放置された斜面への私の郷愁でしかないのだろうか。

 話しが脱線してしまったが、元へ戻そう。
 食後のコーヒーを飲みながら名人は言った。
「俺は明日帰るが、おまえ達はまだやっていくのか」
「僕らも明日帰りますが、午前中もうひと滑りします」
「ヨーシ、それではちょうどいい。午前の練習なんか止めて俺とつき合え。小田代原を突っ切って、竜頭の滝を下って菖蒲花まで滑る。バスはそこから乗るのだ」
 一瞬、返事に詰まった。明日またしごかれるという気持ちと、小田代原のスキーツアーと、名人のスキーに追いついていくのは大変だという気持ちが入り交じったのだ。Sも同じ気持ちだったのだろう。
「先生のお荷物になりはしませんか?」と聞いた。
「そんなことはないさ、君達のペースに合わせる。心配するな。君達は山が好きらしい。俺も好きだが・・・・・・。ヨーシ、明日はスケート滑降を教えてやる。帰り途の小田代原はちょうどいいスケート滑降の練習場だ。明日は早起きしろ、六時半の出発だ」
 名人は例によって勝手に決めてしまった。仕方なしに私達は、「よろしくお願いします」と言ってしまったが、少々うんざりした反面、スケート滑降が教われると思う期待と、夏通った小田代原の美しさを思い出し、急に楽しくなった。
 ヨーシの先生のスケート滑降は、誰の目にも素晴らしかったのである。ゲレンデの半分までは右足で、後の半分は左足で滑ってみせたりしていた。おそらくゲレンデのてっぺんから片足で滑り降り、片足でストップすることもできるはずだった。現に、午後その想像を実現して見せてくれたのだ。
 てっぺんで「明日またよろしくお願いします」と挨拶を交わすや否や先生は片足で滑り出し、斜面の下でストップもせずそのまますーっと左に大きく回って木立の中に一本足のまま姿を消していった。私達は思わず溜息をもらした。
「いつかあんな風になりたいなあ」
 独り言のように言葉がついた。

 初めてのスキーの最後の晩だった。お膳の上にはお銚子が一本載っていた。宿のオヤジに、「中学生だからお酒は飲まないよ」と言ったら、「明日で松の内も明ける。縁起ものだから二人で半分ずつくらいいいさ、いや何お屠蘇だ」と言う。おちょこに注いで飲んでみたら本物のお酒だった。二杯ずつ飲んで止めておいたら、膳を下げにきた女中さんがとっくりを振った。
「まだ沢山残っているじゃないの」
「お酒飲めないからいいよ」
「そう、可愛いわね。私戴いちゃっていいかしら」
「いいさ」
「それじゃ戴くわ、コレには黙っていてね」と親指を立てた。
「うん言わないよ」と言ったら、いきなりとっくりからゴクゴクと飲んでしまった。まだ十五、六としか思えないのにとんだウワバミ娘だ。
 挙句の果て、「私匂うかしら、困ったな。お布団しいていくわ。ついでにあの歌教えて」ときた。昨夜の歌のことらしい。酔いの醒めるまで、どうやら帰るつもりがないらしい。仕方なく布団を敷くのを手伝った後、私達は覚えの悪いこの娘に「さくら貝の歌」を教えてやらねばならなかった。
  

Posted by 松田まゆみ at 08:08Comments(0)ボン・スキー

2009年01月16日

第八日

 湯ノ湖の水は湯滝となって、一段低い小田代原に落下している。そこを下るのは短いが急斜面だ。先生はリフトステミングターンという、犬ション式回転法で簡単に回りながら降りてゆく。犬ションとはSが命名したもので、犬が電信柱の傍らで行なうあの格好で回るのである。ヨーシの先生は最後の急斜面を直滑降でサーッと降り、テレマークで止まるとおいでおいでをした。
 直カリで来いというのだろうと思ったからSと目顔でうなずき合って、一、二、三で二人一緒にスタートしたが、下の平で二人同時に顔からすっぽり吹き溜まりの新雪の中に突っ込んだ。その時の気持ちは水泳の飛び込みのそれに似ていた。頭の上あたりにリュックサックがどんと乗っているのだ。手を突っ張れば際限なく雪の中に埋まってしまう。もがいてももがいても全然抵抗がない。二本の足はスキーを付けたまま空中に立っているらしい。
「大丈夫か?」という先生の声が、いやに遠くの方で聞こえた。大丈夫だと答えたかったが、雪が口の中に入り込んでいて声にならない。仕方ないからスキーを拍子木のように打ち合わせてみた。もがくのを諦めてじっとしていたら、先生が私の膝から腿(もも)を二本まとめて腕で抱えて、よいしょと引っ張った。ごぼう抜きとはこんなことだろう。やっと抜き出されて口に詰まった雪を吐き出し服をはたいていたら、「おーい手伝え」という声がした。
 Sの方が私よりよけいにもぐっていたらしい。彼は体重が重いためなのだろうが、膝から下が外へ出ているだけである。先生一人の手には負えないらしい。二人で一本ずつ足を抱えて一、二、三のかけ声で引っ張り出した。
 私はSの顔にまたまた引っかき傷だの鉤裂きができているのではないかと心配したが、幸いに古い傷跡が残っているだけなので安心した。近眼のSの眼鏡を探すのにひと苦労した後で、先生は「ごめん、ごめん」と初めて謝った。まさか君達が直カリをやるとは思わなかったと言うのだ。
 湯川は音もなく流れている。その湯川に沿ってほとんど平坦な小田代原が林を連ねている。ここへ夏来た時は、滴る緑の木陰で魚を釣る人が幾人か釣糸を垂れていたことが思い出される。今は白一色の雪の上に、兎の足跡が入り乱れていた。
「あれがフォックストロットだ。どうだ、スカンジナビアの匂いがするだろう」とヨーシの先生は味なことを言う。真黒に日焼けしてインド人みたいな先生だが、どうもただ者ではないらしい。知識階級のオジサンであることに間違いはないようだ。
 ルートは湯川沿いに少しずつ竜頭の滝に向かって傾斜しているようだ。先生の言うようにスケート滑降の練習にはもってこいの場所なのだ。こんな長い練習場など滅多にあるものじゃない。六キロは優にあるだろう。
 はじめはなかなかうまくいかなかった。現在のスキー締め具ならスケート滑降は難しいものではないが、フィットフェルト締め具の時代は少々要領が違っていた。踵(かかと)がスキーからバタンバタン離れるから、スキーを上向きに空中に押し出してテールは雪面を擦っていくのだ。踵が左右に動くのでやりにくい。しかし延々六キロの練習場である。そこで適切な説明と指導を受けながら、スケート滑降ばかりやらされれば、いくら運動神経の鈍い奴でもうまくならざるを得ない。確かにスケート滑降だけはうまくなった。
 私達が一番完全に覚えこんだのはスケート滑降だった。そしてこれはスキー上でのバランスをとる練習として、いわゆるスキーに慣れる意味において貴重だったといえる。これはヨーシの先生に一番感謝しなければならないことだった。スキーの下手な時期に何かひとつ、たとえばこのスケート滑降だけに自信を持つことができたのは、初スキーの第一の収穫だった。次のスキー行にもそれに続く何回かのスキー行にも、下手な私達のスキー技術の中で、スケート滑降となると二人とも見違えるようにうまく滑れた。
 五キロもスケート滑降をやらされたのではたまらない。私達はふらふらになって竜頭の小屋で大休止をとった。いかに上手とはいえ、大先生だって疲れたのだろう。ストーブの周りからなかなか立ち上がろうと言わなかった。もっとも時間はたっぷりあった。
 竜頭から菖蒲浜まで短いが楽しい滑降が待っていた。鱒の養魚池を通り菖蒲浜のバス停で三人が湖に向かって砲列を敷いていたら、湯元に行くバスが上っていった。
「やれやれ、あのバスが戻ってくるまで待たねばならないのか」
 先生は大きなあくびをした。
 東武日光駅で丁寧に頭を下げて先生と別れた。先生のお名前は確か聞いたはずだが、今は忘れてしまったし、住所もその時聞きもらした。その後再びスキー場でお会いすることもなかった。
 二人とも電車内はぐっすり寝込んでしまい、浅草雷門駅に着くまでの記憶はない。
 よたよたと駅前に出てみたら、ひどく腹の減っていることに気がついた。それにやけに寒いのだ。懐中の残金は少なかったが、食事をするのに不都合なほどではなかった。
「豪勢に食おうや」と言ったら、Sも賛成した。
 食後、財布の中を覗きながら果物やコーヒーを注文して、さて満腹になったところで急に家のことを思い出した。おふくろや親父の顔が眼底に浮かんだが、その顔が一瞬般若顔と仁王顔になった。そうだった。おふくろはともかく親父は服に縫い込まれている五円也のことは知らないはずだ。おふくろにしても万一の用意としてで、使っていいとは言わなかった。八日の間泊まってこられるとは、親父どもの算盤(そろばん)に乗るはずがない。
「おいS、家じゃ心配しているだろうな」
「そうだな、俺は三男坊だからそうでもないかもしれないが、それでも心配しているだろうな。葉書のひとつも出しておけばよかったかなあ」
「南間ホテルへでも電話かけて、いないと言われたら?」
「捜索願いか? オイ」
「まさか今日は出さないと思うけど、いずれにしても怒られるぜ」
「こりゃすこったかな。帰ろう」
 市電の停留所でSが立ち止まって何やらもそもそやっている。
「どうしたんだ」と言ったら、往きに買ってSに預けておいた市電の往復切符がないと言うのだ。何しろ豪勢に食ってしまって財布には一銭しか残っていない。Sも似たりよったりだ。
「おい、歩いて帰るのかよ」
「どうもそういうことになるらしい」
「ウエッ、四、五十分かかるぜ」
「仕方ない、諦めろよ。腹が満腹なんだから腹ごなしだ。睡眠は十分とったしな」
「しょうがねえな、歩くか」
 この時になって私は上衣に縫い込まれているはずの金五円のことはころりと忘れていた。もっとも気がついたとしても、市電ではとうてい細かく崩してはくれなかったろう。片道運賃七銭の時代だからである。店屋も起きているのは食堂か屋台のうどん屋くらいなもので、真暗な街路にはほとんど人の姿が見当たらないのだ。
「勝手にしやがれ、歩こう」
「おお寒、スキー場の方があったけえや」
 真暗の二人は、一人は顔に鉤裂きの跡を残し、一人はズボンの膝小僧に鮮やかな鉤裂きの跡を残して、久方ぶりのお江戸のからっ風に吹かれてとぼとぼと、否、スキーを肩にふらふらとわが家へ向かったのである。(完)

*お読みいただきありがとうございました。他の作品(カテゴリーが作品名)もお読みいただけると幸いです。
  

Posted by 松田まゆみ at 14:35Comments(0)ボン・スキー

2009年01月17日

火口原

 荒涼とした火山礫の原が、段丘状に次第に高度を下げてゆく。原の末端は、空に続く青よりさらに濃い海の青である。それは異様な高まりを見せて、この島を溺れさせようとするかのように島を取り囲んでいた。ひと筋の道がその青に、忽然と消えている。火山灰に半ば埋もれて、ひねこびたイタドリがところどころ地に張り付いている。緑はそこにしかなかった。
 振り返る山頂は、もう遠い。真黒く焼けただれた火口壁の先鋒が青空に突き刺さり、それは私に幼い日の物語に想像した鬼ヶ島を思い出させた。活火山は薄い煙を棚引かせ、あたりに人の姿は見えなかった。たった一人になれたかと思うと、何やらほっとして、私は歩度をゆるめた。急ぐことはないのである。今夜の宿に決めているK小屋には、午前(ひるまえ)に着いてしまうだろう。私が期待し、望んでいた旅のプロローグは、すでにそこに展開されていたのである。
 そこら一面、五月の太陽がぴちぴちと跳ね回り、私の若い肉体は、その光量子の散乱の中に大きく息づいていた。しかしどうしたことか、その時私の網膜には母の映像が浮かんだのである。今頃、薄暗い台所で朝食の仕度をしているであろう母の姿である。老舗の家付娘として、生活の不安を知らず育ってきた母だったが、父の破産とそれに続く家出から、想像もしなかった借家住まいに追い込まれて、ただおろおろするだけの母だった。そんな母と幼い弟達の生活は、当然学校を卒業したばかりの私と妹の肩にかかってきた。私が就職を前にして数日の旅をもくろんだのも、前途に希望を抱いた人生の門出への記念というより、「俺の青春は、家族を養うだけの労働の中にたぶん終わってしまうのだろう」という不安と失望を、せめてこの旅の間だけでも忘れてしまおうと思ったからだった。
 昨夜の海は荒れていた。季節はずれの台風の余波だという大きなうねりが、船の舳(へさき)に砕けて甲板を荒い、食堂で夕食を摂った船客は、私を含めて三、四人しかいなかった。真夜中に到着予定のM港には艀(はしけ)が危険なために上陸できず、波止場のあるO港に着岸して、突堤を洗う大波の中をロープを頼りに上陸したのは午前三時頃だったろうか。それから懐中電灯を手に、M山に登ったのである。
 高度が下がるにつれイタドリは地を覆い、芒(すすき)の群落も見えはじめた。幾本かの木々も若い緑を広げているようだったが、何の木だったのか? 私には覚えがない。私は、すべてを忘れようと努めていた。東京へ帰れば、ただ働くだけの生活が始まる。私には、自分の将来が灰色に閉ざされているとしか思えなかったのである。
 海からの風が強かった。どこにあったのか、老人のように腰の曲がった去年の枯葉が一枚、私の足元をカラカラと音をたてて飛び去った。いつか、私はミニヨンの「放浪人(さすらいびと)の歌」を口ずさみながら、遥かの海に向かって歩み続けていった。

  我 山より来ぬ 谷は遥かに
  海は鳴る 海は鳴る
  うらぶれて 放浪て
  我 吐息す 「何処ぞ」と……

 この歌が、特に好きだったわけではなかった。青空は限りなく淋しかったが、また限りなく明るくもあった。
  


Posted by 松田まゆみ at 09:46Comments(0)トベラの島

2009年01月18日

出会い(1)

 あてにしていたK小屋は釘付けで営業していなかった。山小屋と違い、暖かい海岸のK小屋は年中開業しているだろうと安易に思い込んでいたのが間違いだった。考えてみれば、客の滅多に来ないこの季節に営業しているはずがなかったのである。ここは夏だけの小屋だったのだ。仕方なく私は海への小道を下っていった。海際の断崖の上、そこにはものすごい光景が現出していた。沖からの巨大なうねりが白い波頭を乗せて、数限りなくこの島を目がけて押し寄せていた。それは足元に切り立つ断崖の岩壁に打ち当たり、轟音を上げて舞い降りる。その中に、虹が幻のように五彩を残しては消える。足元の大地は揺れ、後には異様な静けさが残った。私は息を詰め、かつて経験したこともない光景に長い間釘付けにされていた。
 何もかも忘れ、海を離れて丘を登り返していた私の目の前に白い道標が立っていた。「G窟へ」と指し示された矢印の道は、厚く散り敷いた枯れ松葉に木漏れ日を落として松林の中に消えていた。考えるまでもなく、私はその道に踏み込んでいた。長い毛足の絨毯(じゅうたん)の上を歩くような足裏の感触と樹脂の匂いの漂いに、私は求めていたものに初めて出会ったような喜びを感じた。ときたま遠雷のように先ほどの轟音が聞こえていた。人の気配も感じられぬ真昼の静寂の中を、私はこの松林の道がつきるのを恐れ、できるだけゆっくりと足を歩んだ。

  陽さえ我に冷たく
  花も実も素枯れて
  我は旅の御空
  何処ぞ 何処ぞ 恋う国は
  求め探せど 未だなし

 また口にのぼってきた「放浪人の歌」だったが、誰もいないままに私はいつの間にか声高に歌っていた。
 道は次第に海に近づき、ぐっと右に曲がる。曲がった途端、すぐ目の前にいないはずの人の姿を見て私はギクリと足を止めた。もちろん歌声も止まっていた。歌を聴かれていたと思うと恥ずかしさが込み上げたが、このまま黙って引き返すには相手が近すぎた。
 その男は私に背を見せてキャンパスに向かっていたが、振り返ろうともしなかった。私は思い切って歩を踏み出すとその横をすり抜けながら軽く頭を下げたが、ついでに荒いタッチのその絵を一瞥(いちべつ)することも忘れなかった。しかし四、五歩行き過ぎた時、後ろから呼びとめられてまたギクリと立ち止まった。
「どこへ行くの? G窟なら今日は駄目よ」と言ったその声は、意外にも女の声だったのである。
 振り返った私に、まさしく女の顔が笑いかけていた。
「岩屋はそこから崖を降りて海沿いに行くのだけれど、今日は荒れているから波にさらわれるわよ」
 斜(はす)に被った黒ベレーの彼女がまだ若い女性だとわかった途端、私はかすかに頬の火照りを感じた。「これはいけない」と思うと同時に、火照りは急速に顔中に広がっていった。
「そこの崖っぷちから見てごらんなさいよ。それとも……死にたいなら止めないわよ」
 女の言葉が終わらないうちに、私はくるりと背を向けて崖際に走り寄った。耳のあたりまでカッカと火照ってきたのを隠すためだった。
 目の前には屏風を立て連ねたような海蝕崖(かいしょくがい)がゆるくカーブを描き、その下に怒涛に泡だつ海岸線が見えたが、私は頬の火照りを消すのに懸命で、ろくろく見もしなかった。ずいぶん長い時間のように思われたが、火照りの冷めるのを感じ私は彼女の方に戻った。また赤くなりそうで、彼女の頬は見ずに言った。
「止めますよ。命が惜しいから」
「そう、その方がいいわ」
 絵から目も離さず彼女は言ったが、私はその頬が忍び笑っているようで、「どうもありがとう」と小声で言うと、そっと横を通り抜けた。
 曲がり角でちょっと振り返ってみたが、男と見違えるのも道理の赤と黒のチェックの肩幅が、もう振り向きもしなかった。
 赤面したのが確かに彼女にはわかったはずだ。
「チクショウ! どうして俺はこう……。まあ、後悔してもはじまらねえや」
 私は、つい独り言を言いながら、まだこだわっていた。
「さて、今夜のネグラはどうしようか……」
 考えようと思いながら、さっきの赤面の場面ばかりが頭に浮かんできて、それを消そうと懸命になっているうちに、またK小屋の前に来ていた。松葉の道も樹脂のにおいも気づかなかった。
 日当たりのよい庭前の芝生に寝ころんで朝食の残りを平らげ、乾パンをボリボリかじりながら考えた。小屋の縁の下へでも潜り込めれば宿泊がロハになることは、先刻考えていたことだ。しかし、この小屋は基礎のコンクリートの所まできっちり板壁が張ってあり、風抜きの穴には鉄棒が嵌(はま)っていた。入り口も窓も抜板(ぬき)が釘付けになっている。近所に泊めてもらえる民家らしいものも見当たらない。探して歩くのも面倒臭かった。
「まあ、いいさ……」
 黒潮に囲まれたこの島だ。上野駅の地下道よりずっとましだろう。雨も降りそうにないし、乾パンも二袋ある。山のオカン(野宿)には慣れていた。と、決めたら気が楽になって無性に眠くなってきた。無理もない。昨夜からほとんど眠っていなかったからだ。私はそのまま太平の眠りに落ち込んでいった。
  

Posted by 松田まゆみ at 13:20Comments(0)トベラの島

2009年01月19日

出会い(2)

 なにやら、遠くでかすかに歌声が聞こえる。俺が歌っているのかな、と思ったのはそれがどうやら「放浪人の歌」だったからだろう。歌声はしかし、だんだん大きくはっきりしてきた。と思ったら、意識が蘇り目が覚めた。歌は夢ではなかった。確かに私の頭の斜め左、それもすぐ傍らから小声だがはっきり聞こえる。あの女(ひと)に違いない。私は照れ隠しに目をこすりながら起き上がった。
「目が覚めた?」
 二メートルほど離れて、やはり芝生に足を投げ出した女が笑いかけていた。折り畳んだ画架とキャンバスが傍らに放り出してあった。
「いつまで寝てんのさ。風邪ひくわよ」
 先ほどはろくに顔も見なかったのだが、アテーナかミネルバか? 彫刻のように引き締まった浅黒い顔が白い歯並を見せていた。
「あんた、これからどこへ行くつもり?」
「ええ、それなんだけど……」
 私はまだはっきりしない目を擦り擦り答えた。
「考えているうちに眠くなっちゃって……」
「のんきね。今の季節にはバスはないし……。ここへ泊まるつもりだったんだろう? 宿屋のある所まで、歩けば四、五時間かかるよ」
「そうですか。実は、いざとなったら縁の下のご厄介になるつもりだったけど、この小屋、縁の下に潜り込めないんですよ」
「フフフ、よかったわね、入れなくて。縁の下で鼠と同居したらどうなると思う。島の鼠は大きくて獰猛(どうもう)よ。鼻の頭、かじられるわよ」
「ウェー、おどかさないでよ。このあたりで泊めてくれそうな民家(うち)、知りませんか?」
「あきれた人ね。民家は一時間くらい先の入江の中よ。でも、男の子ってのんきでいいね」
「男の子じゃなくて、僕は一人前の男ですよ、もう……」
 相手の気軽さに、私も口が軽く動いた。
「あら、そう……。でも君は全然男臭くないよ。男の子にしときなよ」
 この辺から彼女の口調は俄然、男っぽくなった。しかし、十年もつき合った友だちのようにというより気の置けない姉に対する弟のように、私には何のこだわりもなく話ができるのが不思議に思えた。私は彼女を二つ三つ年上かなと思ったが、彼女は私を学生と思っているらしかった。
 陽は西に傾きかけていたが、この島の東岸は暖かかった。芝生の緑の向こうに、相変わらず濃青の海がアメリカまで何もないかのように広がり、光が満ち溢れそうだった。
「あんた今時分、何しにここへ来たの?」
「何しにって……。なんとなくムシャクシャすることがあって、お金のなくなるまでほっつき歩こうと思って」
「そう……。私はひょっとしたら自殺志願の文学青年かと思ったよ。ゲルピンなら、私の泊まっている家に泊めてやろうか……。それとも縁の下の方がいい?」
「イヤー、鼠はゴメン。性に合わないんですよ」
「ホホホホ、じゃあ決まった。ついてらっしゃい。白いご飯食べさせて、お布団の上に寝かしてやるから。私は捨て猫を一匹拾ったと思えばいいんだから……」
 こうして私に捨て猫の道中が始まった。サブザックを負った私は空いた手に画架を持ち、絵の具箱と画板を持った彼女と連れだった。海沿いを白くうねる道に、二つの長い影が落ちていた。両側の濃い緑は、そのクチクラが照り返す艶やかな濃緑の椿である。ゆっくりと歩を運びながら、私はこんな風景をどこかで見たことがあるような気がしていた。映画の中であったか絵画だったのか思い出せなかったが、木々は椿ではなくオリーブだったと自分で勝手に決めていた。
 これがSとの出会いである。
  

Posted by 松田まゆみ at 13:09Comments(0)トベラの島

2009年01月20日

S島へ

 海面を覆っていた朝霧が風に吹き払われて山手に昇っていくと、コバルトの海と入江に延びた突堤が見えてくる。そこには七、八艘(そう)の漁船と、際立って美しい白塗りのヨットが浮かんでいた。それがSのヨット「ダフネ」である。ヨットはエンジン付きだという。この辺の海は潮流が速く流れも変わりやすいので、エンジン付きでないとさすがの女丈夫も怖くて乗れないのだという。
 あの船に乗ってS島に渡るという、私にとって信じがたい事実がこれから起ころうとしていた。私の胸はときめいた。この興奮は昨夜からずっと続いているものだ。海沿いの道から少し登った山腹にあるSの知人だという家は、老夫婦二人だけの静かな住居である。石榴(ざくろ)の大木のある庭から真下に、小さな防波堤に囲まれた漁港が鏡のような海をたたえていた。
 昨夜はSと遅くまで語り合った。人には向かい合っていると妙に気詰まりで、話題に困る人がいる。反面、次から次へと話題が湧き、時を忘れて話し込んでしまう人間同士もいる。そんな人に限って、たとえ長い時間を黙って相対していたとしても、まったく気楽な気分でいられるものだと思う。気が合う、ということなのだろう。
 Sも私も山が好きで、山の話はつきることがなかった。彼女は二日前に、絵を描くためにこの島に来たのだという。ただし絵は余技だという彼女がどんな種類の女か、私には見当がつきかねていた。金持ちで暇を持て余しているお嬢さん、という柄にも見えなかった。彼女は、東京の大きな商事会社に勤めている英文タイピストだと言った。その頃、女性の英文タイピストは数少なく、高給取りだということを私も知っていた。暇のある職業ではないが、亡父の法事を理由にぴんぴんしている母上まで病気にしてしまって、十日間の休暇をとってのんびりしているのだと言って舌を出したのだ。ダフネは、欧州航路の客船の船長だった父の形見だという。
 ごく自然の成り行きで私はSを「姉さん」と呼び、彼女は私を「坊や」と呼ぶことになってしまった。そんな彼女は言った。
「坊や、明日私と私の島に行かないか? 家に泊めてやるよ、もちろんロハで……。私の島は小さいけど静かで、こんな島よりよっぽどいいよ。船には強いんだろう?」
 私は内心期待していたその言葉に、シメたと思った。Sとの外洋帆走、そして小さな島。私はぞくぞくするほど嬉しかったのだ。渡りに船なんてもんじゃなかった。船酔いには自信があるけれど、あまり厚かましいから……と一応は遠慮したものの、「遠慮するなって、山の男らしくないぞ」と言われると、一も二もなかった。Sは笑って言った。
「家にはオフクロっていうおとなしい動物が一匹いるだけ……。私の天下なんだから、気を使うことなんてないよ。だけどね、船に酔ったって岸につけてなぞやらないぞ。覚悟してろ」
 もちろん、私もそれは承知している。島から島へのセーリングでは、船つけようにもつける場所がないのだから……。
 出帆の準備は楽しい。甲板を洗う。船室を掃除する。油を補充して、エンジンの試運転をする。帆のセットも終わり、私は風見代わりの真赤なリボンを帆柱に結びつけた。
 実のことろ、私はヨットの経験があった。東京湾、葉山等でだったが、親戚の持船を借りて従弟と帆走を楽しんだ一時期があった。もちろんダフネのように立派な船ではなかったし、外洋といえる海は未経験だった。
 アンカーロープを整理している私を見て、Sは怒鳴った。
「コラッ、坊や! 君はヨットやったことあるなっ。わかるよ、私には……」
「フフン、ディンギーなどちょっとね。でも外洋は初めて。せいぜい三崎沖くらいしか出たことないんだ」
「フーン、楽しくなっちゃったな。ようし、それじゃあコキつかってやるぞ……。ほんとうはこの船、一人じゃ手に余るんだ。助手がいるとわかったら、少しセーリングで遊ぶか……。エンジンで行っちゃうつもりだったけど」
 Sの言葉はまるっきり男のそれになっていた。
「もち、セールだよ。姉さんの腕が見たいもん」
 この機会を逃したら私は一生、外洋の帆走などできないだろうと思うと、一時間でもいい、帆走してみたかった。
 大きなくらげが舷側に浮いていた。寒天のような傘を広げ、真青な海にのんきげに浮かんでいた。振り仰ぐ海蝕崖の上は滴るような緑で、その中に民家の屋根がぽつりぽつりと見え隠れした。私は、オセアニアのどこかの島にいるような錯覚にとらわれていた。
 纜(ともづな)をといて突堤をひと突き、ダフネは静かに海面に滑り出た。私はSの真紅のネッカチーフを頭に被り後頭部で結ぶと、舳の甲板に立った。
「ヨーソロ、面舵一杯!」
 ジフ(三角前帆)がはためく。
「いいぞいいぞ、赤い海賊」
 Sが冷やかす。
 この瞬間、私の頭からは何もかもが吹っ飛び、その昔、地中海を荒らし回ったという海賊シーフォークの気分になる。いささか重量感に乏しいシーフォークであったが……。
 外洋は昨日の名残のうねりが大きく、さすがに私の肝を冷やしたが、それもはじめのうちだけだった。私達は洋上遥かな積乱雲に向かって、クローズホールド(風上に向かってジグザグに走らせる航法)に入った。
  

Posted by 松田まゆみ at 14:07Comments(0)トベラの島