準備

松田まゆみ

2009年01月04日 13:45

 出発までの十日間はひどく忙しかった。何しろ第一号のスキーである。何ものにも代え難き可愛い奴である。まずせっかく塗ってあるスキーの塗料を、ナイフとガラスの破片で全部削り落とした。現代のスキーヤーには理解し難いことかもしれない。そのために私はわざわざ透明塗料の塗ってあったスキーを選んだのだ。例のスキーの教科書には、こう書いてあったのだから仕方がない。スキーの塗料は剥げ易い。剥げた所から水が浸透するのはスキーのためによくないので、塗料は全部剥がして亜麻仁油を塗り、乾いたらまた塗って油を木部に染み込ませろというのだ。
 第一号の恋人に対して、なんでこの努力が惜しまれよう。私は塗料を削られ、ざらざらになったスキーの木肌を丁寧に紙やすりの細かい奴で磨き上げた。そしてその真白になった肌に、亜麻仁油を塗っては乾かし、塗っては乾かして、ついに琥珀色の肌に仕上げたのである。「馬鹿みたい!」なんて言うなかれ。涙ぐましい努力だったのだから。
 次は靴だった。靴の油をせしめるために、店の者を誰かおだてあげる必要があった。新潟の産だという番頭に目をつけて相談してみたら、すぐ乗ってきた。しかし、これがいささか失敗だったのだ。後で聞いて知ったのだが、彼は何でも知ったかぶりをする癖があった。「雪の山は寒い。靴に塗っても凍ってしまうような油では役に立たない。それにはモービル油がいい。あれなら零下二十度でも凍らない」と言うのだ。私が「鉱物油よりは、塗るのだから馬油がいいのではないか」と言ったら、「いや、あれは凍るから駄目だ」と言う。行きがかり上、やむを得ず私は承諾した。ところが番頭が油を塗るように申し付けた小僧が、塗るのが面倒臭かったのだろう、モービル油の入った鑵の中へ三十分ばかり靴を漬け込んでしまった。それでも気をきかしたらしく、靴底が上に出してあったのは不幸中の幸いであった。
「このくらい染み込んでいればいいでしょう」
 得意顔に、まだポタポタと油の滴っている靴をぶら下げてきた小僧を見て、私は怒る気にもなれなかった。仕方ないから新聞紙で拭いてみたが、拭けども拭けども、拭いきれるものではなかった。こいつを履いたら靴下も足も油漬けになること請け合いだった。指で押すとジュブジュブと油の染み出てくる靴を前に私は長嘆息したが、自分でやらなかった罰だと思い、あきらめてそのまま履くことにした。
 自分の靴でよかった。Sの靴はまだ油漬けしてなかったので、私は身銭をきって肉屋から馬の脂身を買ってきて鍋でジュージューと焼き、染み出た油をSの靴に塗った。
 パラフィンは倉庫に行ったら、折れて売り物にならないローソクがごろごろしていたので、拾ってきて鍋で溶かし、石鹸箱に流し込んだら結構見られるものができた。面白かったのでSにもやるつもりで六個ばかり作っていたら、パラフィンのいぶる匂いがしたのだろう、親父に見つかってしまった。てっきり怒られると思って、おそるおそるスキー用のパラフィンだといったら、「ふーん、うちでも作って売り出そうかな」と頭をかしげて去ってしまった。やはり商売につながるとなると文句は言わないらしい。
 ようやく準備ができたところでSと相談した。どこへ行こうかということである。赤倉、菅平は遠いし、赤城は雪が少ないし、その頃、上越のスキー場などはなかったのだ。限られた予算で、正月休み中行ってこれるような所というのだから難しかった。
「さて、どこにするべえか」
 畳の上にごろんと横になって新聞を見たら、東武電車の広告が目に入った。忘れもしない、こんな文句だった。
「秘められたる雪の殿堂、奥日光湯元温泉スキー場へ!」
 横に小さくこんなようなことが書かれていた。
「湯元スキー場は本年初めて開設されたもので、東武は犠牲的な往復割引運賃でサービスします。浅草雷門発夜行、日光に未明に到着。暖かい車内でそのままゆっくり睡眠をとって戴き、早朝、バス、ケーブル、バスと乗りついで日光湯元着、往復二円十銭也、通用十日間」
 さっそくSの所へ出かけて、「ここはどうか?」と言った。
「これは確かに安いや」
「あすこなら高度も高いし、森林地帯で雪はいいはずだよ」
「温泉はあるし、サービスもいいはずだよ」
「ここに決めちまおう」
 ということになって、初滑りは奥日光と決まった。
 Sが訪れた時、お茶を運んできた妹は、別にパイ缶を一個持ってきた。
「パイ缶か、ご馳走だな」といったら、「これは今食べるんじゃないわよ。スキーに持っていきなさいよ。私のプレゼントよ」と言う。
「ほう、おまえにしては上出来だ。ありがとう」
「兄さんにあげたのではないの。Sさんにあげたの」と憎いことを言った。
 純情なSがいささか照れてもじもじしていたので、「こんなのいいんだ。俺から巻き上げた一円の中から、いくぶん良心がとがめて買ったんだろうから」と言ってやったら、妹の奴は、「へへへ」と変な笑い方をした。そして懐から五円札一枚を引っ張り出して、ひらひらと頭の上にかざして言った。
「兄貴のスキーをだしに使って、親父さんからせしめちゃった。だからパイ缶分返してやろうと思ったのよ」
 チクショウ! 全く抜け目のない奴だ。

関連記事