Sの入江

松田まゆみ

2009年01月25日 15:27

 入江の奥の海蝕崖の岩根に、波が寄せ集めてつくったのだろう、小さな砂浜があった。そこは海蝕崖に取り囲まれて一方だけが海に面していたが、その海にも岩礁が立ち並んでいて船からも砂浜はほとんど見ることができないという。「Sの入江」、そこへは引き潮の時だけ崖下の海沿いを歩いていくことができた。背後の切り立った断崖は頭上に覆い被さって、登ることも降ることもほとんど不可能のようだった。
 Sがここを見つけたのは、少女の頃だったという。Sは誰も来ないここでの、孤独の時間を愛した。
 私達が行った時、その小さな砂浜には何がここまで運んできたのか、ひと群れのハマダイコンが根を下ろし、薄紅の花を咲かせていた。二人はその花の傍らに仰向けに寝て、足を伸ばした。
 この季節には珍しく三、四日続いた晴天も、今日は朝から霧が深かった。それでも日光は霧のヴェールを通して砂を温め、ぽかぽかと暖かかった。霧は海から生まれて島に押し寄せ、薄れながらも断崖に沿って這い上がる。太陽は鈍く海面は鉛の色だったが、ときたま波がきらりと光るのは、霧の薄れたところでもあったのだろうか。
「姉さんは、ほんとうはすごくロマンチストなんだと思うな」
 寝たまま私は言った。
「ロマンチストは君の方だろ。夢を食べてる……そうだろう。獏みたいな子」
「それで生きていけたらいいな。だけど僕には食べさせてやらなければならない母や弟妹がいるんだ。でも僕は生まれつきのんきにできてるから……」
 それきりSは黙った。私は両手を頭の下に当てがい、目を閉じた。
 私の頭の中に、忘れたはずの思い出がまざまざと蘇った。海と、崖と、砂浜と……。私の若い心に、今も癒えない大きな傷跡を残したその出来事から私はいつも逃げようとしていたのだったが……。長者ヶ崎の小さな入江もM子の面影も、Sの傍らにいて私は素直に受け入れることができた。
 M子と私は小学校の同級生だった。卒業して八年後、久しぶりに開かれたクラス会で再会したM子は、別人のように美しくなっていた。小学校時代、無口でおとなしかった彼女とは、ほとんど口をきいたことがなかったように思う。クラス会の翌日、会の幹事だったM子と私は、上野の喫茶店で会って今後の会の運営等について話し合った。ベランダを取り囲む花壇の燃えるようなサルビアの花を、私はいまだに忘れることができない。その頃、私の父が事業に失敗して行方不明になっていた事情と、M子の父が破産を苦に自殺してしまった事件が二人を急速に接近させていった。
 葉山にあったM子の家の別荘が人手に渡されることになった最後の夏、それは私の学生時代最後の夏休みでもあった。その頃、一色の海岸に私はよくM子と渚伝いに行って、時を過ごした。葉山御用邸の付近は、水着では歩けなかった時代のことである。話すことはあまりなかったと思う。ただ二人でいるだけでよかった。お互いの境遇には触れたくなかったのだ。小声で合唱することが多かった。M子は美しいアルトの持ち主だったのである。
 その後、M子はあるデパートのネクタイ売り場に勤めるようになり、私は社会人として巣立った。お互いの境遇を知り合っているM子と私は、M子の結婚の時が二人の別離の時であることが、わかり過ぎるほどわかっていた。
 M子との別れの日、私達は想い出の多い長者ヶ崎で落ち合った。晩秋の冷たい風の中で、初めて手を取り合ってお互いの幸せを誓い合ったが、涙が溢れた。しかし、別離の時刻(とき)は意外にあっさりと経過した。彼女の冷たく柔らかい指の感触と、二人で拾った桜貝の二片だけが私に残された。
 苦しさは、むしろ後から追いかけてきた。時の経過とともに、気の狂いそうな苦しさが私を襲った。別れがこんなにも苦痛なものであるならば、私はもう絶対に恋はすまいと思ったものだ。
 山好きの私が逃避の場を山に求めたのは当然の成り行きといえた。たった一人の長い山旅が始まった。霧の山稜に行き暮れたり、より困難な岩場を求めて彷徨したあの頃の単独行を思うと、遭難しなかったのがむしろ不思議に思われる。私は前途に何の希望も持てなかったのだ。ただ、家族のために生きねばならないという使命感が、私に幸いしたというべきかもしれない。
 長いこと私は黙っていた。
 時の経過の中で、私は小声でハミングしていた。シューベルトの「海辺にて」だった。いつの間にかそれにハミングで合わせていたSが、起き上がると言った。
「何を考えていたの? ぼけっとして」
 私はそれには答えず、「姉さん、もう潮が満ちてくる頃じゃない? もう帰ろうよ」と言った。
「いいさ、満ちてくればいい」とSは言い、間を措(お)いて、「私は泳いで帰るから」と言う。
「意地悪。着てる物どうするのさ」
「丸めて頭にくっつけるよ」
「水着も持ってないのに……。僕は姉さんのこと心配してやってるんだ。いいよ、僕も泳いで帰るから……」
「この辺の海は暗礁が多いんだよ。糸くらげもワンサといて、体中が腫れあがるよ」
「いやだなあ。じゃあ、どうするのさ」
「心配しなくてもいいよ。この崖を登って帰るから……」と、後ろの断崖を振り返る。
「また冗談を言う」
 私も断崖を見上げた。
「私の見つけたルートがあるのさ、心配するなよ。坊やだって岩登りくらいやるのだろう? 登れないんだったら、一人で先に帰りなよ」と、Sは素っ気ない。
 私は立ち上がって改めて周囲の岩壁を見回したが、攀じ登れそうな所はどこも見当たらなかった。
「登れないよ、これは……。ザイルもハーケンもなしにはね」
「そんなもの要らないよ。でも少し手強いぞ。ほら、あの壁を斜めに横切っているバンド(岩壁に帯のように絡んだ階段状の所)に取り付けば、壁をトラバース(横切る)して向こうのリッジ(狭い岩稜)に出られる。後は半分木登りだよ」
「バンドの真中が切れてるじゃないか、あそこはどうする? 跳び移るなんて僕はいやだよ。だいたい跳び越せるほど狭くはないよ」
「そう、あそこが一番悪いんだ。でもここからは見えないけど、あのチムニー(縦に入った岩の裂け目)には大きなチョックストーン(岩の裂け目の中に挟まっている岩塊)が一個あるんだ。それに乗っかって渡ればいい。チョックストーンがなくなっていなければだけどね」
「ウェー、いやだな。下は海だぜ」
「下を見なけりゃいいさ。いやなら早く帰りな」と、Sは言うのである。
 私は覚悟を決めた。女の登れる所である。私はまた砂の上にひっくり返った。
「ええ、登りゃあいいんでしょ。登りゃあ」
「そうそう。いい子だ、いい子だ。チョコレートやろうか」
 Sの出したチョコレートを口に放り込んで、私はゆっくり舌の上で溶かした。
 霧は音もなく海を渡ってくる。一面ミルク色の空間に、奇怪な岩礁の影が幻のように濃淡を浮かばせていた。ときどき鳴き声を残して、鴫(しぎ)が姿を現わしては消える。波はピチャピチャと砂と戯れているだけだった。
 こんな時を持つことを期待して、私は何年も前から待ち続けていたような気がしていた。
「さっきの歌、歌おうか」
 Sはシューベルトの「海辺にて」を、ハイネの原詩で歌いだした。私は黙ってその声が霧に溶けて、あたりにくぐもり響くのを聴いていた。
 岩壁も、砂も、ハマダイコンの花も、霧の包むすべてのものは濡れて重かった。

関連記事