島を去る日

松田まゆみ

2009年01月26日 19:46

 島を去る日、まだ陽の昇らない早朝、私は床から起き出した。四日間が瞬く間に過ぎて今日は五日目。いくら捨て猫の身分とはいえ、気がひけていた私である。「明後日には私も帰るから」というSに、「明日はちょうど船の便があるから」と帰京を宣言したのは昨日のことである。Sも止めなかった。
 泊まり賃など取ってもらえないのはわかっていた。お礼代わりに、花壇に秋の花でも植えて帰ろうと思いついたのだ。苗床にはちょうど移植時期を迎えた百日草、マリーゴールド、サルビア、鶏頭等の苗が、緑の頭を寄せ合っていた。
 私はそっと庭に下り立ち、物置から鍬を取り出して花壇を耕した。腐葉土を鋤きこんでから表土を整える。私は柄にもなく花を作ることが好きだったので、手際も悪くはなかった。苗を半分ほども移植し終わった頃、起き出してきたSの母上はそれを見ると目を輝かせた。
「植えてくれているのね。すまないわね。植えるのはともかく、女の私には耕すのが骨が折れて。ほんとうにありがとうね。このお花の咲く日が楽しみだわ。また秋になったら今度はお花を見に来てくださいね。是非ね」
 私の思いを遥かに越えた喜びように、私はふと東京の母の面影を見た。
「そうだ、早く帰ろう。おふくろは心配しているだろう」
 私は帰京の日を今日に決めたことを、ほんとうに良かったと思った。
 別れの時間の長いのは嫌いだというSとは、玄関で別れた。しかし私達の間では、十日後に東京で再会する約束ができていた。八重洲口に近いH苑という喫茶店(それは、その後のSとの山行の打ち合わせにいつも使われた店だったが)に、五時半という時間まで決められていた。
 Sの母上は、「ついでに用事を足すから、波止場までご一緒しましょう」と言って、私と一緒に家を出た。港への道々、彼女は自分が東京の山の手K町に生まれて育ったこと、ご主人を亡くした時、東京へ帰ろうと思ったが、すでに亡くなっていた両親のいない家には帰りづらく、島に留まってご主人の墓を守る生活に入ってしまったこと等を話してくれた。
「東京はなつかしいわ。それは、今の生活は平和だし、島の人も皆いい人達で親切にしてくれるのだけど、島では何といっても私は他国者(よそもの)。どうしても紙一枚馴染めないところがあって……東京に帰りたいわ。海を見ていると、ひとりでに涙が出てきてしまう時があるのよ。おかしいでしょ」
 私は何と答えてよいのかわからなかった。あの大きな家に穏やかに住まう人にも悩みがあったのだと思うと、生きて求める人間の哀しさに胸がふさがれる思いだった。
 わずかな貯金を生活の足し前にして、ただ子供達のたまさかの喜びにはともに笑い、その無軌道さには胸を痛めながら生きる以外、前途に期待する何物もなくなった私の母と、いずれが幸せなのだろうか。
 艀に乗ろうとする私に、Sの母上はお土産の紙包みを渡しながら言った。
「お母さんによろしくね。長いこと引き留めてすみませんでしたと、謝っていたと言ってね」
 その土産は、私が切符を買っている間に、彼女が港の市場で買い求めたものだった。
 遠ざかる艀の中から、桟橋に立ちつくすSの母上の小さな姿がずっと見えていた。「さようなら、お幸せに」
 私の目は潤んでいた。
 客船に移るとすぐ、私は上甲板に上った。最高点でも百メートルに満たないS島は台地状の平らな島で、わけもなく海に沈んでしまいそうに私の目には映った。
「さようなら」
 再び私は口には出さずに別れを告げた。
 しかし出帆の汽笛が鳴ったその時、一艘の白いヨットが岬を回って近づいてくるのに気がついた。Sは彼女らしい方法で、見送りに来てくれたのだった。旅客船はスピードを上げる。ダフネの甲板で手を振っているSの姿が見えた。私も思いっきり手を振ってそれに応えた。ダフネと私との距離は次第に開いていった。波間に揺れ、浮かぶその姿は、一羽の白鳥に似ていた。私は誰もいない上甲板の手摺にもたれて、遠ざかるその白鳥を追っていた。
 荒海を描くS、真昼の帆走、夕闇の湯浴み、霧の入江……。次々とその光景が脳裏をよぎる。
 私の網膜に、白鳥はもう点となっていた。

*「トベラの島」の続編にあたる「青春挽歌」も、引き続きお読みいただけたらと思います。

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