第一幕

松田まゆみ

2010年03月22日 11:43

遠くで水の流れる音。上高地。針葉樹林の中。苔が厚い。足音はないが、ときたま枯枝を踏みしだく音。

路子 静かですわね・・・・・・ホテルのすぐ裏とは思えないわ。(ため息とともに)・・・・・・あーあ・・・・・・冷たい空気! おいしいわ・・・・・・茸の匂いがする。いえ、樹脂の匂いね。ドライジンの匂い・・・・・・苔が厚いわ・・・・・・いつかこんな所を歩いたことがあったわ・・・・・・。

  ・・・・・・。

路子 黙ってらっしゃるのね。なぜ? 私にばかり喋らせて・・・・・・。

  いえ、ごめんなさい・・・・・・考え事をしていたので・・・・・・十五年も前のことをです・・・・・・。

路子 私も昨夜は眠れなかったわ。

音楽(静かに、回想的に、台詞に交じって)

  静かでしょう・・・・・・雪の降る前は、いつもこうなんです・・・・・・葉が落ちて、茸が腐って、その上に雪が降りつむまで・・・・・・。

路子 道がないのね。どこまでいらっしゃるの? でも・・・・・・帰りたくはないのよ・・・・・・。

  二十分ばかり登ってもいいでしょう。あなたに見せたい所がある・・・・・・。

路子 いいわ・・・・・・何年か待っていたの、こんな森の中歩く時を・・・・・・。

バリバリと枯枝を踏み折る音。
音楽(少々感傷的に、静かに盛り上がり止む)
ガレを登ってくる二人の鋲靴の音が次第に近づき、かすかな息切れ。


  森を抜けましたね。このガレの奥に小さい岩壁があるでしょう。あの上ですよ。

岩屑を踏む足音。軽い息切れとともに次第に遠ざかり、また次第に近づきハタと止まる。

  ここからちょっとした登り、あの斜めのバンドを登って上のテラスに出るのです。気をつけて

路子 ええいいわ。先に登って・・・・・・。

岩を攀じる鋲靴の音。かすかな息づかい。岩屑の落ちる音が入り交じる。

  ちょっとそこで待ってください。この上が少しオーバーハングしています。私が先に登りますから。

ザラザラと岩屑の落ちる音。

  さあ、登っていらっしゃい。気をつけて・・・・・・もうちょっと左にクラックがある。そこに足をかけて手を伸ばしてください。

  しっかり掴まって・・・・・・。

音楽(静かに始まり、力強く盛り上がる)
二人の荒い息づかいと、登り終わった気配。


  ここなんです・・・・・・私の城・・・・・・。

路子 ・・・・・・お城?

  シャトウ スギ。私一人の誰も知らない山塞・・・・・・ごらんなさい、穂高を・・・・・・。

路子 まあ! すてき! 奥穂、西穂、ロバの耳も俎岩(まないたいわ)も見えるわ・・・・・・。

  そう、コブ尾根も見えますね・・・・・・。

路子 ・・・・・・杉さん・・・・・・わかったわ・・・・・・私に思い出させようとなさるのね。

  いいえ。ずっと前から、たった一度でいい、あなたとここへ来たかった・・・・・・それだけなんです。

路子 いいの、古い傷跡、私は忘れてはいないわ。

  そんな、そんなつもりではないんです・・・・・・十五年・・・・・・今では私の心も雪に覆われて凍っていますよ。

路子 私の心も・・・・・・っておっしゃるのね。意地が悪いわ。

  まあ腰かけませんか、そんなこと言わないで・・・・・・その岩の窪みは私の城の玉座です。雨が降っても大丈夫。

路子 ほんとうね。岩の腰かけに岩の廂(ひさし)・・・・・・ここはあなたが見つけたの?

  ええ、焚火の跡があるでしょう。以前はここへよく来たんです。腰かけましょう。

音楽(静かに、悲劇的に、台詞に交じる)

路子 ごめんなさい。私、少し興奮してるのね……変ね私。

  いいえ、私が悪かった。あなたの気持ちも考えずにこんな所へ連れてきてしまって。

路子 いいわ。私も神様が与えてくださったこの時間を、素直に享受するわ・・・・・・でも、あの頃のこと思い出すなとおっしゃっても無理よ。思い出したいの・・・・・・いいでしょ・・・・・・。

  梓川がきらきら光っているでしょう。私はここが大好きなんですよ・・・・・・(煙草を取り出す)・・・・・・煙草いかが?

路子 いただくわ。近ごろ私喫(す)いますの・・・・・・変わったでしょう・・・・・・。

マッチを擦る音。

路子 私が初めて煙草を喫った時のこと、覚えていらっしゃる?

  忘れっこない。急に「私にも喫わせて」なんて言って、私をまごつかせる。昨日のことみたいに思い出せる・・・・・・

音楽(力強く、いくぶん悲劇を暗示して、しかし憂鬱ではなく)

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