風が落葉を吹き散らしている。岩の上を枯葉が駆け去る音。
杉 寒くなった。火を燃やしましょう。
枯枝を折る音。マッチを擦る音。やがてパチパチと火が燃えつく音。台詞にだぶって。
路子 相変わらず焚火は上手ね。昔から雪の中でも雨の中でも焚火なさってたわ。
杉 風呂焚きもね。私の山小屋がこんなに大きくなったのもそのおかげかもしれませんね。
路子 ・・・・・・。
杉 しかし、やっぱり昔の山小屋がなつかしい。山好きな人達ばかりが集まってきてくれた頃の方がよかった。今でももっと山奥へ小さな小屋でも建て、引っ込もうかとときどき思います。しかし、もう情熱が湧かない。年齢のせいでしょうか・・・・・・。
路子 そんな・・・・・・まだお若いわ。小屋を造って私にやらせてくださらない? 私じゃ駄目?
杉 ご冗談を。あなたには無理だ。
路子 そうかしら? それにしても十五年・・・・・・あなたとお別れしてから十年になるのね。夢のように過ぎてしまったわ。いろいろなことがあったけど、結局何もなかったよう。
杉 何もなかった! ほんとうに何もなかった。あの頃私は毎日のようにここへ来た。時には半日以上もあなたのことを考えて時を過ごしました。やがて私はあなたの幻影を追うことに疲れ切った。あなたの幻影から逃れるために、山小屋を大きくする仕事に熱中しました。ホテルは残ったけど、私の生活には何の内容もなかった。それは自分から求めた生活でしたが・・・・・・。
路子 言わないで・・・・・・わかるわ。
杉 あなたには秋本がある。
路子 違うわ! あの時なぜ私を掴まえてくださらなかったの?
杉 あなたは秋本と結婚して不幸でしたか? そんなことはないはずだ・・・・・・。
路子 世間並みに・・・・・・幸福でしたと申し上げるわ。主人は死にましたの、この春。
杉 えっ! どうして?
路子 自動車事故で・・・・・・。
杉 そうでしたか・・・・・・遅かった(つぶやくように)
路子 ええ。
焚火の音、急にパチパチと大きくなり台詞に交じる。
音楽(懐古的に)
路子 杉さん、結婚なさったの?
杉 いいえ、独りです。・・・・・・でも約束しました。一週間ほど前、若い娘さんと。
路子 ・・・・・・わかったわ。さっきホールでお見かけした方ね、明るい方。
杉 しかし、どうにも自信がない。歳が違いすぎるし・・・・・・今では早まったと思っています。
路子 ほほほ・・・・・・でもあの方、あなたを愛しているわ。
杉 私と十五も歳が違う。信じがたい。
路子 わかるの・・・・・・女の子には。
杉 まだ子供なんです。コバイケイソウの萌え出る若葉をじっと見つめていて「こんなふうに美しく抱き合えたら素敵だわ! 人間ではとても駄目ね」なんて言って目を輝かせる。
路子 まあ・・・・・・。
杉 あの娘(こ)を幸福にできる男は、私以外の男です。結婚しない方がいい・・・・・・早く気がついてよかった。
路子 いけないわ、そんな考え。
音楽(寂しげに、底に情感をたたえて)
杉 私は長い間あなたを待っていた。
路子 ・・・・・・。
杉 路子さん、今からでも遅くはない。
路子 あなたは結婚の約束をなさったのでしょう。
杉 路子さん、いけないのですか・・・・・・生涯に一度の今日を・・・・・・。
路子 言わないで! 私は知らない。来るんじゃなかった。来るんじゃなかったわ。
杉 路子さん、もう機会は来ない・・・・・・逃していいのですか。僕はいやだ。僕は。
路子 杉さん。いけないわ。
杉 路子さん!
路子 いけない、杉さん。放して、放して・・・・・・。
杉 もう放さない。待っていたのだ。なぜ待っていたのだ! あなたは知らないのだ。
路子の嗚咽次第に高まり、烈しくすすり上げて泣く。泣き声、台詞に交じる。
路子 これでいいの。私はこれでいいの・・・・・・もう放して。
杉 駄目だ、放しはしない。一生放すものか。
路子 (烈しくむせび泣きながら)杉さん、許して。あなたはあの娘さんまで私のように悲しい思いをさせる気なの? 私一人でたくさん。あんまりわがままよ、あんまりわがままよ。約束を破るなんて卑怯よ・・・・・・。
杉 路子さん、路子さん! あなたは!
路子 今度は、今度は私が逃げる番なの。
杉 路子、路子!
音楽(静かに悲しく、諦めを暗示して次第に強くなり消える)
むせび泣き、音楽に交じる。
路子 私には茜(あかね)という娘が一人いるの。私の帰るの待ってるわ。
杉 ・・・・・・。
路子 私達はもう歳をとりすぎたのよ。
杉 うん。
路子 あの方と結婚してあげて・・・・・・。
杉 ・・・・・・うん・・・・・・。
路子 私は幸福だったわ。これからも・・・・・・。
杉 ・・・・・・。
路子 あら、夕焼け! 穂高が燃えているわ!
杉 ・・・・・・。
路子 ほら、奇麗、奇麗でしょ。
杉 うん・・・・・・奇麗だ。
路子 岩が燃えてるわ、紅葉の上で。
杉 あなたも、あなたの頬もピンク色だ。
路子 ふふん・・・・・・私、まだ奇麗? ほほほ・・・・・・。
杉 路子さん奇麗だ、とても奇麗だ。
路子 杉さん、穂高の色がどんどん変わっていく。赤があんなに暗くなったわ。アーベント、ロート! 誰かが言ったわね・・・・・・祈りの美しさだって・・・・・・。
(音楽はなるべくモーツァルトの交響曲第四十番ト短調の全曲中よりピックアップ)