山の挽歌-松田白作品集- › 晩照 › 第一幕
2010年03月22日
第一幕
遠くで水の流れる音。上高地。針葉樹林の中。苔が厚い。足音はないが、ときたま枯枝を踏みしだく音。
路子 静かですわね・・・・・・ホテルのすぐ裏とは思えないわ。(ため息とともに)・・・・・・あーあ・・・・・・冷たい空気! おいしいわ・・・・・・茸の匂いがする。いえ、樹脂の匂いね。ドライジンの匂い・・・・・・苔が厚いわ・・・・・・いつかこんな所を歩いたことがあったわ・・・・・・。
杉 ・・・・・・。
路子 黙ってらっしゃるのね。なぜ? 私にばかり喋らせて・・・・・・。
杉 いえ、ごめんなさい・・・・・・考え事をしていたので・・・・・・十五年も前のことをです・・・・・・。
路子 私も昨夜は眠れなかったわ。
音楽(静かに、回想的に、台詞に交じって)
杉 静かでしょう・・・・・・雪の降る前は、いつもこうなんです・・・・・・葉が落ちて、茸が腐って、その上に雪が降りつむまで・・・・・・。
路子 道がないのね。どこまでいらっしゃるの? でも・・・・・・帰りたくはないのよ・・・・・・。
杉 二十分ばかり登ってもいいでしょう。あなたに見せたい所がある・・・・・・。
路子 いいわ・・・・・・何年か待っていたの、こんな森の中歩く時を・・・・・・。
バリバリと枯枝を踏み折る音。
音楽(少々感傷的に、静かに盛り上がり止む)
ガレを登ってくる二人の鋲靴の音が次第に近づき、かすかな息切れ。
杉 森を抜けましたね。このガレの奥に小さい岩壁があるでしょう。あの上ですよ。
岩屑を踏む足音。軽い息切れとともに次第に遠ざかり、また次第に近づきハタと止まる。
杉 ここからちょっとした登り、あの斜めのバンドを登って上のテラスに出るのです。気をつけて
路子 ええいいわ。先に登って・・・・・・。
岩を攀じる鋲靴の音。かすかな息づかい。岩屑の落ちる音が入り交じる。
杉 ちょっとそこで待ってください。この上が少しオーバーハングしています。私が先に登りますから。
ザラザラと岩屑の落ちる音。
杉 さあ、登っていらっしゃい。気をつけて・・・・・・もうちょっと左にクラックがある。そこに足をかけて手を伸ばしてください。
杉 しっかり掴まって・・・・・・。
音楽(静かに始まり、力強く盛り上がる)
二人の荒い息づかいと、登り終わった気配。
杉 ここなんです・・・・・・私の城・・・・・・。
路子 ・・・・・・お城?
杉 シャトウ スギ。私一人の誰も知らない山塞・・・・・・ごらんなさい、穂高を・・・・・・。
路子 まあ! すてき! 奥穂、西穂、ロバの耳も俎岩(まないたいわ)も見えるわ・・・・・・。
杉 そう、コブ尾根も見えますね・・・・・・。
路子 ・・・・・・杉さん・・・・・・わかったわ・・・・・・私に思い出させようとなさるのね。
杉 いいえ。ずっと前から、たった一度でいい、あなたとここへ来たかった・・・・・・それだけなんです。
路子 いいの、古い傷跡、私は忘れてはいないわ。
杉 そんな、そんなつもりではないんです・・・・・・十五年・・・・・・今では私の心も雪に覆われて凍っていますよ。
路子 私の心も・・・・・・っておっしゃるのね。意地が悪いわ。
杉 まあ腰かけませんか、そんなこと言わないで・・・・・・その岩の窪みは私の城の玉座です。雨が降っても大丈夫。
路子 ほんとうね。岩の腰かけに岩の廂(ひさし)・・・・・・ここはあなたが見つけたの?
杉 ええ、焚火の跡があるでしょう。以前はここへよく来たんです。腰かけましょう。
音楽(静かに、悲劇的に、台詞に交じる)
路子 ごめんなさい。私、少し興奮してるのね……変ね私。
杉 いいえ、私が悪かった。あなたの気持ちも考えずにこんな所へ連れてきてしまって。
路子 いいわ。私も神様が与えてくださったこの時間を、素直に享受するわ・・・・・・でも、あの頃のこと思い出すなとおっしゃっても無理よ。思い出したいの・・・・・・いいでしょ・・・・・・。
杉 梓川がきらきら光っているでしょう。私はここが大好きなんですよ・・・・・・(煙草を取り出す)・・・・・・煙草いかが?
路子 いただくわ。近ごろ私喫(す)いますの・・・・・・変わったでしょう・・・・・・。
マッチを擦る音。
路子 私が初めて煙草を喫った時のこと、覚えていらっしゃる?
杉 忘れっこない。急に「私にも喫わせて」なんて言って、私をまごつかせる。昨日のことみたいに思い出せる・・・・・・
音楽(力強く、いくぶん悲劇を暗示して、しかし憂鬱ではなく)
路子 静かですわね・・・・・・ホテルのすぐ裏とは思えないわ。(ため息とともに)・・・・・・あーあ・・・・・・冷たい空気! おいしいわ・・・・・・茸の匂いがする。いえ、樹脂の匂いね。ドライジンの匂い・・・・・・苔が厚いわ・・・・・・いつかこんな所を歩いたことがあったわ・・・・・・。
杉 ・・・・・・。
路子 黙ってらっしゃるのね。なぜ? 私にばかり喋らせて・・・・・・。
杉 いえ、ごめんなさい・・・・・・考え事をしていたので・・・・・・十五年も前のことをです・・・・・・。
路子 私も昨夜は眠れなかったわ。
音楽(静かに、回想的に、台詞に交じって)
杉 静かでしょう・・・・・・雪の降る前は、いつもこうなんです・・・・・・葉が落ちて、茸が腐って、その上に雪が降りつむまで・・・・・・。
路子 道がないのね。どこまでいらっしゃるの? でも・・・・・・帰りたくはないのよ・・・・・・。
杉 二十分ばかり登ってもいいでしょう。あなたに見せたい所がある・・・・・・。
路子 いいわ・・・・・・何年か待っていたの、こんな森の中歩く時を・・・・・・。
バリバリと枯枝を踏み折る音。
音楽(少々感傷的に、静かに盛り上がり止む)
ガレを登ってくる二人の鋲靴の音が次第に近づき、かすかな息切れ。
杉 森を抜けましたね。このガレの奥に小さい岩壁があるでしょう。あの上ですよ。
岩屑を踏む足音。軽い息切れとともに次第に遠ざかり、また次第に近づきハタと止まる。
杉 ここからちょっとした登り、あの斜めのバンドを登って上のテラスに出るのです。気をつけて
路子 ええいいわ。先に登って・・・・・・。
岩を攀じる鋲靴の音。かすかな息づかい。岩屑の落ちる音が入り交じる。
杉 ちょっとそこで待ってください。この上が少しオーバーハングしています。私が先に登りますから。
ザラザラと岩屑の落ちる音。
杉 さあ、登っていらっしゃい。気をつけて・・・・・・もうちょっと左にクラックがある。そこに足をかけて手を伸ばしてください。
杉 しっかり掴まって・・・・・・。
音楽(静かに始まり、力強く盛り上がる)
二人の荒い息づかいと、登り終わった気配。
杉 ここなんです・・・・・・私の城・・・・・・。
路子 ・・・・・・お城?
杉 シャトウ スギ。私一人の誰も知らない山塞・・・・・・ごらんなさい、穂高を・・・・・・。
路子 まあ! すてき! 奥穂、西穂、ロバの耳も俎岩(まないたいわ)も見えるわ・・・・・・。
杉 そう、コブ尾根も見えますね・・・・・・。
路子 ・・・・・・杉さん・・・・・・わかったわ・・・・・・私に思い出させようとなさるのね。
杉 いいえ。ずっと前から、たった一度でいい、あなたとここへ来たかった・・・・・・それだけなんです。
路子 いいの、古い傷跡、私は忘れてはいないわ。
杉 そんな、そんなつもりではないんです・・・・・・十五年・・・・・・今では私の心も雪に覆われて凍っていますよ。
路子 私の心も・・・・・・っておっしゃるのね。意地が悪いわ。
杉 まあ腰かけませんか、そんなこと言わないで・・・・・・その岩の窪みは私の城の玉座です。雨が降っても大丈夫。
路子 ほんとうね。岩の腰かけに岩の廂(ひさし)・・・・・・ここはあなたが見つけたの?
杉 ええ、焚火の跡があるでしょう。以前はここへよく来たんです。腰かけましょう。
音楽(静かに、悲劇的に、台詞に交じる)
路子 ごめんなさい。私、少し興奮してるのね……変ね私。
杉 いいえ、私が悪かった。あなたの気持ちも考えずにこんな所へ連れてきてしまって。
路子 いいわ。私も神様が与えてくださったこの時間を、素直に享受するわ・・・・・・でも、あの頃のこと思い出すなとおっしゃっても無理よ。思い出したいの・・・・・・いいでしょ・・・・・・。
杉 梓川がきらきら光っているでしょう。私はここが大好きなんですよ・・・・・・(煙草を取り出す)・・・・・・煙草いかが?
路子 いただくわ。近ごろ私喫(す)いますの・・・・・・変わったでしょう・・・・・・。
マッチを擦る音。
路子 私が初めて煙草を喫った時のこと、覚えていらっしゃる?
杉 忘れっこない。急に「私にも喫わせて」なんて言って、私をまごつかせる。昨日のことみたいに思い出せる・・・・・・
音楽(力強く、いくぶん悲劇を暗示して、しかし憂鬱ではなく)
Posted by 松田まゆみ at 11:43│Comments(0)
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