山の挽歌-松田白作品集- › 2009年04月
2009年04月04日
母
凍てついた道を
二升のお米と五合の小豆を抱えて
あなたは歩いておられる
かつて想像もしなかった境涯を
あなたは歩いておられる
ほっそりとした影法師
昔……あなたの幸福と苦痛から
私が生まれた頃
あなたの心の豊かさが
あなたのやわらかい乳房を通して
私の幼い心に感じられた
金のビョウブの枕もと
美しいグリムの童話集を
読んで聞かせて下さった頃
私の頬の感覚に
今も残っているのは
色白な ふくよかな
あなたの頬
子供の科学 模型のモーター
優等生のごほうびに
買って下さったオルガンまで
みんなあなたのへそくりが
私に与えてくれたものでした
ああ けれども
あなたと共に幸福な夢を見ていた
少年の最後の日を
あなたは覚えておられるでしょうか
避暑の榛名(はるな)の火口原
われもこうの花のそよぎの中を
あなたと二人でさまよった時
夕日の中に握りしめた
白魚の指がいとしくて
いつまでもいつまでも
そのままそうしていたかった
あの日から間もなく
父は私達から去りました
差し押さえから逃れるため
先祖からのお寺様へ
三つのつづらをあずかってもらうのに
進まぬ足を運んだ黒塀の路でしたね
落葉たく薄煙の中を
門に入って行かれたお母さん
あなたの藍ねずのコートの色の淋しさ
一変した私達の境涯
私のわがままと
あなたのつきない愛が
いつの間にか私を大人にしました
もう人生の夏を過ぎて
静かな秋に入られようとする
そのあなたが
見知らぬ土地の凍てついた道を
私達に食べさせたい一心から
やっと譲ってもらった闇のお米を抱えて
警官の目を気づかっておられる
下町の裕福な商家に育ったあなた
あなたは山がうらめしいという
山の姿を見ていると
涙が出てくると言われる
それでも私の傍らに居るのが
あなたは一番幸福だとおっしゃるのか……
きゅうくつな借間の中で
毎日毎日 生涯の思い出を
胸深く繰り返して
あなたはじっと耐えておられる
精神的な幸福と
あなたも 世間の人も言うけれど
それでは済まない私の気持ち
お母さん
知っているのです
誰よりも僕が知っていると
口には出して言えない僕ですが
誰のためにあなたが生きておられるかを
2009年04月15日
明暗
そのことを知ったのは
バスの中だった
登山の疲れかバスの酔いか
貴女は私の膝にうつ伏した
その時から私の心の中で
君は私の友達ではなくなった
最後部のシート
曲がりくねった道
私はゆれる君の頭を
そっと抑えた
あの時から私にとって
君は以前の君でなくなった
私の指先にふれた
君の唇 暖かい呼気
私の心は蒼ざめ
私の胸は波立った
私は求め抑えていたものが
何であったかをその時知った
いずれ知らねばならぬ
そのことを
たまさか窓をよぎる街灯のように
光が私の胸に明暗をつくった
苦しみ 喜び 苛立ち 期待
そのことを知った人の子の
やがて持たねばならぬ数々の文字が
私の心に深い明暗をつくった