山の挽歌-松田白作品集- › あとがき › 出版に寄せて(編者あとがき)
2010年03月31日
出版に寄せて(編者あとがき)
六十余年の歳月は、石畳の道をアスファルトに変え、船大工の槌の音を車の騒音に変えた。かつての静かな漁村はマリンスポーツと釣りの島に化してはいたが、昨年の晩夏に訪れた式根島はおもいのほか静寂で、海水浴客の姿もまばらだった。市街地には「トベラの島」の頃の面影を望むべくもないが、島を覆う照葉樹林のなかに一歩踏み込めば、そこには悠久の自然が息づいている。
森を縫う小道はジョロウグモの網にふさがれ、人通りの少ないことを物語っている。そこここにトベラやツバキが濃緑色の葉を広げ、このうっそうと茂る照葉樹林は太古から永遠に生き続けてきたかのようにさえ思える。海岸の岩壁にへばりついている植物も、岩を渡りさわやかな鳴き声を響かせるイソヒヨドリも、島を囲む岩礁海岸も、小さな砂浜も、父が歩いた頃と何が変わっているというのだろうか。この道を父も歩いたに違いない。岩礁に腰を下ろし、しぶきをあげて飛び散る波を見ていると六十余年前に、タイムスリップしていく錯覚にとらわれる。若き日の父がこの島で過ごした数日のことを記した「トベラの島」が彷彿とされるのである。
父が逝って今年で八年になる。遺品の中から出てきた幾冊かの古びたノートには、随筆や山行記録、数々の詩や創作が綴られていた。それは過去の思い出を閉じ込めたものでありながら、しかし自分以外の人に語りかけているものでもあった。
少年時代の初めてのスキーの思い出が書かれた「ボン スキー」にはじまり、ヨーロッパアルプスへの山旅の随想に終わる十七篇の随筆は、山とともに生きた父の山行の歴史の片鱗であり、山と友への想いの込められた作品である。
なかでも「トベラの島」とそれにつづく「青春挽歌」は、それまで家族の目にふれることもなくしまい込まれていたもので、推敲を重ね、読まれることを意識した作品として仕上げられている。「山旗雲」「アルプスの三つの花」「星糞峠」は、創文社から刊行され一九八三年に終刊になった「アルプ」に掲載されたもので、本書では「アルプ」の原稿に若干の手を加え、表記の統一をはかった。
若いころから文章を書くのが好きだった父は、書きためたノートを大切にしまってあった。もっとも古いと思われるノートは「入笠山の記」「浅間山行」「谷川岳に登る」の三篇の山行記録が綴られたものである。「入笠山の記」と「浅間山行」は一九三九年(昭和十四年)、二十四歳の頃に書かれており、太平洋戦争が始まる前のものである。引っ越しのたびに惜しみなく物を処分する父であったが、この戦火をくぐりぬけたノートは青春の記録として残されしまい込まれていたのである。これらは山行から帰ってまもなく書かれたもののようで推敲を重ねたあとはないが、その描写はいきいきとして単なる山行記録とは趣を異にしている。
詩の多くは一九四六年、すなわち終戦の翌年頃につくられたものである。終戦後の貧困のなかで生きる苦しみ、失恋の痛手、悩みといったものが詩作をかりたてたのであろうか。詩は随筆では表せない想いを表現できるのだということを、行間からあふれる感情が伝えてくれる。哀しみ、苦悩、喜び、そういった感情は「詩」という形をとることによって、より深い想いを盛り込むことができるに違いない。父の知られざる一面を垣間見た想いである。
父はまた、穂高を舞台とした作品への想いを抱いていたようだ。古びたノートのなかからは恋人を穂高で亡くした女性を主人公にした未完の小説が二篇と、やはり穂高を舞台とした戯曲「晩照」が出てきた。完成しているのはこの「晩照」だけである。その創作のきっかけとなったのは「五、六のコル」に出てくる女性との出会いではなかろうか。父がフィクションを書いていたということは全く知らなかった。何回か書き直され推敲を重ねている「晩照」には、穂高と恋愛を結び付ける作品への思い入れが感じられるのである。
原稿整理をしながらなんど読み返したであろうか。文章からあふれる人生の哀しさ、苦しさ、友情や愛情。残されたこれらの文章がなければ、父の心の奥底にしまいこまれた恋人や友人、そして山に対する深い想いを知ることなしに終わったであろう。文章ほど人の内面を表すものはないかもしれない。
本書は作品集として、遺稿集として、また見方をかえれば自分史としての一冊になったと思う。そしてまたこれらの作品は、こよなく山を愛した父の、遥かなる山と遥かなる友への挽歌といえよう。辞書を片手に慣れない原稿整理を終え、ようやくひとつの責任を果たした思いである。
初秋の霧ヶ峰は、松虫草のうす紫に染まる。霧ヶ峰に咲く花のなかでもこの松虫草の花が私はいちばん好きだ。数年前、その松虫草の中を殿城山に登った。車山乗越から殿城山への道を分けると、もう誰もいない。殿城山への入口には小さな道標が立ち、細いながらもしっかりした道がつけられていた。台風の尾をひいた霧雨のなかを登りついた山頂は人影もなく、「父の山」にふさわしい小さな頂であった。雲に閉ざされ展望のきかぬ山頂は、むしろ幸いだったかもしれない。この山頂からの景色は、もはや父が眺めていた景色ではない。
子供の頃、ニッコウキスゲで黄色く塗りつぶされたそのなかを分け入って登り着いた喋々深山。黄金色に輝くヒョウモンチョウやタテハチョウを追った真夏の高原。アキアカネが空を覆うように群がり翔んでいた夏の高原。いつ行っても寂しさをたたえた七島八島の湿原。白樺湖から沢渡への春スキー・・・・・・。霧ヶ峰の思い出はつきない。そしてまた父にとって「庭」のような存在であった霧ヶ峰。数えきれない想いでを刻みこんだ霧ヶ峰・・・・・・。
父は今、その麓の地蔵寺に安らかに眠っている。そして高原が松虫草の藤色に染まる頃、命日を迎えるのである。
二〇〇二年七月 記
森を縫う小道はジョロウグモの網にふさがれ、人通りの少ないことを物語っている。そこここにトベラやツバキが濃緑色の葉を広げ、このうっそうと茂る照葉樹林は太古から永遠に生き続けてきたかのようにさえ思える。海岸の岩壁にへばりついている植物も、岩を渡りさわやかな鳴き声を響かせるイソヒヨドリも、島を囲む岩礁海岸も、小さな砂浜も、父が歩いた頃と何が変わっているというのだろうか。この道を父も歩いたに違いない。岩礁に腰を下ろし、しぶきをあげて飛び散る波を見ていると六十余年前に、タイムスリップしていく錯覚にとらわれる。若き日の父がこの島で過ごした数日のことを記した「トベラの島」が彷彿とされるのである。
* * *
父が逝って今年で八年になる。遺品の中から出てきた幾冊かの古びたノートには、随筆や山行記録、数々の詩や創作が綴られていた。それは過去の思い出を閉じ込めたものでありながら、しかし自分以外の人に語りかけているものでもあった。
少年時代の初めてのスキーの思い出が書かれた「ボン スキー」にはじまり、ヨーロッパアルプスへの山旅の随想に終わる十七篇の随筆は、山とともに生きた父の山行の歴史の片鱗であり、山と友への想いの込められた作品である。
なかでも「トベラの島」とそれにつづく「青春挽歌」は、それまで家族の目にふれることもなくしまい込まれていたもので、推敲を重ね、読まれることを意識した作品として仕上げられている。「山旗雲」「アルプスの三つの花」「星糞峠」は、創文社から刊行され一九八三年に終刊になった「アルプ」に掲載されたもので、本書では「アルプ」の原稿に若干の手を加え、表記の統一をはかった。
若いころから文章を書くのが好きだった父は、書きためたノートを大切にしまってあった。もっとも古いと思われるノートは「入笠山の記」「浅間山行」「谷川岳に登る」の三篇の山行記録が綴られたものである。「入笠山の記」と「浅間山行」は一九三九年(昭和十四年)、二十四歳の頃に書かれており、太平洋戦争が始まる前のものである。引っ越しのたびに惜しみなく物を処分する父であったが、この戦火をくぐりぬけたノートは青春の記録として残されしまい込まれていたのである。これらは山行から帰ってまもなく書かれたもののようで推敲を重ねたあとはないが、その描写はいきいきとして単なる山行記録とは趣を異にしている。
詩の多くは一九四六年、すなわち終戦の翌年頃につくられたものである。終戦後の貧困のなかで生きる苦しみ、失恋の痛手、悩みといったものが詩作をかりたてたのであろうか。詩は随筆では表せない想いを表現できるのだということを、行間からあふれる感情が伝えてくれる。哀しみ、苦悩、喜び、そういった感情は「詩」という形をとることによって、より深い想いを盛り込むことができるに違いない。父の知られざる一面を垣間見た想いである。
父はまた、穂高を舞台とした作品への想いを抱いていたようだ。古びたノートのなかからは恋人を穂高で亡くした女性を主人公にした未完の小説が二篇と、やはり穂高を舞台とした戯曲「晩照」が出てきた。完成しているのはこの「晩照」だけである。その創作のきっかけとなったのは「五、六のコル」に出てくる女性との出会いではなかろうか。父がフィクションを書いていたということは全く知らなかった。何回か書き直され推敲を重ねている「晩照」には、穂高と恋愛を結び付ける作品への思い入れが感じられるのである。
原稿整理をしながらなんど読み返したであろうか。文章からあふれる人生の哀しさ、苦しさ、友情や愛情。残されたこれらの文章がなければ、父の心の奥底にしまいこまれた恋人や友人、そして山に対する深い想いを知ることなしに終わったであろう。文章ほど人の内面を表すものはないかもしれない。
本書は作品集として、遺稿集として、また見方をかえれば自分史としての一冊になったと思う。そしてまたこれらの作品は、こよなく山を愛した父の、遥かなる山と遥かなる友への挽歌といえよう。辞書を片手に慣れない原稿整理を終え、ようやくひとつの責任を果たした思いである。
* * * *
初秋の霧ヶ峰は、松虫草のうす紫に染まる。霧ヶ峰に咲く花のなかでもこの松虫草の花が私はいちばん好きだ。数年前、その松虫草の中を殿城山に登った。車山乗越から殿城山への道を分けると、もう誰もいない。殿城山への入口には小さな道標が立ち、細いながらもしっかりした道がつけられていた。台風の尾をひいた霧雨のなかを登りついた山頂は人影もなく、「父の山」にふさわしい小さな頂であった。雲に閉ざされ展望のきかぬ山頂は、むしろ幸いだったかもしれない。この山頂からの景色は、もはや父が眺めていた景色ではない。
子供の頃、ニッコウキスゲで黄色く塗りつぶされたそのなかを分け入って登り着いた喋々深山。黄金色に輝くヒョウモンチョウやタテハチョウを追った真夏の高原。アキアカネが空を覆うように群がり翔んでいた夏の高原。いつ行っても寂しさをたたえた七島八島の湿原。白樺湖から沢渡への春スキー・・・・・・。霧ヶ峰の思い出はつきない。そしてまた父にとって「庭」のような存在であった霧ヶ峰。数えきれない想いでを刻みこんだ霧ヶ峰・・・・・・。
父は今、その麓の地蔵寺に安らかに眠っている。そして高原が松虫草の藤色に染まる頃、命日を迎えるのである。
二〇〇二年七月 記
編者 松田まゆみ
Posted by 松田まゆみ at 11:07│Comments(3)
│あとがき
この記事へのコメント
読み応えありました♪
偶然コチラへたどり着いたんですが、非常に有意義な時間でした!
偶然コチラへたどり着いたんですが、非常に有意義な時間でした!
Posted by アクセスアップボーイズリンク at 2010年03月31日 16:34
>引っ越しのたびに惜しみなく物を処分する父であったら、この戦火をくぐりぬけたノートは青春の記録として残されしまい込まれていたのである。
この文章はおかしくありませんか。
ノートが戦火を潜り抜けて現在に残っているのは、お父さんがものを大事にする人だったからでしょう。引っ越しのたびにものを処分していたら、ノートが戦火に遭遇することもなかったのではないでしょうか。ここは次のように書き直す必要がありませんか。
>引っ越しのたびに惜しみなく物を処分する父であったら、このノートは戦火を潜りぬけることもなく青春の記録として残ることもなかったのである。
この文章はおかしくありませんか。
ノートが戦火を潜り抜けて現在に残っているのは、お父さんがものを大事にする人だったからでしょう。引っ越しのたびにものを処分していたら、ノートが戦火に遭遇することもなかったのではないでしょうか。ここは次のように書き直す必要がありませんか。
>引っ越しのたびに惜しみなく物を処分する父であったら、このノートは戦火を潜りぬけることもなく青春の記録として残ることもなかったのである。
Posted by 作家志望 at 2015年06月15日 14:55
作家志望さん
ご指摘ありがとうございました。
「引っ越しのたびに惜しみなく物を処分する父であったが」の間違いでしたので、修正しました。
ご指摘ありがとうございました。
「引っ越しのたびに惜しみなく物を処分する父であったが」の間違いでしたので、修正しました。
Posted by 松田まゆみ
at 2015年06月15日 18:37
