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2009年02月09日

奥霧ヶ峰から男女倉へ

 ヒュッテネーベルを中心として、ゲレンデにツアーにスキーを楽しみ、また技術を研究しようという仲間達が集まって、ネーベルハイマートシーグルッペという長い名前の、しかしささやかなクラブを発足させたのは、昭和二十年の初雪の訪れた頃のことだった。
 その第一回のスキーツアーをどこにしようと考えたすえ選んだのが、この奥霧ヶ峰蝶々深山(ちょうちょうみやま)から男女倉(おめぐら)への処女滑降だったのだ。
 往昔(おうせき)、いわゆる男女倉越えとは、諏訪から和田峠を越えて小県へ通ずる中仙道の開通だったということで、今でも男女倉越路は和田峠の本道と萩倉で分かれ、東俣の御料林中を八島湿原に上り、そこから白樺と唐松の疎林の中を男女倉へ、細々とした路を通わせている。しかしこの路は、スキーの滑降路としては広大さにも急峻さにも欠け、いささか物足りないように思われたので、前記の蝶々深山の稜線から男女倉に滑り込む豪快な滑走を計画したのだ。
 さて、私達同行の人が温かいネーベルのホールを後にしたのは、二月一日の朝九時半だった。三日前に降った雪は前日の風ですっかり締まっていて、気にしていたラッセルの苦労もなく止塚(とめづか)から沢渡(さわたり)に滑り込み、ヒュッテジャベルに立ち寄ってひと休み。ヒュッテの裏から、いよいよ蝶々深山への幅広い尾根のジグザグ登高となる。
 初夏、高原の星ニッコウキスゲをちりばめ、盛夏、松虫草の藤色のヴェールを被る華麗な色彩のこの尾根も、今は白一色の一メートルあまりの雪の下、シュカブラの小波の上を北風太郎が奇声をあげて駆け回っている。
 アップターンに塗った登高用ワックスが素晴らしく効いて、快適な登り四十分。登りついた蝶々深山の頂稜では、霧氷を装った唐松がわれわれを迎えてくれた。左は風をはらんだ白いスカートの膨らみに似て、八島湿原に下る優美なスロープ、右は楯の半面を見せて、ものすごい雪庇(せっぴ)の張り出した男性的な四十五度の雪壁だ。
 晴れ渡ったコバルトブルーの空の下に展開された、遠近の雪山のパノラマ。蓼科山、八ヶ岳、南アルプス、中央アルプス、北アルプス、美ヶ原、そして浅間山までがゆうゆうと煙草をふかしている。
「しまった、カメラ持ってくるんだった」
「まあモデルになっていろ」
 頂稜を少し西に進んで、大笹峰を分岐する尾根を横目に、次の男女倉沢に落ちる尾根の一角に立って、さて滑降コースの選択だ。打ち見たところ、降り口はいずれも四十度の雪の壁。
「あっちへ回って、あそこを降りようか」
「いや、こっちなら雪庇が切れているぜ」
 ガヤガヤ……。
「エイ面倒だ、ここを降りちゃえ」
 で結局、足下に向かって強引な滑降に一決。見通しは良し、適当な所から斜めに左に切れば、六キロの素晴らしい雪のスロープが男女倉に向かって延びているのだ。
 まずは急斜面突破に体当たり玉砕の猪突猛進型、横転宙返りのパイロット型、斜滑降キックターンの慎重型。しかし、さしもの勇士達も、雪崩の跡に出会った時はさすがの妙技も影をひそめて慎重になった。二十度の緩斜面になってからは、思わずも雪山の歌が口をついて出る長い愉快な滑走が続いた。
 すっかり上機嫌の私達だったが、好事魔多しとやら。男女倉口の貯水池畔で昼食が終わった途端、いささか憂鬱になった。
 それは和田峠まで乗るつもりでいたバスが現在通っていないということを聞いたからだ。
 急に重くなったスキーを肩に、私達は真新しいトラックのタイヤ跡の残るバス道路を、バスの出現に果敢ない期待をかけながら登り始めた。遥かな谷奥に輝いている和田峠の稜線を恨めしそうに眺めては、代わる代わるにぼやく。
 しかし、神様は心がけのよい四人の者達の苦労をそのままに見逃されるはずがなく、やがて繭袋のクッションを敷いたトラックをお遣わされたのだ。
 魂の奥底から喜びと感謝を捧げたのは、近頃とみに肥ってきたという一番まいっていたO君だった。
 瞬く間に着いた和田峠でトラックを降りた私達には、再度樋橋までの十キロの滑降が待っていた。峠の頂から遥か下諏訪の町の彼方に、銀盆のように光る諏訪湖が見える。あの岸辺に私達の家があるのだ。否、その前に「ウーイッ」、祝杯のビールの泡につながっている。
 十キロの滑降は、ご想像におまかせしよう。


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