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2009年02月23日

ゴルナーグラートにて(1)

 立てめぐらされた灰色の壁の中に、私達の足跡が消えている。無数の雪片が音もなく生まれるのも、その壁の中からである。ゴルナー山稜は、はてしない大洋を漂う巨大な鯨の死体に似ていた。空も海も灰色に閉ざされ、降りしきる雪に塗(まみ)れ腐臭もなく、それは浮かんでいた。今この広い尾根にいるのは、おそらく私達二人だけである。この時、私の脳裏をかすめたのはリングワンデリングだ。足の向こうだろうこの尾根の左側は、ゴルナー氷河に削られた急崖が続いていることを私は知っていた。引き返すべきか? 足跡が消えないうちに。
 その朝、登山電車の終駅ゴルナーグラートの展望台では雪が激しく降っていた。昨夜来の真夏の雪である。氷河が、それとわかる白さを現わしてはたちまちかき消える。モンテローザもマッターホルンも姿を見せるはずがなかった。シュトックホルンのロープウェイも運転休止。国境山稜のカステルフランコの門への氷原散歩は、すでに望みを断たれた。観光客はレストランでお茶を飲むと、再び電車の客となってしまう。「たかが登山電車の走る高原だ。せっかくの登山靴を泣かせては」と、気楽に踏みだしたゴルナー山稜だったが、三十センチの新雪に覆われたそこには足跡ひとつ見当たらなかった。考えてみれば、今頃本格的な登山者がこんな所をうろついているはずがなかったのである。
 だが、機転は意外に早く訪れた。高度三千メートルを境に、可視と不可視の領域が今はっきりと分かれようとしていた。雪は名残り惜しげに私の肩にまつわり、静かに霧を這わせる雪原が私達の前に広がっていった。安堵と希望の中を、もはや確実にそれとわかるリュッフェルホルンの黒い岩壁を目指して、私達は一直線に雪を踏めばよかったのである。
 一昨日の今頃、私達はここから遥かフィンデルン氷河を隔てたフリューアルプを歩いていた。雪交じりの氷雨の中に、それでも露を含んで重たげなエーデルワイスが花を広げ、半開のアルパインアネモネがレモンイエローの頭を垂れていた。モスシャンピオンのピンクのモザイクを抜いて、ゲンチャナのアクアマリンが星のようだったが、今日はそれらも間違いなく雪の下だ。私達には無情と思われる雪も、アルプの花々には日常茶飯事のことなのだ。
 リッフェルゼーを見下ろす白い丘にぽつんと立った背の高い道標を見上げて、私達は思わず目を見合わせた。「モンテローザヒュッテへ二・五時間」と記されていたからである。実のところ、私達は昨日この雪の下にあるであろう道を、ゴルナー氷河を渡ってモンテローザ小屋に行くはずだったのだ。しかし、その朝ツェルマットの駅前で落ち合ったガイドは空を見上げて言った。
「あと一時間でここも雨になる。山は駄目だ。たぶん明日もね」
 気の毒そうな、しかしとりつきようもない青い目の色を残して、彼はさっさと行ってしまった。幅広い肩に蝶のようにとまったザックを、私達は恨めしげに見送ったのである。
 下り着いたリッフェルゼーの湖面は、絵葉書でお馴染みのマッターホルンに代わってリッフェルホルンの暗い岩場が占領し、銅鏡のように黙然と動かなかった。南を遮られた雪が足に冷たい。私は雲の明るい稜線のコルへのゆるい斜面を登っていった。ここからは、氷河が見下ろせるはずだったし、それよりも暖かい休息の場が欲しかったのである。そしてコルから氷河に落ちこむ急崖の三十メートルほど下に小屋らしい屋根を認めると、私は躊躇せず急斜面の雪を蹴った。氷河に南面するその小さな小屋の扉は閉ざされ、小屋前の雪のテラスにも人の足跡はない。
 真向かうゴルナー氷河は陽を失った氷原に大小の氷河湖を載せて、寂寞と横たわっていた。氷河の上、モンテローザが押し出すデブリのあたりには和やかな陽光の漂いがあったが、リッフェルホルンの裾を過ぎると急激に斜面を増し、クレバスや氷塊(セラック)の狂奔(きょうほん)する中をツェルマットの谷に湧き上がる鉛色の霧の中に落とし込んでいた。対岸ブライトホルンの北壁に落ちかかる懸垂氷河が、早い霧の動きの隙(ひま)に出没する。背に戦(おのの)きの走るのは、ときおり雲を割る薄い陽がそのクレバス群の鈍色(にびいろ)を刷く瞬間である。
 灰色の四千メートルに立ち並ぶ峰々の見えぬまま、私は人差し指を左から右へ移動させていた。
「あの辺にヴァリスの銀の鞍、リスカム、その隣りにカストアとポルックス、正面はブライトホルン頂稜があるんだよ」
「カストア、ポルックスって、あの双子座の兄弟星のこと?」
「そうだよ。可愛らしい尖峰が二つ並んでるんだ。山の向こう側はイタリーさ」
「くやしいわ。何も見えないんだもん。地球の裏側まではるばるやってきたっていうのに」と英子は嘆く。
「こんな日もまたいいさ。雲の中の山は際限もなく高いし、晴れた日の氷河にはこんな非情な美しさはないよ」
「そうよね。来たこともないくせに、山の形までわかる人にはそれでいいわよね」
 皮肉を含んだ目の色が私をにらむ。
 そうだ、その通りなのだと私は言いたい。
 四十年も前から私はここに来ている。それも晴れた日ばかりだ。ここは私の瞼の故郷なのだから……。今も私の網膜には巨大な砂糖菓子のようなモンテローザが映っている。マッターホルンの鋼鉄の塑像もダンブランシュもドームも。それのみか私はワイスホルンの削ぎ落とされた氷のリッジを攀じたことさえある。ツェルマットの教会の鐘、クロの墓、モンテローザホテルのウィンパーのレリーフ、それらは私の網膜の虚像と寸分の違いもなかったが、ただ山々だけは旧知の姿を確かめようもなかった。


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