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2009年02月24日

ゴルナーグラートにて(2)

「晴れるんじゃない? 陽が差してきたわ」
 英子が目を輝かせる。
 確かに柔らかい日差しが雪を温め、時には青空さえ雲間に覗く。そんな瞬間、噴火口に似た氷河湖の辺稜がきらりと光る。
「あそこまで降りてみたいわ」
 彼女は眼下百メートルのシュルントを指差す。しかし私はいかにも時間が気にかかる。
「ともかく休もうよ」
 私は小屋の三、四段ある階段を上って入口の扉に背を寄せた。
 国境山脈を越えて、遥かなイタリーの太陽が小屋の板壁を温めている。夏の雪は生クリームのようだ。廂(ひさし)から絶えず雨滴(あまだれ)が落ちていた。
 私はザックから乾肉とパンを取り出し、英子はテルモスのコーヒーをカップに分ける。何かほのぼのとした気配が私達を包んだ。
 雨滴は逆行の中でこぼれる真珠となり、連なってガラスの糸になる。そして雪の中に小さな音が散らばる。英子の瞳の奥を真珠が流れる。それはひどく小さくて音がない。真珠が突然乱れて、英子が言った。
「私ね、今、幸せいっぱいなの……」
 英子から同じ言葉を聞くのは、これが二度目である。
 最初はシャモニイから来る途中で寄った、シオンの古い城跡のある丘の上でだった。私には適当な返事が見当たらない。
「また来ようよ」と私は言った。
「今度は十日くらいシャレーを借りてね」
「ほんとに?」
「ほんとさ。ブライトホルンに登ろう」
「私にも登れる?」
「登れるさ。ザイルが要るかもね」
「嬉しいっ! きっとよ」
 膝に置いた彼女の指の小さなダイアが光る。自分で働いて買ったコンマ二六カラットのそれは、いつの山行にも英子の指にある。ダイアは硬いから気が楽なのだというそのリングのプラチナに残る無数の擦り傷は、そのまま私達の山行のメモリーなのである。
 振り返ってみれば、私達の青春は灰色だった。私達にもささやかながら Sturm und Drang といわれる時代がなかったとは言えない。しかし、それらはすべて戦争という大きな拘束の中に過ぎ去ってしまった。戦前の私達に今ここにある現実をどうして想像できただろう。アルプスは夢にさえ現れない存在だったのだから。
 それは戦前を体験してきた世代だけが知っている。真新しいザイルで疎開の荷を作り、スキーを炊いて風呂を沸かした日は今でこそなつかしい。思い出したくもない困難な時代を兎にも角にも私達は生きてきた。そして本で読み、写真で憧れたアルプスが与えられた今、私達には人工登攀の技術も、それを試みる体力も失われていたのである。だが、それを嘆くことはないのである。
 私はモンテンベールで、レストランに入ってきた老登山家夫妻をこの目で見た。メールドグラスから登ってきたばかりらしい彼らの腰には、濡れたアイゼンがぶら下がっていた。二人の足取りの確かさは、今も私の目に焼きついている。たとえシャモニイの岩は登れなくても、スイスには私達の登り得る四千メートルの峰々がある。氷河を詰め、岩と雪の峠を越えて、花の谷を下る幾多のルートがある。
 紺青の朝まだき、氷雪に粧(よそお)われた群峰に囲繞(いじょう)された氷河のただ中を、自分たちのペースを守り、ヒドンクレバスを探り、短いザイルを結びあう。そんな想像が私を楽しくさせた。
 私達は長い間無言だった。この平和で怠惰な時間こそ、貪(むさぼ)れるだけ貪ればよいのだ。ともあれ、そこに身を置いた感傷のエアポケットに立ち入るものは何物もなかった。
 幻のように小さな三つの人影が斜面の岩と雪を縫って近づくのが見えた。ピッケルを突く小柄なのは女性だろうか? たぶんモンテローザ小屋からの帰りなのだ。私達にも立ち上がる時がきたのである。左手の丘にぽつんとローテンボーデンの駅舎が見える。リッフェルベルクまで広がる広大なアルプに、また霧が裳裾(もすそ)を曳きはじめていた。しかし、こんな日にもアルプスには異常なほどの明るさがある。そこには胸を満たす郷愁はあっても、カナダの森にあるような野生の寂寥(せきりょう)はなかった。
「あら、可哀そう。お腹空いているのね」
 英子の指差す山羊の群れの二、三頭が、前足で雪を掘って餌を探していた。近づいてカメラを向けたら、真黒な羊導犬が山羊の腹を頭で懸命に押し始めた。彼らをわれわれから遠ざけようというのだろう。
 霧を恐れて私は電車の軌道沿いを歩いた。そこには幾つかの先行者の足跡もある。背後に近づく電車の気配に振り返りもせず歩いていた私の肩をかすめて、電車は警笛も鳴らさず通り過ぎた。思いのほか幅広い車体に驚くと同時に、私をドキリとさせたのは窓から怒鳴る運転手のエンマ顔だった。しかし、電車は静々と走り過ぎて去った。ここは日本ではなかったのである。
 極彩色のキリスト像の立つリッフェルベルグの駅前で、足が冷えたから電車で帰るという英子と別れると、めっきり少なくなった雪道を私は一人リッフェルアルプに向かった。ここは旧(ふる)いモレインの一端なのだろうか。
 丘はアルプに急降下する。マッターホルンは相変わらず雲の中だったが、ヘルンリ小屋から下では、ちぎれた雲の動きが早い。青黒く沈んだツェルマットの谷に、疎らな木立を載せたリッフェルアルプの鮮やかな緑が浮かぶ。
 かつてこの国は、貫流する氷河を除いて黒々とした針葉樹の森に覆われていたに違いない。森に接した狭い岩礫帯が高山植物や地衣類の住処だったのだろう。人間が谷を遡り、森を伐り、家畜を飼ってアルプをつくったのだ。
 彼らの貧困と苦労は、想像に難くない。そして彼ら四カ国の言葉を話す人々が得たものは、想像以上に明るく透徹した風土だった。私は以前からスイスやチロルの民謡のもつ底抜けの明るさを不思議に思っていた。そこにはドイツのロマンも、フランスのエスプリも影をひそめる。長い冬が過ぎ、一時(いっとき)に花開くアルプ。彼らの苦労の一年は、束の間の春に凝縮されてしまうのだろうか。
 スイスの人はけちで利己的だという。反面、人々は大変親切だ。秋の意識は直ちに生活防衛につながる。アルプには人々の哀歓が色濃く染みついているのである。
 リッフェルアルプに着く頃、とうとう霧雨が降りだした。教会もアルプの家々も薄いヴェールに包まれ、道傍のレストハウスのポールにスイス国旗が濡れしぼむ。窓から外を見ていた男の子にバイバイと手を振ったら「コンニチワサヨナラ」と言った。
 停々(ていてい)と聳える針葉樹の梢が、まつわる霧ににじむ。ツェルマットはもう近かった。私の好きな山旅の終わりの充足感が、気怠(けだる)く私を包む。
 いつの間に追いついたのか、前を行く若いカップルから私は十五メートルの間隔を詰めようとはしない。彼女の裸の背を覆う金髪が、霧を含んでゆさゆさと揺れていた。


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