さぽろぐ

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2009年01月20日

S島へ

 海面を覆っていた朝霧が風に吹き払われて山手に昇っていくと、コバルトの海と入江に延びた突堤が見えてくる。そこには七、八艘(そう)の漁船と、際立って美しい白塗りのヨットが浮かんでいた。それがSのヨット「ダフネ」である。ヨットはエンジン付きだという。この辺の海は潮流が速く流れも変わりやすいので、エンジン付きでないとさすがの女丈夫も怖くて乗れないのだという。
 あの船に乗ってS島に渡るという、私にとって信じがたい事実がこれから起ころうとしていた。私の胸はときめいた。この興奮は昨夜からずっと続いているものだ。海沿いの道から少し登った山腹にあるSの知人だという家は、老夫婦二人だけの静かな住居である。石榴(ざくろ)の大木のある庭から真下に、小さな防波堤に囲まれた漁港が鏡のような海をたたえていた。
 昨夜はSと遅くまで語り合った。人には向かい合っていると妙に気詰まりで、話題に困る人がいる。反面、次から次へと話題が湧き、時を忘れて話し込んでしまう人間同士もいる。そんな人に限って、たとえ長い時間を黙って相対していたとしても、まったく気楽な気分でいられるものだと思う。気が合う、ということなのだろう。
 Sも私も山が好きで、山の話はつきることがなかった。彼女は二日前に、絵を描くためにこの島に来たのだという。ただし絵は余技だという彼女がどんな種類の女か、私には見当がつきかねていた。金持ちで暇を持て余しているお嬢さん、という柄にも見えなかった。彼女は、東京の大きな商事会社に勤めている英文タイピストだと言った。その頃、女性の英文タイピストは数少なく、高給取りだということを私も知っていた。暇のある職業ではないが、亡父の法事を理由にぴんぴんしている母上まで病気にしてしまって、十日間の休暇をとってのんびりしているのだと言って舌を出したのだ。ダフネは、欧州航路の客船の船長だった父の形見だという。
 ごく自然の成り行きで私はSを「姉さん」と呼び、彼女は私を「坊や」と呼ぶことになってしまった。そんな彼女は言った。
「坊や、明日私と私の島に行かないか? 家に泊めてやるよ、もちろんロハで……。私の島は小さいけど静かで、こんな島よりよっぽどいいよ。船には強いんだろう?」
 私は内心期待していたその言葉に、シメたと思った。Sとの外洋帆走、そして小さな島。私はぞくぞくするほど嬉しかったのだ。渡りに船なんてもんじゃなかった。船酔いには自信があるけれど、あまり厚かましいから……と一応は遠慮したものの、「遠慮するなって、山の男らしくないぞ」と言われると、一も二もなかった。Sは笑って言った。
「家にはオフクロっていうおとなしい動物が一匹いるだけ……。私の天下なんだから、気を使うことなんてないよ。だけどね、船に酔ったって岸につけてなぞやらないぞ。覚悟してろ」
 もちろん、私もそれは承知している。島から島へのセーリングでは、船つけようにもつける場所がないのだから……。
 出帆の準備は楽しい。甲板を洗う。船室を掃除する。油を補充して、エンジンの試運転をする。帆のセットも終わり、私は風見代わりの真赤なリボンを帆柱に結びつけた。
 実のことろ、私はヨットの経験があった。東京湾、葉山等でだったが、親戚の持船を借りて従弟と帆走を楽しんだ一時期があった。もちろんダフネのように立派な船ではなかったし、外洋といえる海は未経験だった。
 アンカーロープを整理している私を見て、Sは怒鳴った。
「コラッ、坊や! 君はヨットやったことあるなっ。わかるよ、私には……」
「フフン、ディンギーなどちょっとね。でも外洋は初めて。せいぜい三崎沖くらいしか出たことないんだ」
「フーン、楽しくなっちゃったな。ようし、それじゃあコキつかってやるぞ……。ほんとうはこの船、一人じゃ手に余るんだ。助手がいるとわかったら、少しセーリングで遊ぶか……。エンジンで行っちゃうつもりだったけど」
 Sの言葉はまるっきり男のそれになっていた。
「もち、セールだよ。姉さんの腕が見たいもん」
 この機会を逃したら私は一生、外洋の帆走などできないだろうと思うと、一時間でもいい、帆走してみたかった。
 大きなくらげが舷側に浮いていた。寒天のような傘を広げ、真青な海にのんきげに浮かんでいた。振り仰ぐ海蝕崖の上は滴るような緑で、その中に民家の屋根がぽつりぽつりと見え隠れした。私は、オセアニアのどこかの島にいるような錯覚にとらわれていた。
 纜(ともづな)をといて突堤をひと突き、ダフネは静かに海面に滑り出た。私はSの真紅のネッカチーフを頭に被り後頭部で結ぶと、舳の甲板に立った。
「ヨーソロ、面舵一杯!」
 ジフ(三角前帆)がはためく。
「いいぞいいぞ、赤い海賊」
 Sが冷やかす。
 この瞬間、私の頭からは何もかもが吹っ飛び、その昔、地中海を荒らし回ったという海賊シーフォークの気分になる。いささか重量感に乏しいシーフォークであったが……。
 外洋は昨日の名残のうねりが大きく、さすがに私の肝を冷やしたが、それもはじめのうちだけだった。私達は洋上遥かな積乱雲に向かって、クローズホールド(風上に向かってジグザグに走らせる航法)に入った。


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Posted by 松田まゆみ at 14:07│Comments(0)トベラの島
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