さぽろぐ

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2009年01月23日

地獄(2)

 Sが突然立って言った。
「さあ、行こう」
 私はびっくりしてSを見た。
「もう帰るの?」
「これから、まだ行く所があるの……。行こうっ」
 Sは私の手を引っ張って立たせた。
 歩きながら、Sはトベラの花房を摘んでは篭に入れている。私もSと肩を並べた。この夕暮れに、Sはどこへ私を連れていくというのだろうか。
「どこへ行くのさ?」と私は聞いた。
 黄昏の中でSは立ち止まり、私の眼を覗き込んで笑った。
「地獄へ行くんだよ」と、小さな声で言う。
「えっ、地獄?」
「そう、地獄さ」
 Sの低い声に冗談と知りつつ、私は何か知れずぞっとするものを感じた。
 元の道に戻ると、Sは断崖の方に歩み寄る。
「飛び降りるのでは? まさか」
 一瞬そんな予感めいたものを感じた私は、すぐそのばかばかしさに苦笑した。崖淵で振り返ったSが微笑して言う。
「ここから降りるよ。道があるのさ」
 道は途絶えていると思ったのだが、実はそうではなかった。急な崖の岩壁には、電光形にかなりしっかりした足場が刻まれてあった。
「滑って落ちた慌て者もいるのだから、気をつけなさいよ」と再び言い、Sはどんどん下っていく。
 道の悪さより、私には右手六十メートルはあろう垂直の岩壁の真下の薄闇がひどく気味悪かった。そのあたりには黒い海が入り込んでいて、白く泡だった海水が、何か得体の知れない獣が蠢(うごめ)き息づいているように見えたからだった。
 降路の正面には崖下からそそり立つ二つの岩塔が黒々と立ちはだかっていたが、ちょうどそれは高さ四十メートルを越える大岩塊を、巨大な鉈で一気に割り裂いたもののように見えた。
「あれが地獄?」と聞くと、低い声で「違うよ、あれは地獄の門」とSは答える。
 下りきった地獄の門のあたりは薄闇に包まれていた。湿った空気の漂いの中で、Sの顔が微笑んだ。
「あの門をくぐって、二人で地獄に落ちようよ」
 私の背すじを、またしても冷たいものが走った。別に怯えていたわけでもないのに、「おどかさないでよ」と言う私の声は少し嗄(か)れていた。
 地獄の門の岩壁の狭間には細い道が吸い込まれていたが、その限られた狭い空間の向こうには明るく白い海が光っていた。
 そこは岩塊がごろごろと積み重なっている岩礁で、足元の岩盤の溝には赤茶けた水がたまっていた。磯の香に混じって、異様な臭いが鼻をかすかに刺激した。
「三途の川よ」と言って、Sは溝を飛び越えた。
 大岩をぐるりと回ると、その岩陰にかなり大きなタイドプール(引き潮の時、海岸の岩間に海水が取り残されてできる水溜り)があった。しかしそれはただのタイドプールではなくて、水面に白い湯気を漂わせている海辺に湧く温泉だった。「そういえば、この島は火山島だったっけ」と、今さらのように私は温泉の存在を認識するのだった。
「なーんだ、温泉か!」
「そうさ、坊やを洗ってやろうと思ってね」
 天然の岩風呂は三方を大岩に囲まれ、海側だけが開いていて、そこから岩の裂け目を通じてすぐ前の海と連絡していた。波が寄せるたびに海水は湯船の中に少しずつ入り込んでいた。大潮の時はたぶん海面下になるのだろう。付近の岩床や岩塊には薄緑の藻類が付着していた。湯船は広く、いくらか濁っていて底は見えなかった。奥は岩の陰で暗かった。前面の海には幾つもの岩礁が入江を鎧(よろ)うように立ち並び、それらはみな水蝕によって奇怪な形に削られていた。空にも海にもまだ残光があったが、背後を限る島の岩壁は上部のピンクを残してすでに夜の色だった。
 私は平らな岩の上に腰を下ろして、傍らにランタンを置いてから言った。
「姉さんに、すっかりおどかされちゃった」
 Sも私の横に腰を下ろし、笑って「地獄のことか……」
 そして後を言わずに、じっと空を見上げていた。
「地獄か……」
 再びSは独り言のように言ったまま、黙り込んでしまった。


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Posted by 松田まゆみ at 16:35│Comments(0)トベラの島
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