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2009年01月24日

地獄(3)

 空に二つ、三つと星が現われはじめると、たちまちその数を増していった。私はランタンに灯を入れる。その炎はオレンジ色の柔らかな光の輪を周囲の岩に投げかけたが、その意外なほどの明るさも、湯船にはかすかに光を届かせるだけだった。
 思い出したようにSが言った。
「入りなさいよ。汗を流すといいわ」
「でも熱くはない? 僕は猫なんだから」
「ぬるいから大丈夫だよ。さあ、タオルよ」と言う。
 私がまだもじもじしているのを見ると、「恥ずかしいの? じゃあ、私は岩の後ろに退散するからさ」と言って立ち上がった。
 私はその言葉に、「姉さんは入らないの?」と言いかけたが、思い直して口をつぐんだ。恥ずかしい気持ちが先に立ったのだ。
 服を脱ぐと、海水の入り込むあたりから私はおそるおそる湯の中に足を滑り込ませた。湯はぬるく、底は粗い砂地だった。湯の中から、暗い磯に波が静かに砕けているのが見えた。空ももう夜で、数知れぬ星々が競うように輝き出していた。
「どお? お猫さん、いいお湯?」
 岩の後ろからSの声がかかる。
「うん、とても! 星も素敵だし!」
 しばらく間を置いて、またSの声がした。
「私も入ろうかな……いけない?」
「うん、いいさ」
 もしかしたらと、そんな期待もないではなかった私だったが、いざとなると急に心臓の鼓動が高まった。
 突然、はらりと岩越しに湯の中に白い物が投げ込まれた。続いて、ぱらりと投げ込まれた白い物は湯壷に浮いて強い匂いを湯の面に漂わせた。トベラの花だった。
 岩間にちらりと白い肩らしいものを見てSが来るのを意識すると、私は目をそらせて湯船の奥に向き直った。
「向こう向いてて」と言うSの声。
 身体を湿す湯の音に、閉じられた私の網膜は、すらりと長いSの足が湯の中に滑り込むのを捉えていた。
「匂うね、トベラの花……。もうこっち向いてもいいよ」
 頭の上に束ねられた髪の毛を、双手を上げて直しながら言った。
「びっくりした? はしたない女だと思ったろう?」
「ううん、そんなこと……」
 私はその先を何と言おうかと戸惑ったが、やっと「姉さんだもの、いいじゃない」と言った。
「そうだったね。白状するとね、島の若い男や女達はここへよく入りにくるのよ。混浴ね。島では当たり前のことなんだけど、東京に住んでいた私は島に友達もいなかったし、村の人と一緒に入る気になんかなれなかった。でも、ちょっぴり混浴のスリルも経験してみたい、なんて気はあったのさ。そこへ坊やというカモでしょ」
「でも、今ここへ村の人が来るカモよ」
「来っこないさ。そういう時と日を選んだんだもの。でも難しいのよ、このお湯の時間。満潮でも、潮が退きすぎていてもいけないし、雨でも駄目。昼間は人が来るし、それに今は海老の漁期で村の人は忙しいから来ないよ」
「それにしても、演出は満点だったよ。姉さんは芝居がうまいよ。すっかりかつがれちゃった」
「フフフフ」
 岩の簀(すのこ)に腰を下ろした私の背中を、Sはごしごしと海綿でこすってくれた。
「案外、筋肉がついているね。山やスキーをやっているからかな。さあ、もういいよ」
 平手でピシャリと背中を叩かれて、私は湯船に飛び込んだ。
 Sは海に向かって両腕を上げ、髪を結っている。ランタンの淡い光を片側に受けて、白い背や腕が星をちりばめた空に浮く。やはり女らしいふくよかな線だった。
 私はヨットの中でSから聞いた、人魚の話を思い出していた。N島のA神社にまつわる話である。
 昔、ある鮑(あわび)採りの漁師が近くの磯で潜水していると、海底の岩の上に子どもを抱いた人魚が腰をかけているのを見つけた。人魚も人間にその姿を見られたことに気づくと、漁師に「お願いだから、私の姿を見たことをほかの人に言わないでください。でないと、私はあなたを取り殺さねばなりません」と頼んだ。漁師は十数年間その約束を守っていたが、ついにある会合の席で、酒の酔いも手伝ったのだろう、このことを自慢げに仲間達に話してしまった。その翌日の夜から漁師は急に高熱を出して、数日を経ずして死んでしまった。仲間はそれを知るとおののき恐れ、人魚を神にまつりA神社と名づけた。という物語である。
 私はSの背に向かって声をかけた。
「姉さん、人魚みたいだ」
「馬鹿!」
 Sは振り返ると、掌に湯を掬って私を目がけてひっかけた。そして私の逃げる隙にお湯の中に飛び込んだ。
「坊やがあんなこと言うものだから、腰から下に鱗が生えてきそうだよ」と言った。
「姉さん! 姉さん見たって言わないから、取り殺さないでよね」
「許せないよ、ゴルゴンにしてやる!」
 沖に漁火らしい赤い灯が点々と連なっていた。ときたま海面が青白く光るのは、夜光虫だろうか? 灯台の投げかける光だろうか?
 降るような星空だった。
 トベラが匂う。暖められてにじみ出したその精油の匂いは強い。それはもはや香とはいえなかった。野生の匂い、妖しく悪魔的ともいえるその匂いは、私にはあまりにも刺激が強すぎた。花びらは白く点々と湯に浮かび、Sの丸い二の腕にまつわりついて離れようとはしなかった。


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Posted by 松田まゆみ at 14:13│Comments(0)トベラの島
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