さぽろぐ

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2009年01月21日

Sの家

 樹陰に陽のこぼれる石畳の坂道を、トンカントンカンとのんびり木霊する船大工の槌の音を背に、私達は登っていった。ほかには何の音もしない。狭い石畳の道は、どこまでも続く。雨の多い島なのである。緑の奥に屋根だけをちらほらさせる民家が、わずかに人の生活を匂わせていた。だった一人行き会った老婆は、立ち止まって丁寧に頭を下げた。両側に続く生垣の道を二十分ほども歩いただろうか、道は海に向かって下る。左側の山茶花(さざんか)の垣根が途切れると、黒く塗られた立派な門が現れた。そこがSの家だった。
 玄関に導く青い敷石の両側には、今が盛りのトベラの白い花が咲き乱れ、その特異な匂いを漂わせていた。Sに続いて玄関に入ると、いきなり正面の立屏風の虎が目に飛び込んだ。真赤な口をクワッと開いて、金色の眼が私をにらんでいる。不用意に飛び込んでしまった武家屋敷、私にはそんな第一印象があった。
「ただいま、私よ」
 Sの声に出てきたのは、和服の似合う上品な婦人だった。
「男の子、拾ってきちゃった。泊めてやって……」
 Sの陰に小さくなっていた私に、婦人は頬を綻ばせた。
「まあまあよく。このハネッ返りの母でございます。さあ遠慮しないで、どうぞ」
 こうして通された青畳の匂う十畳に、私は一人ぽつんと取り残された。Sはなかなか出てこない。紫檀の卓子の上には漆塗りの菓子皿に厚切りの羊羹がひと切れと、真白に粉をふいた干し柿が、ふっくらと置かれていた。Sの母の人柄とこの家の品格のようなものに気押しされて、私は茶菓に手が出ない。
 お茶だけ飲むと、いっぱしの芸術品に見える羊羹の黒ずんだ紫を見つめているだけだった。
 二十分もそうしていただろうか。静かに襖(ふすま)が開いて、黄八丈に濃紫の帯を締めた娘さんが手をつかえた。私はびっくりして座布団から跳びすさったが、ゆっくり顔を上げた娘さんはまさしくSだった。
「エヘヘ」と笑うと、Sは言った。
「どうだ、驚いたか! 見違えるほど女らしいだろう」
 強要されては、お世辞にも女らしいとは言えなかった。
「うん、驚いたよ。やはり姉さんも女か? 化け方がうまいや」と、やっと切り返した。
 しかし白粉気こそなかったが、紫の三尺が似合う娘らしい娘だったのである。Sはずかずかと私の隣にきて足を崩すと、「何さ、まだ食べてないの。お腹空いているんだろう」と言った。
「だって、この芸術品みたいなの、なんとなく手が出ないよ」
「馬鹿ね。それ、私が買ってきた虎屋の羊羹だよ。干し柿は母の手製。食べなさいよ。後でお腹の膨らむもの作ってやるからさ」
「あーあ、やんなっちゃうなあ。姉さんは雰囲気も何もぶっ壊しだよ」
「言うわね。何さ、借り物の猫みたいに……。そんな柄じゃないだろう」
「えーえ、どうせ捨て猫ですよ」
 私は羊羹を頬張った。何を隠そう、ぺこぺこにお腹が空いていたのである。
 空け放された庭の木立越しに海が見えていた。母屋の左手は鉤の手に曲がって、レンガ造りの洋館である。白いレースのカーテンが風にそよいでいる。広い庭だった。芝生に花壇が切ってあり、洋館に沿って浜木綿(はまゆう)が白い花を咲かせていた。
「いいなあ……。こんな所に僕も住みたいよ」
「いいもんか、こんな家、非能率的で……。でも花は奇麗でしょ。母はこのお花を切って、毎日のように父のお墓に供えるのよ。島の習慣だけどね。お墓の花は絶やさないの。後でお墓に行ってみようよ」
 その夜、私は生前の父上が使用していたという洋館のベッドに寝かされた。マントルピースの上の古いモデルシップが落ち着いた雰囲気を漂わせ、久しぶりの深い眠りに私を誘ったのである。


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Posted by 松田まゆみ at 17:01│Comments(0)トベラの島
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